第1章 第1話 元カノ その5

「コンビニってやっぱり偉大。デザートまでより取り見取りなんだもん」

「どれだけ食べようとあなたの勝手だけど、国民の血税を食べているという事、忘れないでね」

「なんでそう、ご飯が美味しくなくなる事いうかなぁ」

 深月の苦言にうてなは肩を竦めるが、さりとて気にする様子もなく、デザートのケーキを至福の表情で平らげる。

 おおよそ二千円に相当する食料は、これで全てうてなの体内に収まった。それに比べたら、深月の食事は一般的な範囲だった。

「って言うか、労働の対価みたいなもんなんだから、血税云々言わなくてもよくない?」

「報酬から差し引かれてもいいのなら、それでも構わないけど?」

「それはそれ、これはこれ。なんだっけ? 経費ってやつでなんとかなるんでしょ?」

「あなたが必要以上に食べなければ、ほんの僅かとは言え税金の節約になるのよ」

「なら大丈夫。必要な分しか食べてないから、うん」

 パートナーの飄々とした態度に、深月は目頭を揉みほぐす。

 能力的な点で言えば人選は間違っていなかったが、それ以外の点では難があったと認めざるを得ない。

「いいから、食べ終わったのなら監視に集中して」

 平行線が続きそうな話題は打ち切り、モニターを指し示す。

「りょーかい」

 軽い足取りでモニター前に向かう背中を横目に、深月はタブレットを立ち上げる。

 監視任務はうてなに任せ、自身は本部への報告を済ませ、新たに上がってきた誘拐犯に関する情報に目を通す。

 とは言っても、さしたる進展はない。

 実行犯であるあの少女の足取りは掴めず、今日の任務中にうてなが制圧した男たちからも、今のところ情報は得られていない。

 うてなも言っていたが、雇われただけの彼らから有益な情報が得られるとは、深月自身も考えてはいなかった。

 施設に連行された彼らに尋問は行われるが、十中八九成果は得られないだろう。

 また、安藤龍二が狙われる理由についても謎のままだった。

 丸一日かかって何の情報も得られない事など、通常では考えられない。彼女が属している組織ならば、そう難しい事ではないはずだ。

「情報部の人たちのほうがさ、税金泥棒なんじゃない?」

「情報取集で彼ら以上に優秀な部署は、少なくとも国内には存在しないでしょうね」

「その優秀な方たちが集まって、成果なしですか」

 任務の内容に興味のなさそうなうてなですら、その事を疑問に思っている。

 深月からは背中しか見えず、うてなの軽い口調から判断するしかないが、そこには不信感があるように思えた。

「理由がわからないのは、理由がないからかもしれないわね」

「なんじゃそりゃ」

「人違いかもしれない、という事よ」

 可能性として、完全にないとは言い切れない、ただそれだけの話だ。

 うてなもそれがわかっているのか、適当に相槌を打つだけだった。

「ねぇ、もしかしたら……いや、やっぱいいや」

「そう」

 何かを言いかけてやめたうてなを、深月は追及しようとはしなかった。

「明日の昼間は、寝てていいんだよね?」

「えぇ。徹夜して貰うんだから、その分はこちらでカバーするわ。下校時刻までには配置についてくれさえすれば、ね」

「ギリ八時間眠れる、かなぁ?」

「この任務が終わったら一度、正式な訓練を受けるべきかもしれないわね」

「ぜーったいイヤ。どうせ私に来る任務なんて、私向きのやつだけでしょ?」

「今回がイレギュラーである事は認めるわ。けど、あなたがちゃんと訓練を積めば――」

「その気はないんで……っと、お?」

 自室に戻った龍二の監視をしていたうてなが、楽しそうな笑みを浮かべて振り返る。

 タブレットから視線を上げた深月は、手招きするうてなの隣に移動して監視モニターを覗き込む。

 そこに表示されているのは、安藤家に仕掛けられた監視カメラの映像の他に、龍二の携帯端末の画面もある。

 龍二は気づいていないが、昨夜、気絶した彼を自室に送り届ける際、監視装置付きの端末と交換済みだ。

 見た目は同じで、データも完全に移し替えてある。監視するためのプログラムは初めから実装されているので、彼が自力で気づく事は不可能だ。

「今カノが元カノについて知りたがってますよ。これ、修羅場?」

「付き合ってはいないそうだけど、気にはなるようね」

「あれで付き合ってないとか、信じられないけどなぁ」

 漫画でしか知らないけどさ、とうてなは呟いて砂糖とミルクが多めのコーヒーに口をつける。

 深月も特に答える事はなく、画面を注視していた。

「お? 今度はなんか検索してる……エージェント、女子高生……これって、私たちの事調べてるつもり?」

「でしょうね」

「ま、わからなくはないけどさ」

 愚行とも言える龍二の調べ方を笑うでもなく、うてなは静かに眺める。

「私、彼と話してくるわ」

