第1章 第1話 元カノ その2

「さて、と……」

 連絡事項を伝え終えた担任が教室を後にし、最初の授業が始まるまで五分程度の時間がある。

 それを待っていたとばかりにくのりが立ち上がり、龍二の机に手をつく。

「――――で?」

 穏やかなのは声色だけで、有無を言わせぬ迫力を秘めていた。一見笑顔を浮かべているようで、その表情の奥にはなぞの力強さが見え隠れしていた。

「で、って言われても……」

 やや前かがみに迫るくのりから視線を逸らし、深月を一瞥する。

 それを見透かしていたかのように、深月と視線がぶつかる。

 整いすぎた顔立ちの少女に見据えられ、龍二の心拍数が跳ね上がる。

「ふふっ、驚いた? 二年とちょっとぶり、だもんね」

「ちょっ!」

 さも当然のように笑みを浮かべた深月が、龍二の手を包み込むように握る。

 その行為に、興味津々な様子で見物していた教室中がどよめき、くのりは絶句する。

「本当に久しぶり。会えて嬉しい」

 そんな周囲のことなど意に介さず、深月は更なる爆弾を放り込む。

「なに? もしかして、忘れちゃった? 元カノの顔」

 顔を寄せる深月の言葉に、龍二は驚きを通り越して声を失う。

 呆ける龍二の意識を引き戻したのは、がっちりと肩に食い込むくのりの指だった。

「ねぇ安藤君、元カノってなに? 初耳なんですけど?」

「い、痛いっ、くのりっ、指っ、い、痛いって」

「女の子に肩を掴まれたくらいで痛がるなんて冗談でしょ? あ、もしかして誤魔化そうとしてる? まさかねー?」

「いやっ、し、知らない! 知らないんだって」

 焦りながら否定する龍二をよそに、野次馬となりつつある周囲は修羅場だなんだと囃し立てる。無責任なクラスメイトに怒りを向ける余裕など、もちろんない。

「知らない、ねぇ……だったらなに? 転校生の……えっと、久良屋さんだっけ? 彼女が嘘でも吐いてるってこと?」

「ま、まぁ、うん……そうなるんじゃない、かなぁ?」

 迫力に押されてしっかりと否定できない龍二の態度に、くのりは不信感を一層強める。

「つまりなに? 転校早々目についた男子の元カノを名乗ってるってこと? いやそれ、危険人物すぎるでしょ」

「そこまでは言ってないっていうか……疑うなら僕じゃなく、久良屋さんに直接聞いてみればいいんじゃないかな?」

 面倒事を押し付けるようで申し訳なく思いつつも、ヒートアップしたくのりの相手をするのは一筋縄ではいかない。これまでに何度か経験した苦い思い出が、龍二に逃げの一手を選ばせた。

「なっさけな……でも、確かにそうかもね」

 お前の始末は後でつけるとでも言いたげに龍二の肩を数度叩き、握られたままの手を遮るように深月の前に立つ。

 鬼のような握力から解放された肩を擦りつつ、すぐ隣で対峙する二人の少女の様子を窺う。

 これから決闘でも始まりそうな、不穏な空気が漂い始めていた。

「久良屋、深月さんだっけ? 私、逢沢くのり」

「初めまして、逢沢さん」

 腰に手を当てて見下ろすくのりと、椅子に座ったまま見上げる深月。両者とも笑顔と分類される表情を浮かべてはいるが、その目はどちらも笑っていない。

 龍虎の如き二人の対峙に、散々囃し立てていた野次馬も大人しくなっていた。

 怒らせてはいけない実は怖そうな女子ランキングに名を連ねる逢沢くのりをからかえるほどの度胸は、誰も持ち合わせてはいない。

「それでさっきの話なんだけど……」

「龍二との関係?」

「うん。なんかこいつ、知らないみたいだけど?」

 こいつ呼ばわりされた龍二が何か言いたげに目を開くが、くのりは歯牙にもかけない。

「照れてるんじゃないかな? 私たち、色々あったから……ね?」

「え、い、いや……」

 突然話を振られて挙動不審になる龍二を、くのりは睥睨する。その瞳に宿る疑いの色は濃くなる一方だ。

「付き合ってたって、それいつの話? 一年の時からこいつと一緒のクラスだけど、そんな面白そうな話、一度も聞いた事なくて」

「進学する前だし、知らなくて当然かもね」

「ふーん。中学で付き合ってたってわけか」

「どんな付き合いだったかについては、ごめんなさい。プライベートだから答えたくないかな。龍二も都合が悪いだろうし」

 含みを持たせた物言いに、くのりのこめかみがピクリと動く。今すぐ龍二を締め上げそうな気配を漂わせつつ、深月への尋問を続ける。

「でもあなた、元カノって言ってたよね? それってさ、とっくに終わった関係って事じゃないの?」

「そうね。でも、私はまだ好きよ。あの時からずっと」

「ほ、ほぅ?」

 さらりと断言する深月の堂々とした態度に、さしものくのりも怯む。その僅かな隙を逃さず、深月が畳みかける。

「嫌いになって別れたわけじゃないから、私たち。両親の都合で、海外へ移住せざるを得なくなってしまっただけでね。とは言え、遠距離恋愛ができるほど私も彼も、器用でも大人でもなかったし。龍二の友達なら、わかってくれると思うけど?」

