第1章 第2話 信頼 その1
護衛つき生活の二日目は、当然のように朝から龍二を悩ませた。
ただの誤解、宿題があるからと誤魔化し続け、どうにか昨晩は奏の追及を逃れる事ができた。
だが、そんなものは一時的な先送りでしかなく、朝になったら疑惑が晴れる、などという都合の良い事も当然ない。
押してダメなら引いてみる作戦なのか、今朝の奏は終始素っ気ない態度で、龍二が観念して白状するのを待っているようだった。
お姉ちゃんは怒っていますとアピールすれば、龍二が折れるはずだという奏の思惑に、当然龍二も気づいた。
が、気づいているから素直に打ち明けられる問題ではなく、これ幸いと何事もなかったかのように龍二は振る舞う事にした。
それがますます奏の機嫌を損ねる結果になったのは、言うまでもない。
また姉弟げんかかしら、と微笑ましく見守る静恵に多少なりとも救われた気分になりつつ、元カノ問題には触れる事なく、龍二は家を出た。
行ってきます、と言った龍二に返事をしなかった奏の目は、若干潤んでいるようにも見えた。
心の中で謝罪しつつ、どうにか上手く説明しなければと龍二は考える。
問題は奏だけではない。学校に到着すれば、くのりにも説明しなければならないのだ。
なんとか登校中に妙案を思いつかなくては、と意気込んで玄関を出た龍二を、当たり前のように深月が出迎える。
「おはよう」
「お、おはよう……」
そりゃあいるよな、と頭を掻き、ハッとして後ろを振り返る。
玄関の扉は静かに閉じたままなのを確認し、龍二は胸を撫でおろす。
家まで出迎えに来ている女子の姿を奏にでも見られたら、面倒な事になっていた。
「と、とりあえず、早く行こう」
「えぇ」
大学へ行く奏と鉢合わせしてしまわないように、龍二は足早に家を離れる。
早歩きに近い速度にもかかわらず、深月は飄々とした表情のまま、龍二の隣を歩いていた。
「あ、ごめん。ペース、早いよね」
「もっと早くても、私は構わないけど?」
「いや、それは僕がちょっと……ここからは普通に歩こうか」
「えぇ」
少し汗をかいてしまっている龍二に対し、深月は涼しい顔で頷く。
ここまで来れば、深月と奏が鉢合わせする事もない。
そう安心して、龍二は学校へと向かった。
二人の間に、これといった会話はない。
深月から話しかける様子は一切なく、さりげない様子で周囲を警戒していた。
龍二は会話のない時間に居心地の悪さを感じてはいたが、知り合ったばかりの女子と日常会話を弾ませられるほど、場慣れしてはいなかった。
とりわけ仲の良いくのりが相手なら、また少し違ってくるが、それでも会話のきっかけをくれるのはくのりの場合が多い。
道中、考えるべき事柄があったのは幸いだった。
深月の事をいかにして穏便に説明するか。
その一点ばかりを考えていた龍二は、これから訪れる避けようのない問題を見落としていた。
「仲良く一緒に登校とは、恐れ入るわねぇ」
校門をくぐり、学校の敷地に入った瞬間だった。
ここまでくれば当然、知り合いに出くわす確率も数段跳ね上がる。
そしてその知り合いの中には、クラスメイトはもちろん、逢沢くのりも含まれる。
なぜそんな単純な問題を見落としていたのか、龍二は己の迂闊さを恨む。
もしかしたら、気付かないフリをしていたかったのかもしれない。
「お、おはよう」
「おはよ」
引きつった笑顔で挨拶をする龍二に、くのりは素っ気なく返す。その様子は、今朝の奏とどこか通じるものがある。
「おはよう、逢沢さん」
「ん」
老若男女問わずに見惚れてしまいそうな微笑を浮かべる深月に、くのりは小さく頷いて答える。
昨日よりも悪化している態度に、龍二はドッと汗が噴き出すのを感じた。
かれこれ二年ほどの付き合いだが、ここまであからさまな態度を取るくのりは、見た事がない。
何が彼女をそうさせるのか、考えると僅かに鼓動が速くなる。そこに含まれるのは、期待と不安が半々だ。
「あのさ、くのり。昨日のメールだけど」
「それはいい。もういい。全然怒ってないから。ホント」
半眼で淡々と話す様子は、怒りを通り越した結果なのだろう。あからさまにスルーされたのだから、当然だ。
「とりあえず、顔貸して? 二人で、話したいから」
そう言って親指だけを立てた手で、人気のない方を指し示す。立てた親指で首を切るような動作が含まれていた気がしたが、そこは全力で無視した。