 モニターを見ていた深月はそう言って、うてなの肩に手を乗せる。

「あなたは周辺の監視をしておいて」

「明日でもいいんじゃないの?」

「いえ、言い忘れていた事があったから。少しの間、よろしく」

 足早に二階へと向かう深月に頷き、メインモニターに表示する情報を、安藤家の周囲に設置してある監視カメラの映像へと切り替えた。

 深月は就寝用の部屋に立ち寄り、テーブルの上に置かれた小さな箱を手に取る。

 中身を確認した深月は、そのまま部屋を出て安藤家と隣接する部屋へ行き、ベランダに出る。

 そこから龍二の部屋にあるベランダまで、飛び移ろうという目論見だ。

 一般的な身体能力の持ち主であれば、満足に助走できないこの場所から飛び移るのはほぼ無理だろう。

 だが、深月の身体能力であれば問題はない。

 ベランダからベランダへ、ふわりと舞うように深月は飛び移る。

 カーテンの隙間から漏れ出す光へと、音もなく近づく。

 窓に寄り添うように立ち、部屋の中を覗き込む。

 携帯を操作している龍二の背中を、深月は黙って見守る。

 時間にしてそれは、十秒にも満たない時間だった。

 不意に龍二がベッドに倒れ込み、窓から室内を覗いている深月と目が合った。

 その瞬間に上がった情けない悲鳴は、ベランダにいた深月にもしっかりと聞こえた。


「悪かったわね、驚かせたようで」

「いや、うん。こっちこそ、大袈裟に驚いちゃって、ハハ」

 悲鳴を上げはしたものの、すぐに深月だと気づいた龍二は、彼女を部屋に招き入れた。

「って言うか、どうやって?」

「向こうのベランダから。裸足でごめんなさいね」

「それはいいんだけどさ」

 裸足かどうかよりも、さも当然のようにベランダから、と言い切る彼女にこそツッコミを入れたくなる。

「僕の見間違えじゃなかったらなんだけど、隣の家に住んでるの?」

「えぇ。あなたの護衛と監視をするのなら最適だから。もちろん、あなたの部屋で一緒にすごすのが最善ではあるけど、さすがにそれは困るでしょう?」

「そりゃあね、うん。その程度の常識はあって何よりだよ」

 安心するハードルが今日一日で、随分と下がったものだと龍二は苦笑する。

「えっと、住んでるって言うのは……」

「前の住人の事なら大丈夫よ。父親の栄転に合わせて、急な引っ越しをしただけだから。空いたばかりの家を、私たちは作戦基地として使っているの」

「なんか、学校でも似たような話を聞いた気がするなぁ」

 隣の席だけではなく、まさか隣の家までそうなるとは想像もしていなかった龍二は、驚きを通り越して半ば呆れていた。

 彼女たちの非常識さと、尋常ならざる行動力に。

「ホント、何者なのさ?」

「あなたを守るエージェントよ」

 彼女なりのユーモアなのか、どこかからかっているような声色だった。

「そうだったね。で? そのエージェントさんがこんな時間にどうしたの?」

「あなたと少し、話しておこうと思って。私たちの事、気になっているでしょう?」

「当然だよ。でも、僕には知る権利がないってまた言うんでしょ?」

「えぇ。でも、少しくらいなら知っておくのもいいかもしれないと思って……座っても構わない?」

「あ、あぁ、どうぞ」

「ありがとう」

 そう言って微笑を浮かべた深月は、ベッドに腰かける。

 女子がそこに座っているという事実が、龍二を落ち着かない気持ちにさせていた。

「の、飲み物とかいる?」

「必要ないわ。いいから、あなたも座って」

「あぁ、うん」

 深月に促された龍二は、一瞬迷った末にベッドではなく、椅子に座った。

 落ち着け、と自分に言い聞かせるように深呼吸をして、深月を見据える。

「それで、どういう心境の変化?」

「なんて言うか……信頼を得るのも、護衛の務めかもしれないと思ったのよ」

 手にした箱を弄ぶように転がしながら、深月は静かに話す。

「でも、実際に話せる事なんてないに等しいの。私たちが属している組織は、公にはされていないから」

「まぁ、君みたいな女の子がエージェントをしてるような組織が、普通なわけないよね」

「えぇ、普通ではないわ。ただ、その力や影響力は絶大なものよ。それはなんとなくわかっているんじゃないかしら?」

「いきなり栄転する家族が二つもあればね」

 龍二を護衛するためにそこまでする必要があるかはともかく、即日実行してしまえる組織の力は計り知れない。

 だからこそ、なぜ自分がという疑問が龍二の中では大きくなる。

「仕事……任務に関する事は答えられないけど、私個人に関する事なら、少しは答えられるかもしれない」

「なんだか他人事みたいな言い方するね」

「あなたが私の何が知りたがるかわからないから。薄々気づいているかもしれないけど、私はその、一般的な生活とはかけ離れた生き方をしてきたの。普通の学校に通うのも、今回の任務が初めてで。もちろん、知識としては知っているけど」