「それは、まぁ……」

「龍二も家庭の事情があったしね。それくらい当然、知ってるのよね?」

「一応は……」

 安藤家に居候中だという事は、当然くのりも知っている。だからこそ、深月の言い分に納得できてしまう。

「なら、あとはわかるでしょ? また日本で暮らす事になったから、龍二が通うこの学校に来たの。私の気持ちは、あの頃と変わっていないから」

 微かに頬を赤らめ、柔らかな視線を龍二に注ぐ。

 その姿は誰が見ても、恋する少女そのものだった。

 胸を締め付けられる感覚に、龍二の体温が上昇する。

 深月の話は何一つ身に覚えのないものなのに、真に迫っていた。

「納得できた?」

 反論しようと口を開くが、くのりは何も言えない。

 付き合っていたかの真偽は定かではないが、深月が龍二を知っているのは間違いない。

 感情では納得できないが、嘘だと指摘する材料もなかった。

 家庭の事情を知っているという点も大きい。

 ストーカーの類という線もなくはないが、堂々とした深月の態度からその線は薄いと思える。

「話は終わりね。それじゃあ――」

 区切りがついたと頷いた深月が龍二へと向き直った瞬間、授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。

「龍二とはまたあとで、みたいね。残念」

 そう言って肩を竦めた深月は前に向き直り、

「……最初の授業って、なに?」

 照れくさそうに頬を掻きながら、年相応の笑みを浮かべた。


「……ここなら大丈夫だ」

 休み時間のたびに始まる針の筵のような質問攻めに耐え、ようやく訪れた昼休み。花嫁修業と称して奏が用意してくれた弁当を手に、龍二は人気のない体育館脇の倉庫にやって来ていた。

