第1章 第1話 元カノ その3
安藤家と学校のおよそ中間に位置する駅から電車に乗り、二駅。この辺りでは一番華やかな駅前のショッピングモールに、今日も龍二は足を運んでいた。
学校や自宅がある駅周辺はいわゆる住宅街であり、主な商業施設は二駅隣のこちらに集中している。大きめの書店などもモール内にあるので、龍二も時折立ち寄っていた。
とは言え、連日通うようなことはあまりなかった。
どうしてまた今日もやって来たのかと言えばそれは、奏へのプレゼントを改めて選ぶために他ならない。まだ誕生日までに時間があるとはいえ、そろそろ決めておきたいというのが本音だ。プレゼントを選ぶだけでここまで手間取る自身の不甲斐なさに、ため息を吐きたくなる。
――が、今現在は別の意味でため息を吐きたい気分だと、駅を出た龍二は天を仰ぐ。
「なに突っ立ってるの? モール、行くんでしょ?」
「あぁ、うん」
背中を小突いてくるくのりに頷き、龍二は止まっていた足を動かす。
昼休みを乗り切り、誤魔化し続けて辿り着いた放課後。
いち早く教室から逃亡を図ろうとした龍二を、くのりは逃がさなかった。
部活動に励むわけでもなく、特定の委員会活動もない放課後。帰宅部である龍二にとって自由な時間は、くのりにとっても同じだ。
もう逃がさないぞと吊り上がった無言の視線に割って入ったのは、問題の大元である久良屋深月本人であった。
まさに一触即発。野次馬根性逞しいクラスメイトたちですら、我関せず、触らぬ神に祟りなしとばかりに教室を後にしていた。
いつもであれば、龍二と同じ帰宅部の生徒は数人居残るものだ。受験を控えた三年生の夏。一部の運動部を除けば、クラスの大半がすでに部活を引退している。
それまでの忙しさを取り戻すように、ダラダラと取り留めのない会話に花を咲かせたりする者もいる。今日に限っては、そんな生徒たちですら一目散に逃亡していた。
蜘蛛の子を散らすようにというのはこういう感じかと、龍二は自身でも驚くほど冷静だった。
無言で向き合う深月とくのりは、見えない火花が散らしているようだった。とは言え、平然としている深月に対し、くのりが一方的に敵意を向けているだけだったのだが……。
なんにせよ、生きた心地がしないことに変わりはないと、龍二は急用を思い出した。
「ごめん。ちょっとモールに寄って行くから僕は――」
「私も行く」
それまでの言い争いが嘘だったかのように、二人の声が重なって龍二に襲い掛かる。淡々と決定事項を叩きつけられた龍二は、静かに頷くしかなかった。
逃げ出すことなど出来るはずもなく、さしたる会話もないままにモールへと三人は辿り着いた。
「で? プレゼントは決まったの? 朝はまだ悩んでたっぽいけど」
「実を言うと、まだ悩んでる最中だったり……」
「優柔不断」
「言わないで……」
「ここまで悩むタイプだったなんてねぇ。意外……ってほどでもないけど、付き合う身にもなって欲しいわー」
やけに棘のあるくのりの言葉に龍二はうな垂れる。間違っても、付き合ってくれとは言っていないのに、などと迂闊なことを口にしたりはしない。
「お昼に話してくれた、居候先のお姉さんへのプレゼント、だっけ?」
「あ、あぁ、うん」
思いがけず会話に入ってきた深月に、龍二の挙動が不審になる。火種になりそうな『お昼』という単語が、龍二の背中を冷たくする。横から突き刺さるくのりの視線は全力で無視した。
「と、とりあえず、一回休憩にしよう!」
「は? 着いたばっかりなんですけど? なに言ってんの?」
「いやほら、まだ悩んでる段階だしさ。ゆっくりと涼みつつ、二人の意見とか参考にしたいなーって。それになんか今日は暑いしさ、ハハ!」
暑さの原因がなんであるか、それは言うまでもない。
龍二としてはとにかく、一度落ち着きたい。その一心だった。現状では、プレゼントに頭を悩ませる余裕などないのだ。
「ま、私は付き添いだから別にいいけど」
「私もそれでいいかな。龍二とは話したいこと、たくさんあるし」
「じゃ、じゃあそういうことで!」
わざと煽っているのではないかと邪推しつつ、龍二は二人を先導するようにカフェへと向かう。