「学校が初めてって、義務教育はどうなってるの?」

「それは、想像にお任せするわ」

「答えられないって事か」

「察しが良くて助かるわ」

 最初よりもいくらか柔らかくなった深月の声に、龍二も自然と口元が綻ぶ。

 その穏やかな空気と態度が、ここにいるのは任務ではないと感じさせる。

「他には? なにかある?」

「うーん、どれもこれも結局、守秘義務に引っかかりそうだなぁ」

「……そうかもしれないわね」

「じゃあ、好きな食べ物とかは?」

「特には」

「逆に嫌いな食べ物は?」

「特には」

「なにかあるでしょ? 辛いのが苦手とか、熱いのが苦手とか」

「考えた事もないわね。栄養補給ができるのなら、なんでも構わないわ。任務に支障をきたしたら困るから」

「任務じゃなくてプライベートでもないの?」

「ないわね」

 当然のように言い切る深月に、龍二は信じられないと肩を竦める。

「じゃあ、趣味とかもないの?」

「ないわ」

「えぇ? じゃあなんならあるのさ?」

「……さぁ?」

 それじゃあ答えるための答えがないじゃないかと、龍二は椅子にぐったりと背中を預ける。

 ズレているとは思っていたが、それは間違いだったと気づく。そんな生易しいものではない。

「君って、不思議な人だね」

「そうかしら?」

「そう答えるところがね、うん」

 参ったな、と龍二は頭を掻く。

「信頼を得るには至らなかったようね」

 僅かに沈んだ声で呟く深月に、龍二は慌てて話す。

「いや、そんな事はないよ!」

「でも――」

「確かにわけのわからない事だらけだし、君の事も結局よくわからないままだけど、それでも信じて貰おうとしてくれたっていうのはわかったから」

 明らかに普通ではない少女の、どこか危うい不器用さに、張りつめていた感情が緩んでいく。

「信じてくれるの?」

「君が真剣だっていうのはわかってたしね。それに一度、君たちには救われてるから」

 誘拐された時の事の恐怖は、まだ鮮明に残っている。

 だが、恐怖を感じると同時に、助けが来た時の安堵も覚えていた。

「そうだ。大事なこと忘れてた」

「なに?」

「えっと、今更だけどさ……助けてくれて、ありがとう。本当に感謝してる」

 あまりにも唐突な再会で、その機会を逃していたと龍二は照れくさそうに笑う。

「私たちは任務をこなしているだけよ」

「そう言うと思ってた。でも、助けてくれたって事実は変わらないから」

「それであなたの気が済むのなら」

「うん」

 屈託のない龍二の笑顔につられるように、深月の頬が緩む。

 年相応なその表情に、龍二の心拍数が僅かに上昇した。

「あー、えーっと……そう言えばそれ、手に持ってる箱はなに?」

 気恥ずかしさを誤魔化すために、龍二は深月が手にしている箱を話題に上げる。

「これは、そうね……あなたへのプレゼント、かしら」

「へ?」

「いいから、開けてみて」

 予想外の答えに驚く龍二に、半ば押し付けるように箱を渡し、中を確認するよう促す。

「僕に?」

「えぇ」

「そ、そっか。ハハっ、なんだろう」

 頬の紅潮に加え、声まで上擦ってしまう事を恥じつつ、龍二は渡された箱を開ける。

 中に入っていたのは、腕時計だった。

「これって……」

「プレゼントよ」

「いや、貰えないよ! 見たことないデザインだけど、なんか高そうだし」