「そういうわけだから、先に行ってて」
「うん、わかった」
「え? いいの?」
てっきりまた拒まれると思っていた龍二は、信じられないと聞き返す。
「逢沢さんの気持ちはわかるから。ちゃんと説明、してあげて」
「あ、う、うん」
その言い方は何か、新たな誤解を生みそうだと思いつつ、龍二は頷く。深月を説得せずに済むのなら、それに越したことはない。
「それじゃあ、先に教室行ってるから。またあとでね、龍二」
軽く手を振りながら、軽快な足取りで校舎へと深月は向かう。去り際に片目を閉じて微笑むという、不要なアクションがなければ良かったのに、と思わずにはいられない。
隣でそれを見ていたくのりの拳に力が入るのを、龍二は気づいてしまった。
「えーっと、どこで話そうか?」
「……体育館の倉庫」
「りょーかい」
登校する生徒の流れから二人は外れ、体育館のある方へと向かった。
「相変わらず埃っぽい……」
体育館脇の倉庫に入ったくのりは、目の前の埃を払いながら呟く。悪態のようにも聞こえるが、その声にはどこか温かみがあった。
そんなくのりの様子に、龍二は懐かしさを覚えた。
「で? どういう事? 奏さんにも頼まれてんだよねー、きっちり締め上げてって」
想い出に浸りかけていた龍二を、容赦のない現実が引き戻す。
「ね、姉さんに頼まれてるの?」
「当然。あんないいお姉さんを泣かせるなんて、最低だから」
「な、泣かせてないから! た、たぶん」
「ま、泣かせるは冗談だけど」
「勘弁してよ……」
針で突っつくような言葉で、くのりは溜飲を下げる。
なんとなく龍二もそれがわかっているのか、ため息を吐きつつも甘んじて受け止めていた。
「あの子はさ、なんて言うか……父さんの知り合い、みたいな感じなんだよね」
「父さんって、海外にいる?」
「そうそう。知り合いの子らしくて、僕を頼ってきたいみたい、なんだ。こ、この時計もさ、父さんから預かってきたらしくて」
苦々しく思いながらも、道すがら考えてきた言い訳を並べる。
「知り合いの子、ね。で? 付き合ってたの?」
「いやいや! それはないから! 会ったのは昨日が初めて!」
「じゃああの子……久良屋さんが嘘ついてるって言うわけ? どうしてよ?」
「それは僕にもよくわからないけど、なんか、ちょっと変わってるって言うか、思い込みの激しい子らしくてさ」
「思い込みが激しいと元カノとか言っちゃうの? 初めて会ったのに? ヤバくない?」
「い、いや、ヤバくはないんじゃないかなぁ?」
深月の評価が下がりすぎないようにフォローを入れるが、膨れ上がる不信感を和らげるには弱すぎる。
「仮にそうだとして、どうするの?」
「どうって?」
「元カノとかいう話。訂正しないつもり?」
「それは、うん。もうちょっと彼女の生活が落ち着くまでは、そっとしておいて欲しいかなって」
龍二の護衛が任務だというのなら、その必要がなくなれば深月はいなくなる。そうすれば諸々の問題は解決する。
だから龍二としては、極力二人が関わりを持たないまま、事件が解決するのを待ちたいというのが本音だ。
「彼女、複雑な事情があるらしくて。頼れるのが今のところ僕だけみたいなんだよ。だからさ、少しの間、大目に見てくれないかな?」
くのりは両腕を組み、龍二の話を吟味するように横目で見る。
「何を大目に見ればいいのか、さっぱりわからないんですけど?」
「それは、あははは……はぁ」
わかって欲しい、と力のない笑いで情に訴える。卑怯だと自覚しつつも、今の龍二にはそうするしかなかった。
「……はいはい。わかりましたよ」
「ほ、本当に?」
「とりあえず、元カノって話は嘘みたいだし。だったらまぁ、いいかなって」
「あ、気にしてるのはそこなの?」
「だったら? なんだって言うの?」
「いや、なんでもないです」
せっかく得られた理解を、下手な発言で台無しにしてはいけない。
「まったく、人騒がせな転校生ね」
「本当にね、はは」
肩の荷がいくらか下りた感覚に、龍二の口元が綻ぶ。
「でも、実際どうするの? なんか手伝える?」
「なに? まさか協力してくれるの?」
「ま、事情はわかったし。手伝える事があれば、だけどね」
誤解がとけた事で、くのりは敵対するような立場から協力する立場へと切り替えたようだ。