モールの一角にあるチェーン店のカフェは、龍二とくのりにとっては行き慣れた店だ。このモールを利用する客にとって、定番といっても差し支えない。
各々注文を済ませ、店外に設置されたテーブルで休む。店内だけではなく、広い通路でも休めるのが人気の理由だ。
龍二たち以外にも、同じような学生や家族連れが団欒を楽しんでいる。
「…………」
三者が無言で飲み物に口をつける様子は、少なからず浮いていた。
龍二と話したいことがあると言っていた深月も、いざ席についてからというもの、話を切り出す様子は一切ない。
「……ねぇ」
「なに?」
沈黙を破って深月に話しかけたのはくのりだ。その視線はこれまでとは少し違い、敵意のようなものは宿っていない。
それがわかっているからなのか、答える深月の声も柔らかい。
「それ、美味しい?」
「……普通、ね」
「普通って本気? だってそれ、アイスコーヒーだよね? しかもブラック」
「それがどうかした?」
「どうって言うか……本当に美味しいのかなって」
「特になんともないけど……」
くのりがなぜそんな事を訊いてくるのかがわからないと言いたげに、深月は龍二に顔を向ける。
が、龍二としては愛想笑いを浮かべる他ない。
普通の女子高生が休憩がてらにブラックコーヒーを嗜むのは、控えめに言って普通とは言い難い。絶対にないとは言い切れないが、くのりが疑問に思うのも無理はない。
「…………」
深月は僅かに首を傾げるが、気にする必要はないと判断したのか、当たり前のようにコーヒーを飲み続ける。
「……わっかんないなぁ」
どちらかと言えば甘党なくのりも首を傾げ、深月の表情を観察しつつ見るからに甘ったるい飲み物に口をつける。
「で? 実際どうするわけ?」
「ん? なにが?」
「なにがってねぇ……あんたはなにしにこんなとこまで来たのよ?」
間抜けな龍二の返事に、くのりは半眼でため息をつく。
「あ、そっか。うーん、どうしよう?」
「ほんっと、ダメダメねぇ。もし彼氏だったら、圧倒的落第点だわ」
「面目ない……」
彼氏という単語に龍二の心拍数が若干上がるが、その後に続いた単語ですぐに下がる。
「プレゼントで悩んでるのよね?」
「うん。来月、姉さんの誕生日だから、それに合わせて、ね」
情けない龍二を見かねて、ではないだろうが、深月が二人の会話に混ざる。
「直接訊けばいいんじゃないの? お姉さんに」
そして何の迷いもなく、そう言った。
至極当然と言いたげなその言葉に、くのりばかりか龍二までもが絶句する。
「……なに?」
二人の微妙な空気を察した深月は、訝しげに眉根を寄せる。
「いやまぁ、そうしたら解決っちゃあ解決なんだけど、さ」
「ならどうして訊かないの? 仲はいい、のよね?」
「うん、そうなんだけど、なんて言うかこう、喜んで貰いたいからさ」
「だったらなおさらじゃない? 欲しい物が貰えるほうが、当人としても嬉しいものでしょ?」
そうしない理由がわからないと、表情が物語る。
「いやいや、そういうもんじゃないでしょ、プレゼントって」
「そう、なの?」
ため息まじりなくのりのツッコミに、深月は龍二の顔を見る。
「僕もそう思う、かな。いや、欲しい物が貰えるほうがってのも、わかるにはわかるんだけどね。でもやっぱりほら、こういうプレゼントって、サプライズ的な意味合いもあるものだしさ」
「欲しくもない物を渡されて、対処に困らないの?」
「そ、それは出来れば避けたいから、こうして悩んでるんだよ」
「非効率的ね」
「効率を求めるのはどうかなぁ」
女子高生としてどうかと思う発言に、くのりは苦言を呈する気力すらなくなったのか、テーブルに突っ伏した。
龍二も反応に困り、なんとも言えない表情でカフェオレをすする。
「って言うかさ、二人は付き合ってたんでしょ? だったらその時、プレゼントとかしなかったの?」
身を起こして頬杖をつき、ストローを口に咥えたくのりが龍二と深月に視線を向ける。
「それは、えっと……どう、だったかな?」
「答える必要、ないでしょ」
「……なかったわけね。ホントに付き合ってたか、ますます疑問だわ」