 普段なら教室で昼食をとるのだが、今日はそうもいかない。

「人気のない倉庫に女子を連れ込む……感心できる行為ではないわね」

「誤解を招く言い方、やめてくれる?」

「誰かに目撃されていたら、言い訳は難しいと思うけど?」

「こんな埃っぽい場所でご飯食べようなんて酔狂な学生、そうそういないって」

 ここに入る際、龍二は念入りに周囲を確認した。

 体育館の隣に作られたこの倉庫は、授業などで使う道具が置いてある。昼休みに訪れるような生徒はまずいない。

「絶対とは言い切れないでしょう?」

「そうだけど……でも、多分大丈夫だよ。僕が保証する」

 かつての経験から、龍二はそう言って深月に頷く。

 もしかしたら今頃、くのりが血相を変えて探し回っているかもしれないが、それは考えないことにする。

「あの程度の警戒で尾行の有無を確かめられるわけないでしょう。でも、秘密の話をする場所としては悪くない選択ね。ここなら周囲の監視もしやすくて助かるわ」

 淡々と話す深月の表情や態度には、教室で見せたような穏やかさはなく、どこか冷たい印象を与えた。

 尾行や監視といった言葉も、穏やかではない。

「……やっぱり君、昨日の」

「えぇ。記憶の混濁はなかったようね。あの麻酔、効きが良すぎるから」

「おかげで寝起きは最悪だったよ」

「問題ないわ。それより、本題に入りましょう。あなたと違って私、お弁当なんて持っていないのよ。この学校、学食があるのよね?」

「あるけど……えっと、少しで良ければ、食べる?」

「……いいの?」

「僕だけ食べてちゃ居心地悪いし」

「ならお言葉に甘えて」

 手頃な高さのマットに二人で座り、その間に弁当を広げる。箸が一膳しかないことに気づいた龍二は、悩む事なく深月に譲る。

「あなたも食べるのでしょう?」

「そうだけど、ほら……同じ箸を使うっていうのもあれだし。僕は手掴みでも平気だから」

「あなたが遠慮する必要はないわ。私は貰う立場で、これはあなたの物なのだし」

「ぼ、僕が気にするからっ」

「そう……ありがとう」

 自分は一体なにをしているのだろうかと、龍二は頭を掻く。

 昼休みに女子と二人きりで、薄暗く埃っぽい倉庫で弁当を囲む。

 字面だけで見れば、そこまで悪くないシチュエーションかもしれないと苦笑する。

 本格的な夏の到来が間近に迫り、やや蒸し暑い事と埃っぽさを除けば、だが。

「どうしたの?」

「いや、なんでも……それよりあの、君は一体……誰?」

 朝から数時間……いや、昨日の夜から抱き続けていた疑問をぶつける。

「安藤龍二の元カノ」

「真面目に答えてよ……って言うか、なんなのその設定? 僕の青春をめちゃくちゃにしたいの?」

「あなたが言った通り、設定よ。元カレに会いたくて転校してきた一途な女子高生っていう。ありがちなのでしょう?」

「全然ありがちじゃないよ。ラブコメを通り越して軽くホラーだよ」

 現実的に考えたら、ストーカーのそれとそう変わらない。

「一般的な男子高校生ならドンピシャな設定だと豪語されたのだけど、違うの?」

「誰に聞いたか知らないけど、からかわれたんじゃないの?」

 正気とは思えない、と肩を竦めてから揚げを一つ摘んで咀嚼する。この春から奏が用意してくれるようになった弁当は、日に日に味が良くなっている。最初の頃は卵の殻が混入していることも少なくはなかったが、三ヶ月たらずで随分と上達したものだと感心する。

 料理をする機会がなかっただけで、才能は十分あったようだ。

「あいつ……」

 玉子焼きを飲み下した深月は、小さく舌打ちをしていた。

 どこか浮世離れしているように思える相手の人間臭い仕草に、龍二はなぜかホッとしていた。

「宣言してしまったものは仕方がないわ。設定はこのまま押し通しましょう」

 気持ちを切り替えるように箸を置き、龍二の目を真っ直ぐに見つめる。

「あまり驚いていないようね。と言うより、私という異物を容易に受け入れている。どうして?」

「最初は驚いたし、今もまだ混乱してるよ。ただその、こう言うとあれだけどさ」

「なに?」

「小説とか映画とか好きだから。そういう展開なのかなって。ほら、自分が特別なことに巻き込まれる妄想とかするでしょ?」

「いいえ」

「……ぼ、僕らみたいなのはしちゃったりするんだよ、うん。信じがたい話だけど、展開のパターンとか、しっくり来そうかなって」

 理解できないと訝しむ深月の視線が龍二に突き刺さる。まるで妄想癖を責められているようでばつが悪い。

「と言ってもまぁ、結局君が何者なのかはわからないけどさ。説明、してくれる?」

「昨日と同じ……あなたを守るために来た」

 冗談でも嘘でもないと、その真剣な眼差しが物語る。澄んだ瞳が龍二の心臓を射貫く。

「あなたはある集団に狙われている。組織、というほどの規模ではないと思うけど、ごめんなさい。まだ正確な情報が掴めていないの」

「狙われてるって……本当に僕なの? 昨日のあの女の子も言ってたけど」

「ターゲットは間違いなくあなたよ」

「なんで僕なんかが……」

「それもわかっていないの」

「昨日の人たちは? 捕まえたんだから、なにか情報とか聞き出せば……」

 戸惑いを隠せない龍二に、深月は静かに首を振る。情報を引き出すことは出来ないと。

「まさか……」

「主犯格と思しき女は、尋問するための施設へ移送中に逃亡したわ。他にも仲間がいたようね」

 他にも男が四人いたはずだが、そこについては語らない。龍二もあえて追求しようとはしなかった。なんとなく、知るのが怖かったからだ。

「……じゃあ君が来たのって」

「そう。またあなたを誘拐しようとするでしょうから、それを阻止するために来たの」

 悪夢ならあれで終わりにして欲しいと思っていたが、そうはいかないと現実を突きつけられる。

「あなたが狙われていると判明したのは昨日の昼頃。そこから護衛するために作戦を立てていたの。予定としてはあなたにも気づかれないように護衛をしつつ、敵を無力化するつもりだったんだけど」

