第1章 第1話 元カノ その1
「僕の、部屋……」
目が覚めてすぐ、そこが自分の部屋であると彼は気づいた。
ごく自然な動作で上半身を起こそうとし、小さな針が胸を刺すような痛みに顔をしかめる。痛みを抑えようと胸に手を当て、学校の制服を着たままだと知る。
「なんで……」
状況を思い出そうとして、今度は頭痛に悩まされる。
疲れ果てて寝すぎた後のような鈍痛に耐えながら身体を起こし、ベッドに腰かける。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光を避け、枕の周辺を手で探る。
「あれ、どこだ?」
寝る前はいつもそこに置いてあるはずの携帯が見当たらず、制服のポケットを探る。
が、やはり携帯はない。
頭の痛みをどうにか追いやり、机の上にある鞄へと手を伸ばす。
「良かった」
携帯を無くしたわけではない事にホッとするが、なぜ鞄に入っていたのかという疑問が湧いてくる。
制服で眠っていた事もそうだ。
寝起きという事を差し引いても、状況を把握できない。
「とにかく、下に行かないと」
普段よりも重く感じる身体を引きずるようにして部屋を出て、階段を下りて人の気配がするリビングへと向かう。
「あぁ、起きたのね。良かったわ。おはよう」
「あ、はい……おはよう、ございます」
キッチンに立つ女性に挨拶を返し、横目にテーブルをチラリと見ながら、そのまま彼女の方へ近づく。
「昨日は本当に心配したのよ? いつの間に帰って来たの?」
朝食の準備をしていた手を止め、安藤静恵が龍二の手を握る。
彼女はこの安藤家の家主である安藤聡の妻であり、龍二にとっては二人目の母親のような存在だ。
「あの、昨日はその……」
「お友達と遊ぶのも大事だけど、夕飯に遅れるのなら一言くらい連絡をしてくれなきゃ」
「えっと、すみません」
「こんな事初めてだったから、余計に心配しちゃったわ。電話も通じなかったし」
改めて携帯を確認してみると、数十件の着信やメッセージが届いていた。
静恵からだけではない。仲の良いクラスメイトからもメッセージが来ていた。
「ちょ、調子が悪かったみたいで。次は気を付けます」
「まったく。なにかあったんじゃないかと心配したんだから。それなのに、いつの間にか部屋で眠ってるなんて」
「え?」
「え、はこっちのセリフよ。あの子が部屋を覗いたら、眠ってるって言うんですもの」
「……すみません」
「よっぽど疲れてたのかしらね? 全然起きてくれないから、今度は別の意味で心配したのよ?」
「本当にすみません」
「はぁ……そんなに悪いと思ってるならいい加減、他人行儀なそれをなんとかしてくれたらいいのに」
「……はい」
いつもの小言になりつつある事に気持ちが和らいでいく。
本当に心配してくれていたのだと、言葉の節々から伝わってくる。
「まぁいいわ。ほら、朝食、運んでくれる?」
「はい」
静恵の笑顔に頷き、配膳を手伝う。
テーブルに並べる皿の数は三人分。
「聡さんは今日も仕事ですか?」
「えぇ。昨日から泊まり込みでお仕事。明後日くらいには帰って来られるみたい」
「そうですか」
研究職である安藤聡には、よくある事だった。
「帰ってきたら、きっとお説教が始まるわね」
「ですよね……」
「先に反省文でも書いておく?」
「検討してみます」
冗談めかす静恵の言葉に思わず笑みがこぼれる。
しかし、すぐに緩んだ頬を引き締め、先ほどから目を背けていた事実に向き合う。
「えっと、お、おはよう、姉さん」
三人分の配膳を進めつつ、コーヒーを片手に黙座する女性に話しかける。
「…………」
静かな動作でコーヒーを味わう姿は、人目を引く優雅さを備えていた。
「……姉さん?」
「…………」
返事はなく、薄く細められた双眸が、じっとりと龍二を見据える。
安藤奏。安藤家の長女であり、この春から大学に通う彼女がここにいるのは、何もおかしい事ではない。
学業においては非常に優秀で、面倒見の良さもある。それでも決して甘い顔ばかり見せるわけではなく、生真面目な性格でもあった。