「そう言うあなたは、誰かにプレゼントを貰った経験はないの?」
くのりが抱いている疑惑を逸らすように、深月が平然と質問を返す。
「…………ない、けど」
「そう」
素っ気ない深月の態度が、潜めていたくのりの敵愾心を刺激する。深月に悪意があるようには見えないからこそ、その素っ気なさがくのりの神経を逆撫でた。
「じゃ、じゃあさ! 二人だったらその、どんなプレゼントがいい?」
二人の間に割って入るように、龍二は思い付きで質問する。
「……龍二がプレゼントしてくれるって前提の話?」
「ま、まぁ、あくまで仮定の話、だけどね」
思い付きではあったが、くのりを宥める効果は抜群だった。
「私だったら、なんだろ……言われてみると、うーん」
「なんでもいいからさ。なんかない?」
「……いまいち、思いつかない」
「え、なにも?」
「うん。なんでだろ……」
自分自身不思議そうに首を傾げ、くのりは天井を見上げる。
「考えたこと、なかったなぁ」
「そう、なんだ……」
予想外の答えに、龍二はひそかに肩を落とす。軽く胸が締め付けられるような感覚は、あまり心地良いものではなかった。
「じゃあ、久良屋さんは?」
「深月、でしょ?」
「え? あ、うん……で?」
「私は、なんでもいいかな。龍二がくれるものなら」
「あ、そう」
参考にはならなかったものの、二人がいがみ合う状況は避ける事ができた。今はそれで良しとしようと、龍二は一人頷いた。
その後、三人でモールを歩き回るが特に成果はなかった。
唯一定まった方向性としては、普段の生活で使っている状況を想像できる物、実生活で役に立ちそうな物といった程度だ。
大雑把ではあるが、龍二にとっては十分な収穫だった。
「これで少しは候補が絞れそうだ。助かったよ」
「お礼はちゃんと決まってからでいいわよ。どうせまだ悩むんだし」
そう言うくのりの口元に、僅かながら笑みが浮かぶ。
龍二は頬が熱くなるのを感じながら、照れくさそうに頭を掻く。
「終わったのなら帰りましょ」
そんな二人の空気など微塵も読まず、深月が龍二の腕を引く。
「あ、うん。その前にちょっとトイレ……」
「なら私も一緒に」
「え?」
「…………冗談、よ」
「だ、だよね」
本当に冗談だったのだろうかという疑問を抱きつつ、龍二は通路に面した男子トイレへと向かう。
緩衝材となっていた龍二がいなくなり、深月とくのりは初めて二人きりになる。
深月は特に話そうとはせず、取り出した携帯端末を操作し始める。
くのりも同様に携帯を手にするが、その視線と意識は深月に注がれていた。
「……なに?」
エージェントである深月がそれに気づかないわけがない。無視しようとすればできたはずだが、一通り携帯の操作を終えた深月は、くのりへと軽く視線を向けた。
「別に……って誤魔化すのもヘンか」
軽く肩を竦めたくのりは、手持ち無沙汰に携帯を触りながら深月を見る。
その瞳に宿るのは、敵意の類ではない。今日一日向けた中で、もっとも真っ直ぐな
意思を宿した視線だ。
「元カノって話、本当?」
「うん」
「今も好きって、本当?」
「もちろん」
「……そっか」
間髪入れずに返ってきた答えに、くのりは素っ気なく頷く。
揺らぐ事のないくのりの視線を、深月は横目で受け止める。
くのりはそれ以上何も訊かず、龍二がいる男子トイレへと視線を向ける。それにつられて、深月も視線を向けた。
「……だから何って話よね」
誰にともなく、くのりはそう呟いた。
まだなにか言いたげなくのりと駅で別れ、龍二は肩が軽くなったような錯覚を覚える。
トイレから戻ると、案の定二人の間にはなんとも言えない空気が漂っていた。
藪蛇になりかねない真似はせず、そのまま駅へと向かって解散し、今に至る。
「さて、行きましょうか」
別れ際にくのりがなにか言いたそうだったのは、深月が龍二から離れる素振りを見せなかったからだ。
龍二自身、彼女がこれからどうするのか疑問に思っていた。
「行くって、どこに?」
「あなたの家に決まっているでしょう? まさか、まだ寄り道をするつもり?」
「そうじゃなくてさ。君もこっちなの?」