「先に僕が誘拐されちゃった?」

「えぇ。帰り道付近を警戒していたのに、あなたが予定外のデートを始めるから」

「で、デートじゃない! あれはその、姉さんへのプレゼントを選ぶためで」

「なら彼女……逢沢くのりとは恋愛関係ではないのね?」

「えっと、うん……今は、うん」

「彼女も元カノ?」

「ちがっ! そうじゃなくて! と、友達だから! ずっと、友達で……」

「……そう」

 隠しておきたかった恋心を見抜かれ、龍二の顔が真っ赤に染まる。

 お互いにそれとなく察していながら、一歩を踏み出せない。そんな微妙な間柄なのだ。

「とにかく、本当に誘拐されたことであなたがターゲットだと確証が持てた。私たちの中でも半信半疑だったのよ。失礼だけど、あなたはその、普通すぎて」

「だろうね……ハハ」

 学業でも運動でも秀でた成績を収めたことなどない。どこにでもいる高校生だということは、龍二自身が誰よりも理解している。

「両親の仕事とか関係あったりするかな?」

「それも含めて調査中よ。思い当たる節は、本当にない?」

「さっぱりだよ」

 龍二と深月のため息が同時にこぼれ、シンクロする。

「君が来た目的はわかったけど……君って結局、何者なの?」

「あなたを守るエージェント、ではいけない?」

「できればもう少し詳しく知っておきたい、かな」

 命を預ける相手なのだから、と出掛かった言葉を呑み込む。

「そう……でもごめんなさい。あなたには知る権利がないの」

「うわ、本当にそう言うんだ……」

 まるで映画みたいだ、と場違いな笑みを龍二は浮かべる。

「私はあなたを守る。それでは納得できない?」

「できるかできないかで言えば、できなくはないけどさ」

「ならそれで納得して。それに……」

「知らないほうが幸せ?」

「……えぇ」

 フィクションで多用されるセリフを目の当たりにして、龍二は妙な気分になっていた。

 いざ言われてみると、確かにそうかもしれないと思ってしまう。

 知りたいという気持ちはあるが、知ってどうなるものでもないとも思う。

 知れば知っただけ、日常から遠ざかってしまうのではないかという不安もある。

 深月の話を聞いた後でも、まだどこか現実味が薄い。

「質問はそれだけ?」

「なくはないけど、一度に聞いても混乱しそうだなぁ……あ、でも」

「なに?」

「君が座ってる席だけど、昨日までは違うクラスメイトが座ってたんだよね。それがどうしてか、急に転校しちゃったみたいでさ。そんな話、全然なかったのに。これって凄い偶然だよね、アハハハ」

「そうね」

「…………」

「…………」

 他人事のようにさらりと流す深月の答えに、龍二は真顔になる。

 当の深月は肩に掛かる髪を後ろに流し、何事もなかったようにおかずを口にする。

「他には?」

「……答えてくれるの?」

「あなたが知る権利のある質問であれば」

 果たしてどれほど知る権利があるのだろうか?

 知るのが怖くなってきたとぼやく龍二は、当たり障りのなさそうな質問で場を和ませようとする。

「じゃあ、その名前って本名なの? あと、年齢とかは? エージェントって言ってたけど、まさか、本当に高校生なの?」

「プライベートと守秘義務、どちらにも抵触する質問ね」

 興味本位とも言える質問に、なぜか深月の表情が硬くなる。

「どうしてそんな質問をするのかしら? 特にこの場合、年齢は重要な問題ではないでしょう? 名前にしても、本名か偽名かなんてあなたには関係ない。違うかしら?」

「あ、いや、えっと……お、怒ってる?」

「いいえ。怒る理由がないもの。制服を着て違和感がないのなら、学校での潜入任務に支障はない。そうでしょう?」

「そ、そうだね、うん。何も問題ないね、うん」

 不用意に地雷を踏み抜いたという感覚が、龍二の背中を汗となって伝い落ちる。

 他愛のない質問のはずが、どうしてそうなってしまったのか。

 とめどなく噴き出す汗に喉が渇いていく。

「あ、そ、そうだ飲み物! ご飯には飲み物が必要でしょ! 僕、買って来るから!」

 重苦しくなった雰囲気から逃げ出すように立ち上がる。

「その意見には賛成だけど、待ちなさい」

 ドアに手を掛ける龍二の肩を、深月が掴む。あるはずのない痛みに襲われたように、龍二はその場で跳ねる。

「私はあなたの護衛と言ったでしょう? 一人で出歩かないで」

「で、でも、自販機まで二分くらいだし……」

「それでも、よ。あなた、狙われている自覚がないの?」

「十秒くらい前まで、結構危機感あったよ、うん」

「下らない冗談はよしなさい」

「……はい」

 本当に危機感を覚えていたなどと言うほど、龍二も愚かではなかった。焦りから余計な一言を口走ったという自覚もある。

 だからこそ、素直にはいと頷くのである。

「それと、もう教室に戻ってもいいでしょう。最低限の説明は済んだことだし」

「あ、あぁ、それもそうか」

 差し当って知っておくべきことは聞けた。ならば教室に戻っても問題は……。

「ため息? なぜ?」

「戻ったら戻ったでまた質問攻めにあいそうだなって……はぁ」

「そこは安心して。私に話を合わせてくれれば問題ないわ」

 さも当たり前のように断言する深月に対し、龍二は押し黙る。

 言いたいことはあるが、言ったところでどうにかなるものでもないと、先ほどのやり取りでなんとなく察していた。

「大丈夫ね?」

「……うん」

 深月との会話で主導権を握るのは困難だという事も、この短時間で理解していた。

 一抹の不安を覚えつつも、龍二は彼女に従う事にした。

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