二年前、初めて龍二がこの家を訪れた際に、誰よりも早く家族として受け入れてくれたのも彼女だった。
自身の事を『姉さん』と呼ばせ、龍二を実の弟のように扱う。
安藤夫妻に対しては敬語を使用する龍二も、奏にだけは逆らう事が出来ず、『姉さん』と呼んでいた。
胸をくすぐるようなこそばゆい感覚は、今でも残っている。
そんな姉同然の存在である奏が黙したままという状況に、龍二は嫌な汗をかいていた。
どうしたのか、などと問う必要すらない。
「……怒ってる、よね?」
「……当然です」
「だよね……心配かけて、ごめん」
静恵の話から、ベッドで眠る龍二を発見したのは奏に間違いない。
携帯への着信は当然として、普段とのギャップからどれだけ心配されていたのかは容易に想像できる。
「その子ったら、あなたが目を覚ますまで何度も部屋を覗いていたのよ? だからほら、普段は飲まないコーヒーなんて飲んじゃって。きっと徹夜なんじゃないかしら?」
「ちょっ、お、お母さんっ!」
「あー、はいはい。ごめんなさいね」
「…………」
何事もなかったかのようにカップへ口をつけるが、静恵の話が事実だと、その赤らんだ頬が物語っていた。
「ホントにごめん。でもほら、なんともないし」
「……帰ってきたら、ただいまと言うのが常識です。いくら遅くなったからと言って、こっそり自室に戻るのは非常識です」
「う、うん」
事情を話すわけにもいかず、淡々と紡がれる正論に頷く。
「…………」
「……姉さん?」
「……なにか、言うことはありませんか?」
「え? あ、なんだろ……ごめん、なさい?」
「それはもう聞きました」
「だよね……」
とすれば何なのか。龍二は頬を掻きつつ、奏の姿をチラリと見る。
「そ、その服、似合ってるね。新しく買ったの?」
「――そう、だけど。でも違います」
僅かに声のトーンが上がりはするものの、正解ではなかった。
「今日はちょっと、化粧がしっかりしてるね。もしかして、で、デート?」
「断じて違います。誰かのせいで十分な睡眠がとれなかったので、それを誤魔化す……コホン。とにかく違います。もっと当たり前の、とても大切なことです」
こめかみがピクリと動いたのを、龍二は見逃さなかった。
今の発言は危なかった。一歩間違えば、取り返しがつかないほどに機嫌を損ねていただろう。
だがしかし、何を言えばいいというのだろうか?
龍二はまだ痛みの残る頭をフル回転させる。
「…………ぁ」
ふと、奏が先ほど言ったことを思い出す。
「えっと……た、ただいま」
「……うん。おかえり、龍君」
それが正解だと、柔らかな笑みで頷く。
「うん。それと改めて……おはよう、姉さん」
「うん……うん」
双眸を微かに潤ませながら、奏は龍二の頭部に腕を回し、そのまま胸元に抱き寄せる。
「ね、姉さんっ」
突然のことに戸惑うが、有無を言わせず抱き締められる。
顔を包み込むような柔らかな感触と、女性特有の匂いに心拍数が上がる。
羞恥もある。だが、奏がそうしている原因は龍二にある。
だから突き放すことなど出来ず、奏が満足するまで諸々のことに耐えるしかない。
「――――龍君」
「なに?」
「……汗臭い。凄く」
「…………え?」
龍二の覚悟とは裏腹に、考えようによっては至福とも言える抱擁は一瞬で終わった。
「今すぐお風呂……は時間がないか。でもシャワーくらいは浴びて来て」
「いやでも、朝食とか考えると時間の余裕が……」
休日ならば問題はないが、残念なことに今日は平日であり、学校へ行かなくてはならない。今からシャワーなど浴びていたら、間違いなく遅刻する。
「いいから、浴びて来なさい。そんな汗臭いまま学校に行くなんて、お姉ちゃんは許しません」
「いや、ホントに遅刻しちゃうし。それに……そこまで?」
恐らく昨日から着たままの制服を嗅いでみるが、龍二本人は特に何も感じない。
「そこまでなの! いいから早く! 着替えとタクシーは手配しておくから」
「タクシーって、本気?」
「本気です」
「…………はい」