「私がどこに帰るのかは、この際関係ないわね。あなたを護衛するのが私の任務なのだから、自宅まで送るのが当然……そうでしょう?」
そうなるのか、と龍二はため息を吐く。彼女が冗談を言っているのではないと、真剣な物言いから察することができた。
「昨日、誘拐されたタイミングがいつだったか、忘れたわけではないでしょう?」
「さすがにね……」
くのりと別れた直後。まさに今と同じタイミングだ。
本当にまだ誘拐される可能性があるとすれば、最大限に警戒するのも頷ける。
「わかったのなら、行くわよ」
「って、ちょ! 引っ張らなくていいから!」
有無を言わせず手を握って歩き出す深月に、龍二は慌てふためく。
「これくらいは我慢して。あの子の前では遠慮してあげたのだから、今度はあなたが譲歩してくれてもいいでしょう?」
「それはありがたい事だけどさ。って言うか、そういう気遣い、してくれるんだ」
「不必要にあなたの人間関係をかき乱す必要はないもの」
「…………もう少し気遣ってくれると非常に助かるんだけど」
「それは状況を見て検討させて貰うわ」
つい先ほどまでの言動が気遣ってくれた結果なのかと、龍二は愕然とする。節々で感じていた彼女の非常識さに眩暈すら覚えそうだが、深くは考えないようにした。
少なくとも今は、なにを言っても聞き入れてはくれないだろう。
まだ出会ったばかりだが、なんとなくそうだろうと龍二は半ば諦めていた。
「本当にこのまま家まで行くの?」
「そう言っているでしょう?」
取り付く島もないとうな垂れ、龍二は極力緊張しないように歩く。
わけのわからない状況に立たされているとは言え、女子と手を繋いで歩くというのは一種のイベントだ。年頃の男子としては当然緊張するし、いつも以上に手汗もかく。意識しないようにと考えれば考えるほど、心拍数は上がっていくばかりだ。
時間帯としては日が沈む少し前。自宅まで続く道のりには、決して多くはないが人通りはある。
そんな中、女子と手を繋いで歩くというのは、実際には付き合った経験のない龍二にとって、気恥ずかしいイベントであると同時に拷問でもあった。
万が一にでも知り合いに目撃されたりすれば、どうなるのか。近所のおばちゃんならまだいい。
もしその目撃者が同じ学校の生徒だったりしたら、あまつさえクラスメイトで、くのりと面識のある生徒だったりしたら……。
「考えただけで頭が痛くなるな……」
「……頭が痛いの?」
「え? いや……ちょ!」
その呟きを聞き逃さなかった深月は立ち止まり、龍二の顔を両手で挟み込む。
「な、なにして――」
「黙って……」
ジッと見つめたまま顔を近づける深月に、龍二はたじろぐ。が、強く挟まれた両手から逃れる事はできず、体温だけが急上昇していく。
「毒ではない、みたいね」
「へ? ど、毒?」
「急な頭痛を訴えたのはあなたでしょう?」
「あ、あれは違うよ! 考え事してただけで」
「そう。でも、体温がやけに高いようね」
「そりゃそうだよ! と、とにかくそういうのじゃないから!」
「わかったわ。でも、なにか不調を感じたらすぐに言って。いい?」
「……本当に僕のこと、からかってるんじゃないよね?」
「からかう?」
「いや、いい……うん、ハハ」
説明しても無駄だろうと、龍二は力なく笑う。
「そう。なら――」
深月も追及はせず、また龍二の手を取り、
「――えっ?」
腕が抜けそうな力で路地裏へと龍二を引きずり込んだ。
そのままコンクリートの壁に龍二を押し付け、覆い被さる。
自身を包み込む、目と鼻の先にいる少女の気配と匂いがますます龍二を混乱させる。
「黙ってて」
口を開いた龍二には目もくれず、左右へと視線を向けながら深月はそう囁く。
もう何度目になるかわからない状況にも、龍二は相変わらず困惑するしかなかった。
はたから見れば、若い男女が壁際で抱き合っているように見えるかもしれない。
だが、よくよく観察すればそうではないとわかるだろう。
緊迫した空気を纏い、鋭い視線を周囲に向ける少女に対して、少年は赤面しつつ生唾を飲み込んでいる。
指先ほども噛み合っていない二人の様子は、滑稽とも言えた。
しかし、龍二の反応は年相応だ。