「いいから、受け取って。あなたのために用意したんだから。貸して、つけてあげる」

 そう言って深月は、戸惑いを隠せない龍二の左手首に腕時計を装着する。

「あまりファッションには詳しくないけど、似合っている気がするわね」

「う、うーん、僕もよくわかんないけど……」

 自身の腕に巻かれた腕時計を、龍二は興味深そうに色んな角度から眺める。機械的な意匠が施された腕時計は、彼の心をくすぐるものがある。

「本当に貰っていいの?」

「受け取って貰えないと困るわ」

「そ、そう? じゃあ、ありがたく貰っておこう、かな」

 子供のように目を輝かせる龍二の腕に、深月が手を添える。

「な、なに?」

「使い方を説明するから、覚えて」

「使い方?」

「そう。基本的にこの時計は常に身に着けておいて。防水機能は完璧だから、お風呂に入る時も大丈夫」

「う、うん?」

 先ほどまでの柔らかさがなくなり、淡々と説明する深月に、龍二の表情がこわばる。

「もし外す時は、このボタンを押して、次にここを二回押す。そしてここを引っ張ってから、最後にこの部分を捻る。こうすれば安全に外す事ができるから」

「安全にってどういう事⁉」

 嫌な予感を裏付ける不穏な単語に、ほのぼのとした感情が一気に吹き飛ぶ。

「大丈夫。爆発はしないわ」

「それ、わざわざ大丈夫って言う事じゃないよね?」

「今の手順を踏んでから外さないと、私たちの端末にアラートが飛ぶだけよ」

「え、なにその監視装置みたいな機能」

「話が早いわね。その通りよ。これはあなたの居場所と安全を確認するための装置でもあるの」

 さらりと告げられる問題発言に、龍二は目を見開く。

「じゃ、じゃあこれは僕を監視するための物って事?」

「あなたの安全を確保するための物、ね」

「同じじゃないか! まさかこれ、盗聴機能とかついてたりはしないよね?」

「もちろん、ついているわ」

 当然でしょう、と悪びれる様子のない深月に、龍二は両手で頭を抱える。

 普通のプレゼントだと思って一瞬でも喜んだ自分の馬鹿さ加減に、上手く言葉が出てこない。

 懊悩する龍二が落ち着くのを、深月はただ黙って待つ。

 およそ一分ほどで、龍二はため息を吐いた。納得したというよりは、諦めたのだろう。

「わかった。わかりたくないけど、わかった」

「良かったわ。手順は大丈夫?」

「えーっと、うん。こうしてこうして、ここを引っ張って……こう」

 あの状態でしっかりと手順を覚えていた事に、深月は少なからず驚く。もう一度くらいは説明が必要だろうと思っていたが、その必要はなかった。

「それで、何か質問はある?」

「質問……あ! さっき、アラートがどうとか言ってたけど」

「言葉通りの意味よ。不正な手順で外された場合、私たちの端末……この携帯に通知が来る仕組みになっているの」

「そのアラートが鳴ったら、どうなるの?」

「もちろんすぐに駆け付けるわ」

「だ、だよね。でも、毎回あの手順は面倒だなぁ。うっかり忘れそう」

「安全のためにも、普段からつけたままにしておいてくれればいいわ」

「う、うーん」

「一応言っておくけど、もしアラートの通知がくれば、時間も場所も関係なく、必ず駆けつけるから。もしあなたがうっかりした場合の誤報であろうと、あなたの所在地がトイレであろうと浴室であろうと、それは変わらない」