こうなっては従うしかないと、安藤家で過ごした二年間で嫌というほど理解していた。
ですます口調になった時の奏には、誰も逆らえない。
気付かれないようにため息をこぼしつつ、龍二はリビングを後にした。
もしかしたら、ただ夢を見ていただけなのかもしれない。
そう思えるほどにいつも通りの空気を、肌で感じながら。
本当に用意されていたタクシーを利用し、龍二は無事教室に辿り着くことができた。普段の到着時刻より五分遅れ。誤差の範囲だ。
妙なタイミングで発揮される奏の行動力に戸惑いながら席に着く。
始業前の活気に満ちた教室。
いつもの席から眺める風景は、何も変わらない。
昨日の出来事が嘘だったかのような日常がそこにはあった。
「夢、じゃないんだよなぁ」
椅子に縛り付けられていた時の感触が、龍二の手首にはまだ残っていた。
頭部に押し当てられた硬い感触も、同時に感じた恐怖も。
よくよく見てみれば、手首にはうっすらと痕が残っている。
龍二が好んで読む小説や映画にはありがちだが、現実的にはあり得ない。
ましてや自分の身に降りかかるなんて、想像すらできない。
「いや、想像くらいはするけど……」
そんなものは妄想でしかない。
昨日まではそう思えていた。
だが今となっては――。
「おはよー」
不意にかけられた明るい声に顔を上げ、机の下に手を隠す。
「お、おはようっ」
あからさまに怪しい動きを、上擦る声が強調する。
「……なに? どしたの?」
「いや、なんでも。ちょっと考え事してて」
「ふーん?」
ひとつ前の机に鞄を置き、声をかけてきたクラスメイトの少女――
「それはそうとさ、携帯、どうかしたの? メッセ、届いてたよね?」
ストロベリーミルク味のパックジュースを飲みながら、上半身だけで振り返って話しかけてくる。
「あー、悪い。昨日の夜はなんて言うか、色々あってさ」
「携帯くらい確認できそうなもんだけど……色々って、なにやらかしたの?」
「えーっと、説明するのが難しくて」
誘拐されていた、と事実を言えるはずもなく、龍二は返答に窮する。
説明をしようにも、龍二自身が昨夜のことについて知らなさ過ぎた。
「わけわかんないの。ま、いいけど」
素っ気なく言って、ストローに再び口をつける。
彼女の切り替えの早さに助けられたと、龍二は胸を撫でおろす。
「その様子じゃ決まらなかったみたいね、プレゼント」
「うん。付き合って貰ったのに、なんかごめん」
「こっちこそ。協力する、なんて言っておいて、あんまりいい助言できなくてさ」
「そんな事ないって。助かったよ、ホント」
「ならいいけど。ま、奏さんの誕生日は来月だし、もう少し考えてみれば?」
「そうする」
プレゼントの方向性すら決められずにいた龍二を見かねて、くのりが助け舟を出すかたちで、二人は駅前のショッピングモールへと出向いた。
龍二が誘拐されたのは、くのりと駅前で別れて数分後の事だった。
くのりが巻き込まれなかったのは不幸中の幸いと言える。
「なにニヤニヤしてんの?」
「まぁ、何事もなくて良かったなって」
「なにそれ。ってか、若干キモいからそれ、気を付けた方がいいよ?」
そう言って肩を竦めたくのりは、前に向き直って携帯を弄り始める。
そのいつも通りの光景が、龍二の心を落ち着かせた。
今朝はどうにか誤魔化せた。と言うより、奏や静恵が追及に積極的ではなかった。
普段の生活態度を知って信じているからこそ、強く問いただすような事はしない。
無事をただ喜ぶ。
あえてそうしてくれた二人の信頼に背き、龍二は嘘を吐いた。
後ろめたさがなかったわけではないが、誘拐されたなどと言って心配をかけるよりは遥かにいい。本当の家族のように接してくれる安藤家の人々に対し、やはりどこかで遠慮してしまう。過ごした年月だけでは解消できないものも、確かに存在した。
龍二を、恐らくは救出に来てくれた二人の少女。
彼女たちが何者だったのか、それを聞く間もなかった。
拘束された誘拐犯がどうなったのかもわからない。
あれで全て終わったのだろうか?