期末試験を終え、あとはテストの結果と夏休みを待つだけのこの時期。
夕暮れ時とは言え、ここまで徒歩で十分以上の距離を移動している。
互いに程度の差はあるが、多少なりとも汗をかいていた。
抱き合っているようにすら見えるこの距離では、その肌に薄っすらと浮かぶ汗の一滴すらはっきりと見えてしまう。
身体こそギリギリ触れ合っていないが、その絶妙な距離感が龍二の視線を彷徨わせる。
僅かに漏れる吐息に、周囲の環境音が遠くなる。
聞き取れないほど小声で何かを呟き、呼吸すら忘れかけていた龍二から深月は離れた。
何事もなかったかのように下がり、少し乱れた前髪を整えながら周囲を眺め、僅かに目を細める。
「とりあえずは大丈夫よ。今のうちに行きましょう」
「なにが大丈夫なのか、よくわかんないんだけど」
「わからなくても問題ないわ。問題は解決したから」
「えっと、今の一瞬で?」
「えぇ」
さらりと答える深月に、龍二は頭を掻く。
問題は解決した。その言葉に込められた様々な意味に、素人ながらも龍二は察するものがあった。
危険が迫り、その脅威が去ったという事だろう。
それがどれほどの危険なのか、なぜ脅威は去ったのか、訊きたいことは尽きない。
だが、返ってくる答えもまた、予想できてしまう。
知る必要はないと、また言われてしまうだけだろう。
一日にも満たない付き合いではあるが、容易に想像はつく。
「わかったよ。安全なんだね?」
「出来るだけ早く帰宅するのが今は最善よ」
「そっか。じゃあ、帰ろう」
また繋ぐために差し出された手に気づかないふりをして、龍二は路地を出る。
が、そんな勝手を許してくれるはずもなく、すぐ隣に並んだ深月が有無を言わせず手を繋いだ。
無言で少女の横顔に視線を向けるが、当の深月は一瞬視線を流しただけで正面をまた見据える。
龍二は盛大にため息をつき、観念した。
安藤家に到着するまでに要した時間はそこから十分程度。幸いにもご近所さまに出くわすことなく、家の前まで辿り着く事ができた。
無事帰宅できた事と、繋いでいた手が離れた事に龍二は安堵する。
離れてなお残る手のひらの熱は、当分引いてくれそうにはない。
「えっと、ここまでありがとう」
「任務だから。早く家に入りなさい」
平然とした表情のまま、深月は風になびく髪を手で押さえる。
「いつまでも外にいられては困るのだけど?」
「あ、うん。じゃあ、また明日、になるのかな?」
「何事もなければ、顔を合わせずに済むわ」
「引っかかる言い方だね……」
「相手の出方次第だから、そうとしか言えないわ。今は後手に回るしかないの」
「ホント、なんで僕なんだろ」
「さぁ、ね。でも安心していいわ。この後も護衛は続けるから」
「そうなんだ……ん?」
一瞬納得しかけるが、疑問に首を傾げる。
「いいから、家に入りなさい。私も戻るから」
「わかったよ。じゃあ、また」
有無を言わせぬ深月の言葉に押されるように、龍二は玄関に手を掛ける。
それを見届けたところで深月はようやく歩き出した。
玄関を半分ほど開けた状態のまま、龍二は視線だけでその背中を見送る。
先ほど聞いた深月の言葉が、思考の端に引っかかっていた。
歩き出した深月は、安藤家の前から十数歩進み、すぐ隣の家へとさも当然のように入っていく。
「え?」
間の抜けた声が龍二の口からこぼれる。
その間にも深月は隣家の玄関に手を掛け、一秒ほど待った後、それを開け放った。
「は? え?」
おかしい。隣の家は佐藤さんという四人家族が住んでいるはずだ。少なくとも、昨日まではそうだったはずだ。
その佐藤さんの家に、なぜ彼女が?
玄関を開けたまま思考も動きも固まる龍二を、同じように玄関を半ばまで開けた深月が見る。
笑うでもなく、睨むでもない。ただジッと見据え、言葉もなく中に入って行った。
「…………まさか、なぁ」
脳裏に浮かんだある可能性を強引に押し退け、龍二は玄関を跨ぐ。
「た、ただいま……」
どうにかそう言葉を絞り出し、龍二は帰宅した。
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