そういうスッパリと切り替えられる性格が、龍二には清々しく見える。
「ありがとう。その、なんかあった時にフォローして貰えると嬉しい、かな」
「なんかって、なにかやらかすの?」
「いや、わかんないけど。もしなにかあったら」
「全然わかんない。でもま、りょーかい。無理そうじゃなかったらフォローしてあげる」
くのり自身、あまりできそうにはないとわかっているのか、軽く肩を竦めて笑みを浮かべる。
「それでも、いざって時に助けてくれる人がいるだけでも気が楽になるよ」
「感謝しろよー?」
「お礼はまぁ、そのうちにでも。今日のところはあれだ。ストロベリーミルク一つで」
「朝と、お昼の分で二つ。協力する分と、メールを無視されて傷ついた心の補填分」
「わかった、それで手を打とう」
「決まりね。じゃ、自販機寄って教室行こっか」
心地良いくのりの声に頷き、龍二も倉庫から出る。
「あ、そうだ。もう一つ」
「まだあるの? なに?」
「しばらくはその、彼女から目が離せないからさ、色々と付き合いが悪くなる、かも」
最後まで言うべきか悩んだ末、くのりとは少し距離を置く決断を下した。
協力してくれると言ったくのりを、危険には晒したくないと、改めて強く思った末の決断だった。
「……そっか。ま、仕方ないよ」
「なんか、こっちの都合ばっかりで、ごめん」
「いいよ。埋め合わせ、してくれるんでしょ?」
「も、もちろん。ちゃんと考えとくよ」
「なら良し。ほら、早く行こ」
わけのわからない状況を忘れてしまいそうな笑顔に龍二は頷き、もう一つ、決心した。
この件が片付いたら、曖昧にし続けているくのりとの関係を、はっきりさせようと。
くのりの理解を得られたとは言え、深月のどこかズレた言動が新たな問題を起こすのではないかと、龍二は気が気ではなかった。
しかし、そんな心配は不要だった。
昨日とは打って変わり、深月の言動は常識の範囲内に収まるものになっていた。
大々的に打ち出した元カノ設定は誤魔化しようがなかったが、昨日の言動が幻だったかのように普通且つ大人しい様子は、逆に龍二が戸惑うほどだ。
「ごめんね? 昨日は少し、テンションが高すぎたみたいで」
「あ、うん。まぁ、うん」
その様子にくのりも首を傾げていたが、変わった子ならそんなものか、と納得しているようだった。
あまりにも自然な深月の様子に、周囲の反応も変わってくる。
いきなりの元カノ宣言に遠慮していたクラスメイトたちも、今日は自然と深月の周囲に集まって来ていた。
転校生らしく質問攻めにあう深月は、彼らを邪険にする事無く、ありふれた受け答えをして見せた。
それが出来るのなら昨日からそうして欲しかったと、龍二はひっそりとため息を吐く。
最初からこの調子なら、くのりや奏に妙な誤解をされずに済んだかもしれない。
「いや、無理か」
そもそもの元凶は元カノ発言だ。自然に護衛をするための設定だとするなら、どちらにせよ結果は大きく変わらなかっただろう。
「なーんか釈然としない」
頬杖をついたままこぼれたくのりの呟きを、龍二は聞こえなかった事にする。
とにもかくにも、この調子ならば比較的穏やかな学校生活が送れるだろうと、龍二は胸を撫でおろした。
「でさ、朝から気になってたんだけど、その腕時計、どうしたの? 今までつけてた事、なかったよね?」
昼休みになり、龍二とくのり、そこに深月を加えた三人で食事をしている時だった。
くのりは椅子を半回転させ、龍二と向かい合うようにして昼食をとり、深月は自分の席で二人の会話に適度な相槌を打っていた。
龍二はいつも通り、奏が用意してくれた弁当を、女子二人は、互いにコンビニで購入したパンやサラダを机に広げている。
怒っていながらもきちんと用意してくれた奏に感謝しつつ、龍二はくのりの質問に答える。
「なんか、父さんから送られてきたんだ。せっかくだからつけてるんだけど、変かな?」
「そんな事ないんじゃない? ちょっと見慣れてないからあれだけど、悪くないと思う」
「そう?」
「うん」
くのりに褒められて嬉しい反面、時計に内蔵された機能を知っている龍二は、素直に喜べない。
「私が持ってきたの、それ。龍二のお父さんに頼まれて」
「へぇ」
鋭さを増したくのりの視線が龍二に突き刺さる。
果たして、その情報を伝える必要はあったのだろうか?