自分のおかれた状況もわからないのでは、あれこれ考えることも満足にできない。
深いため息を訝しむくのりに何でもないと誤魔化し、龍二は机にぐったりと突っ伏してチャイムが鳴るのを待った。
「えー、突然ではありますが、今日から新しいクラスメイトが増える事になりました」
ホームルーム開始早々、担任の女性教師から唐突すぎる話が飛び出す。
教室中がざわつく中、くのりが知っていたかと聞きたそうに視線を向けてくる。
龍二は首を左右に振りつつ、まさかという思いに駆られていた。
「先生も若干混乱しているのですが、それはさておき……転校生を紹介します。久良屋さん、入って」
「――はい」
朝から思考の節々にこびりつき、抱き続けていた不安。
それがまさに今、現実として目の前に現れた。
担任の声に応えて教室に入って来る一人の少女。見る者をハッとさせる整った顔立ち。肩にギリギリ届く長さの髪が、歩くたび微かに揺れる。背中に鉄の棒でも入っているのかと思えるほどに真っ直ぐな姿勢が、決して低くはない身長を際立たせていた。
「今日からこのクラスに編入されました。
教壇の横に立ち、堂々とした態度で自己紹介を手早く済ませる。緊張などは一切感じさせないその様子に、またしても教室がざわつく。
クラスの半分を占める男子は特に色めき立つ。それも当然と言えば当然だろう。
クラス中の視線を一身に浴びてなお臆さないその少女――久良屋深月は、芸能人やアイドルと比べてもなんら遜色はない。
だが、美少女という呼び方は相応しくない。美人、と言うのが妥当だろう。
同い年とは思えない佇まいや気配が、彼女には備わっていた。
一見すると近寄りがたくも思えるその少女の視線が、龍二に向けられる。
「――――っ」
蛇に睨まれた蛙だと、龍二は他人事のように思った。
嫌な汗が背中を伝い、手のひらに不快感が広がっていく。
どうして、という声にならない疑問が頭を駆け巡る。
転校生を名乗るその少女は、龍二を助けてくれたあの少女だった。
銃のような道具を使い、ごめんなさいと言って引き金を引いた少女。
「……ねぇ、なんか見てない?」
深月の視線が龍二に向けられていると気づいたのか、くのりが問いかけるように振り向く。だが、今の龍二には答える余裕がない。
「えー、それともう一つ。こっちも急なお話になりますが、家庭の事情で佐藤君が転校してしまいました。なので、久良屋さんは空いた佐藤君の席をそのまま使って貰います」
畳みかけるような担任の言葉に、龍二はますます混乱する。
入れ替わるように転校した佐藤君。彼の席は龍二の左隣だ。
今日は欠席か遅刻なのだろうと、深く考える事もなかった。
未だ混乱し続ける龍二などお構いなしに、担任から促された深月が近づいて来る。
「…………」
「……う、ぁ」
彼女は目の前でなぜか立ち止まり、龍二へと視線を下ろす。
真っ直ぐな視線を向けられた龍二は、情けない呻き声を漏らし、そして、
「……久しぶりね、龍二」
「………………は?」
間抜けな声を漏らす龍二に微笑みかけ、彼女はそのまま着席する。
決して大きくはなかった深月の言葉を聞き逃さなかったくのりは、説明を求めるように振り返る。
だが、担任の手を叩く音を合図にホームルームが始まる。
なぜか不満げな様子ながらも、くのりは渋々前に向き直る。
未だ混乱し続けている龍二はただ茫然と、深月の横顔を眺めていた。
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