「トイレまで⁉」

「当然でしょう? あなたが鍵をかけて安全だと言っても、必ずこの目で直接確かめるから。どんな手段を使ってでも……わかった?」

「とんでもないプレゼント、ありがとう……」

 龍二は苦虫を嚙み潰したような顔で、腕時計を改めて眺める。一時は格好良く見えた腕時計も、今となっては呪われたアイテムに見えてしまう。

 急降下したテンションのまま、龍二はとりあえず腕時計の外し方を再確認する。

 一つ一つ間違えないように注意しつつ、問題なく腕時計の呪いは解除された。

「確認は済んだでしょう? ならすぐに付け直して。机に置いていては監視装置の意味がないわ」

 さりげなく外したままにしようとした龍二だが、事務的な深月の声に釘を刺される。

 拒否されるとは欠片も思っていない深月に対して、何か意見できるほどの胆力を龍二は持ち合わせていなかった。

 渋々頷き、首輪も同然の腕時計を左腕につけ直す。

「それじゃあ、私は戻るから。眠っている間も、つけたままでいてね?」

「わかってる……はぁ」

 ため息を吐いてうな垂れる龍二の携帯が、メールを受信して鳴動する。

 表示されている差出人は案の定、逢沢くのりだ。

 メッセージアプリが既読にならない事に痺れを切らし、メールを送って来たのだろう。

 電話ではなく、あえてメールを送って来たところが、龍二の背中を冷たくする。

「相手は、逢沢くのり?」

「あぁ、うん。なんだろうね、ハハっ」

 メールを開封する手を止めたまま、龍二は乾いた笑いを漏らす。

 ベランダに出ようとしていた深月は、窓辺に立ったまま龍二を見る。

「一つ、言い忘れていたわね」

「まだ何かあるの? これ以上、悩みの種は増やしたくないんだけど」

「彼女……逢沢くのりとはしばらく、距離を置くべきよ」

「え? それ、どういう意味?」

 完全に想定外の事を言われた龍二は、眉根を寄せる。

「そのままの意味よ。一緒に行動していればそれだけ、彼女が巻き込まれる可能性があるわ」

「そ、そんなまさか……」

「相手も公にはしたくないようだから、そうそう強引な手段は取らないはずよ。でも、追い詰められた場合、そういった手段を取る可能性は出てくる。それはわかるわね?」

「ま、まぁ、言いたい事はわかるけど……」

「もちろん、その前に相手の大元を叩くつもりよ。でも、絶対とは言い切れない。相手の出方次第ではあるから」

 淡々と告げる深月の言葉に、先ほどまでとは別の意味で背中が冷たくなる。

「で、でも、君が守ってくれるんだよね? だったらくのりも一緒に守ってくれれば」

「えぇ、もしそうなっても、可能であれば彼女も助けるわ。護衛対象じゃないからと言って、見捨てるつもりはない」

「じゃあ――」

「でも、あなたを守るのが最優先。これは変わらない」

 一瞬の安堵をする間もなく、無機質な事実を突きつけられ、龍二の表情が曇る。

「少しでもあなたに危険があると判断したら、その時はあなたの安全を最優先に、私たちは行動する」

「そんな事言わないでよ……」

「それが私たちの任務なの」

「……で、でもさ、やっぱり考えすぎじゃないかな? なんで僕を狙ってるか知らないけど、そこまでする価値があるとは思えないし」

「価値を決めるのは、あなたではないわ」

 僅かな希望すら断ち切るように、深月は冷徹な言葉で告げる。

「そして巻き込まれる可能性があるのは、逢沢くのりだけじゃない。この家の人たちだって、例外ではないの」

「……なんだよ、それ」

「ごめんなさい。でも、そういう可能性もあるのは揺るぎない事実よ。相手がもしあなたに、それだけの価値を見出しているのなら、十分考えられる」

「嘘だろ……ホント、なんなのさぁ」

 力なく椅子に座り込み、龍二は両手で顔を覆う。

 どこか気楽に考えていた部分がなかったと言えば嘘になる。現実味のない話ばかりで、危機感を覚えろという方が難しい。

 だが、周囲の人間が巻き込まれるという可能性を知らされ、それを想像した時、不確かだった不安が急激に膨れ上がった。