もはや定番になりつつある乾いた笑みを浮かべ、龍二は非難の視線を深月に向ける。
「あ、秘密にしておいた方が良かったかも。ごめんね、龍二」
「い、いや? 別に?」
屈託のない笑顔に小さな毒を乗せて返してくる深月に、龍二は戸惑う。
「ダメね、私。龍二にも変わった子だね、とか言われちゃうし。気を付けないと」
言葉に含まれている毒の正体は、微かな怒りだ。
深月の発言にくのりは眉根を寄せつつも、どこか納得しているように頷く。
今の言葉に恐怖を覚えたのは龍二だ。
彼女の前ではそんな風に言った事はない。その言葉を口にしたのは、今朝のくのりとのやり取りだけだ。
腕につけた時計を、無意識に触る。
すました顔でパンを食べる深月に、本当に盗聴されているのだと思い知らされる。
とは言え、わざわざくのりの前でそんな発言をする必然性がない。
あるとすれば、私怨のようなものだろう。
口は禍の元だと痛感した龍二は、何も言わずに弁当箱を深月の方へと差し出す。
「なに? くれるの?」
「どうぞ」
「そ。ありがと、龍二」
どういうつもりで差し出されたものなのかはわかっているのだろう。深月は迷わず弁当箱から、サラダ用の箸で三品を摘む。
思ったよりも多く持っていかれた龍二は、目減りした弁当箱を手元に戻して食事を再開しようとする。
「いいなー。私も欲しいなー」
「…………」
正面からぶつけられる冷え切った追撃に、龍二は黙って弁当箱を差し出す。
こういう時は素直に差し出すのが賢明だと、すでに学んでいた。
「大丈夫。私は玉子焼き一個でいいから」
龍二のほうを向いたまま、深月を牽制するような言葉だが、当の深月は素知らぬ顔で獲得したおかずを頬張っている。
平和になったはずの空気が、また怪しい気配を帯び始めた。
「え、遠慮しなくていいよ?」
「そう? じゃあ、ちょっと我がまま言っちゃおうかなー」
「いいよいいよ、どんどん言っちゃって」
それで気が済むのならいくらでも持って行ってくれと、龍二は本気で思う。
「じゃあ、食べさせてくれる?」
「うんうん、いいよ……って、は?」
一瞬で真顔になる龍二の方へ、くのりは少し身を乗り出して口を開く。
「だから、食べさせてって言ったの。私、箸持ってないもん」
「いやいや! だからってそれは……ないでしょ?」
「いやあるでしょ? なに、もしかして照れてんすかー?」
ざわつく周囲の視線などお構いなしに、くのりは更に身を乗り出す。
弧を描くその唇に、龍二は唾を飲む。
「早くして欲しいんですけどー?」
くのりは急かすように口を開き、そっと目を閉じる。
もし唇を閉じていたら、まるでキスをせがんでいるように見えただろう。
普段のくのりからは考えられないほど大胆な行為に、龍二は混乱する。
助けを求めるように深月を見やるが、彼女は素知らぬ顔で食事に没頭していた。いや、意識は龍二に向けているが、傍目にはわからない。
やるしかないのか、と弁当箱と目を閉じて待つくのりを交互に見る。
咥内が渇いていくのを感じながら、龍二は震える手で玉子焼きに箸を伸ばす。
「……なーんて、冗談ですけどね」
龍二の箸が玉子焼きを掴む寸前、おどけた口調でくのりが玉子焼きを摘み上げる。
そのまま咥内に放り込み、ウェットティッシュで指を拭った。
「え、なに? さすがにないでしょ。本気だったらイタすぎるし」
思いきりからかわれた事を悟った龍二は、憤慨する気力もなく、ぐったりと机に突っ伏す。
さすがに悪戯がすぎたと思ったくのりに励まされながら、その後の昼休みは比較的穏やかに過ぎて行った。
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