 現実味はまだない。

 それでも、くのりや家族が巻き込まれるかもしれないという不安と恐怖は、誘拐された時以上に強烈で、無慈悲なものだった。

「だから、そうね……特に放課後は、一緒に行動しない方が賢明よ。襲撃される可能性が高いのは、登下校時だから」

「……校内なら、大丈夫なのかな?」

「いえ、校内では迅速に援護を受けられないの。だから、危険度としてはあまり変わらないわ。だから、極力関わらないのが賢明よ」

「そう、なんだ……」

 気落ちする龍二を見つめたまま、深月は喉まで出かかった言葉を呑み込む。

 すでに逢沢くのりが彼にとっての弱点となり得ると、誘拐犯は知っているだろうという事。

 一緒に行動しなければ巻き込まれない訳ではない。別行動するからこそ、人質として彼女が誘拐されるかもしれない。

 その可能性を深月は予測しているが、龍二に告げる気はなかった。

 ただでさえ不安に駆られている龍二を、さらに追い詰める事にしかならない。

 不安を煽るだけの可能性を、これ以上示唆するのは得策ではない。

「私たちも全力を尽くすわ。だからあなたも、可能な範囲で協力して欲しいの。逢沢くのりを巻き込まないためにも」

「…………うん」

 がっくりと肩を落とした龍二は、掠れた声で頷く。

 意気消沈する龍二に何か声を掛けようとして、何を言えばいいかわからず、深月は押し黙る。

「龍くーん? 入るよー?」

「――えっ?」

 ノックもなく突然開いたドアに驚いた龍二は、弾かれるように立ち上がろうとして失敗し、その場で転ぶ。

「ちょ、りゅ、龍君⁉ 大丈夫?」

「えっ、あっ、ね、姉さん⁉ いや、あのこれは――あ、あれ?」

 転んだ痛みも、直前まであった抱えきれない暗澹たる思いも忘れ、龍二は深月の存在について弁明しようとした。

 だが、窓辺にいたはずの深月の姿はなく、僅かに窓が開いていただけだった。

 声を掛けられずにいた深月は、近づいて来る奏の足音に気づき、すぐに窓からベランダへと出て退散していた。

 すでに彼女はいないという事実を認識するのに手間取った龍二は、しどろもどろになって奏の不信感を買ってしまう。

「ごめんね? ビックリさせちゃった?」

「そ、そりゃあね。ノックくらいはして欲しかったかな」

 心配そうな顔で差し出された手を借り、龍二は笑いながら立ち上がる。

「お風呂あがったから、龍君に声をかけようと思って」

「あぁ」

 風呂から上がったばかりなのは、彼女から漂う独特の甘い匂いとその姿から察する事ができた。

 上質な生地でありながら、シンプルなデザインの寝巻に身を包んだ奏は、普段よりも少しだけ幼く見える。

「それじゃあ、僕も風呂に――」

「はいストップ」

「え?」

 着替えを手に部屋を出ようとする龍二の肩を、奏ががっちりと掴む。

 彼女の意図が全く掴めず、龍二は何度目になるかわからない間抜けな声を上げた。

「あの、姉さん? 呼びに来てくれたんじゃないの?」

「えぇ、そうです。でも、それとはまた別に、確認しなくちゃいけない事ができてしまいました」

 奏の口調がよろしくない方向にシフトしている事に気づいた龍二は、なんとか回避できないものかと思考を巡らせる。

 が、すでにスイッチが入ってしまっている奏は、それすら許してくれない。

「先ほど、龍君の部屋から何やら話し声のようなものが聞こえました」

「えっ⁉ あ、いやっ、それはね!」

「お姉ちゃんは、くのりちゃんと電話でもしているのかと思い、廊下で耳をすませて待つ事にしました」

「なんで耳をすませる必要が……」

「二人の邪魔をしてはいけないという配慮です。それ以外の理由はありません」

「そ、そう……」

 聞かないようにするという配慮がなぜないのか、とは口にできない。

「ですが、お姉ちゃんは気づきました。電話であれば、女の子の声だと判別できるほど聞こえるはずがないのです。スピーカーで会話をしている可能性もありましたが、それにしては鮮明に聞こえました」

「どれだけ近くで聞いてたの?」

「会話の内容はよくわかりませんでしたが、なんだか不穏な気配をお姉ちゃんは感じました。だから思い切って、ノックをせずに部屋に入ったのです」

「なんでそうなるのかな……」

 悪びれる様子もない奏に戸惑いつつ、深月と話していた内容を知られていなかった事には安堵する。

「というわけで、携帯をチェックします」

 だが、状況としてはまた別の方向に悪化していると言っても過言ではなかった。

「な、なんでそうなるの?」

「なにか問題がありますか? チェックされてはマズいとでも?」

「い、いや、そうじゃないけど……ねぇ?」

「ならチェックします。さ、出して下さい」

 奏は片手を腰に当て、携帯を出せと手のひらを見せる。

 じっとりと容疑者を見るような視線に、またしても龍二の背中を冷や汗が伝う。

「な、何を疑ってるか知らないけど、たぶん姉さんの考えすぎか勘違いだから、うん」

「それを確認すると言っているのです。それとも、やっぱりやましい事があると?」

「やっぱりって……な、何を疑ってるのさ?」

「それは……だ、だから……りゅ、龍君が携帯でその……い、いかがわしい動画を見ていたのではないかと!」

 奏の言葉に思わず龍二は吹き出してしまう。そんな疑いをかけられているのかと、龍二の顔が赤くなる。

 いかがわしい動画などと口にした奏も、そういった方面への免疫がなく、思いきり赤面していた。

「ご、誤解だよ! ないから! 違うから!」

「だだ、だったらチェックしても大丈夫でしょ? ほ、ほらっ、見せて!」

「あっ、ちょっ、ね、姉さんっ!」

 龍二の腕に抱きつくような格好で、奏が携帯を取り上げようとする。

 実力行使に出られると思っていなかった龍二は、反射的に携帯を守ろうとしていた。

 それがますます奏の疑いを強める事になり、何としてでもチェックしようと決意させてしまう。

 結果は、龍二の圧倒的敗北で終わる。

「まったくもう……」

 携帯の争奪戦に勝利した奏は、未だ赤い顔のままで、龍二の携帯をチェックし始める。

 一方、負けてしまった龍二は頭を掻きつつ、熱くなった顔を冷まそうとしていた。

 力比べであれば携帯を奪われる事などなかったが、文字通り体当たりで奪いに来る奏が相手では分が悪かった。

 一切の加減もなく抱きついてくる奏の柔らかな感触だけでなく、風呂上がりの匂いまで一緒に襲って来られては、なすすべなどなかった。

 家族として見られているからこそ遠慮がなく、奏本人は気にしていないのかもしれないが、年頃の男子である龍二にとってはそうではない。

 たった今感じた様々な感触を忘れるように、龍二は両手で頬を軽く叩く。

 その間に携帯をあらかたチェックした奏は、まだ疑いの残る視線を向けてくる。

「べ、別におかしいなところはなかったでしょ?」

「女子高生、エージェントっていう検索履歴が残ってたけど?」

「そ、それはあのっ、いかがわしい意味じゃないから! ほらっ、漫画とかドラマとかでそういうのないかなーって調べてただけでさ!」

「……まぁ、検索結果を見る限り、そんな感じだね」

「でしょ? だから姉さんの勘違いだって、ハハハ」

「でも、確かに女の子の声がした。だからてっきり私、龍君がそういうのを見てるんじゃないかって……」

「見てない見てない」

「動画のフォルダとかも、それっぽいのはないみたいね」

「当たり前でしょ。って言うか、そんなとこまで確認したの?」

「だって、最近の男の子はそういうものだって、友達が言ってたし」

「皆が皆そうじゃないって」

「…………じゃあ、龍君は? どこに隠してるの?」

「僕は…………いや、ないから」

 思わず言いかけた言葉を気力で呑み下し、龍二は笑う。

 微塵も疑いが薄れていない視線が、これでもかと突き刺さる。

 この上なくデリケートな問題を追及しようとする奏の目が、困ったように頭を掻く龍二の左手首に止まる。

「龍君、そんな時計、持ってた?」

「えっ? あぁ、これね。これはその、なんて言えばいいのかな」

 咄嗟にそれらしい嘘が思いつかず、龍二は困り果てる。プレゼントだと素直に打ち明けたとしても、誰からのプレゼントなのかと追及されるだろう。

 かと言って、深月の名前を出すのは更なる追及の種になるだけで、事態が好転するとは思えない。

 そもそも、この時期にプレゼントを貰う理由が龍二にはなかった。奏と違い、龍二の誕生日はまだ先の話だ。

 言い淀む龍二の態度は、奏の不信感を更に煽ってしまうだけだった。

 結果として、龍二の携帯を手にしていた奏は、そのメールに気づいてしまう。

「……ねぇ龍君。くのりちゃんからメール、届いてるみたいだよ」

「あ、そ、そうなの? じゃあ返信しないとなぁ。だからその、携帯、返してくれる?」

「質問に答えてくれたら、すぐに返すね」

「し、質問、ですか……なんでしょう?」

 いい笑顔を向けてくる奏に嫌な予感を覚えるが、今は逃げ出せる状況ではない。

 ゴクリと唾を呑み込み、奏が繰り出す一撃に備える。

「くのりちゃんのメールにある元カノって、なに?」

 先送りにして回避したはずの問題が、奏という絶対的な援軍を得て戻って来る。

 くのりと奏が同時に追求してくるのだとしたら、その威力たるや二倍では済まない。

 姉さんには関係ないよ、などと口にしようものなら、奏の機嫌を激しく損ねるのは明白だ。

 一度そうなってしまったら、問題は更に複雑かつ解決困難になってしまう。

 かつて、些細な事で奏での機嫌を損ねてしまった経験を持つ龍二はよく知っている。

 もう二度と、あのような事態にはならないようにしようと、固く誓っていた。

 だからこそである。

 絶望的なまでに膨れ上がった元カノ問題を前に、龍二は考える事をやめたくなる。

「もしかしてその時計、元カノ、とかいう子に貰ったのかな?」

 だが、なんとかしなければならない。ただその一心で、脳裏に浮かんだ案に賭ける。

「違う違う! 色々誤解なんだよ! この時計はさ、父さんからの贈り物なんだ」

「え? こっちに戻ってるの?」

「あ、いや、帰って来た時に丁度運送屋さんがね、持って来てて。僕宛てだったから、その場で受け取っちゃったんだよね」

「そうだったんだ、ふーん」

 父親からの贈り物というのは説得力があったのか、奏はあっさりと龍二の言い分を受け入れた。

 本当の事を言えないとはいえ、結果的に嘘をついてしまった事に、龍二は苦い気持ちを覚える。

 奏に疑う様子がない事も、それを助長させていた。

「良かったね。似合ってると思うよ、その時計」

「そうかな? 普段つけてないから、まだ慣れないんだけど」

「前々から思ってたんだよね。龍君はもう少し、ファッションに気を遣ってもいいんじゃないかなって。だからその時計は、いいと思う」

「えっと、ありがとう」

 似合っていると言われて悪い気はせず、龍二は照れくさそうに頬を掻く。

 とりあえず、これで問題は解決した。

「で? 元カノって、なに?」

 などという事はなく、むしろ本命はこちらだと言いたげな笑顔で、奏が一歩前に出る。

 印籠のように見せつけられる携帯の画面には、くのりが送ってきたメールが表示されていた。

 シンプルな文面から、見えない圧力が伝わって来るようだ。その圧力の一端は、携帯を手にして見せつけている奏にもある。

 奏に知られてしまったという事は、自宅にいても元カノ問題からは逃げられないという事だ。

「くのりちゃんに返信、するんだよね? お姉ちゃんが代わりに入力してあげるから、詳しく説明してくれるかな?」

 音を立てて退路を塞がれていくような気分を、龍二は味わっていた。

 自身に落ち度のない、巻き込まれただけの嘘に龍二は追い詰められる。

 嘘をついた当人が説明をしてくれれば、などと思うが、すぐに却下する。事態を悪化させるのは、火を見るよりも明らかだ。

 思い付きや更なる嘘を重ねてどうにかできる気がしない。

「お、お風呂入ってくるから! その後で!」

 そう悟った龍二は、逃げの一手を打つ。

「あっ、逃げるなー!」

 後ろ向きな逃亡ではない。浴室に籠城し、その間に稼いだ時間で打開策を考える。

 そう自分に言い聞かせ、龍二は浴室へと逃げ込んだ。


「なんか、修羅場ってるみたいだけど、どうする?」

「下手な事は言わないでしょうし、彼に任せましょう」

「ま、だよね」

 モニターの中では、奏が笑顔で龍二を追い詰めていた。

 あの程度であれば切り抜けられるだろうと判断し、深月はリビングに置いておいたタブレットを回収する。

「上に戻るから。何かあれば、その時は連絡して」

「まさか、もう寝るの? 早くない?」

「すぐには寝ないわ。まだ終わっていない報告もあるし、上層部に掛け合っておきたい事もあるから」

「さすが、仕事熱心」

「あとの監視は任せるから。朝は……そうね。四時に交代しましょう」

「あれ、思ったより早い。いいの、そんな時間で?」

「その代わり、最後の授業が始まる時間までには監視地点に来て貰うわ」

「オッケー。それならぐっすり眠れる。ついでに、買い出しもできるかなぁ」

「何をしようと勝手だけど、遅刻は厳禁よ?」

「わかってるって」

 本当にわかっているのか、と釘を刺すべきか数秒悩み、結局は何も言わずに深月は部屋に戻る事にした。

 やるべき事はいくらでもある。

 早急に必要なのは、現代女子高生のあるべき姿、そのリサーチだ。

 このままうてなのアドバイスを当てにしていては、任務にも支障をきたす。

 それが、任務初日を終えて深月が出した、一番の問題だった。


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