思惑
薄絹の天蓋付の寝台にて影が一つ、その姿を揺らし、くねらせていた。
髪を振り乱すその様子は、扇情的であり蠱惑的でもあった。天蓋から垂れるカーテンに、僅かな灯火が写し出される影の主は、荒く息を乱し、言葉にならぬ声を漏らしていた。
やがて、影の主は限界に達したのか、弓形に仰け反らせたその身を痙攣させ、寝台へと倒れ伏した。
珠の様な汗を白磁の肌に浮かせた、妙齢の女が息も絶え絶えに、鍛え上げられた逞しい肉体を、組伏せる様にして肌を重ねる。
筋肉に張り詰めた肌を、指でなぞれば、己の背に強い腕が回される。
女はその感覚に、身を任せ瞼を落とした。
「マサミチ様……」
女が意識を落とす直前、名前を呼ばれた男は、己に乗った女を起こさぬ様に下ろし、寝台に寝かせる。
寝台横に引っ掛けていたローブを手に取り羽織り、寝台からゆっくりと離れる。
棚にあった酒瓶を掴み一気に煽れば、酒精の熱が胃に降りてきた。
「ふう…」
男、
この異世界に召喚されて数年、帰る術は存在するか自体が曖昧な魔王を倒し、その秘宝を用いて世界を繋げる事のみである。
この事実を知った時、神野を始めとした者達には絶望があった。だが、それと同時に、諦めもついた。
数年、されど数年という時間は、人をその世界に適応させるには、十分過ぎる時間だ。
まだ、帰還を諦めていない者も居るが、殆んどの者達はこの異世界での人生を歩んでいる。
神野もそうだ。レミエーレ王国の召喚勇者達のリーダーとして騎士団を率い、王国に攻め入ってくる魔族と、日夜戦いを繰り返している。
寝台を見る。小さな膨らみが、絹のシーツを纏い僅かに上下している。
この国の貴族と、神野は関係を持っている。この関係の始まりも、もう何年も前になる。召喚勇者として正統派な力を持ち、眉目秀麗であった神野は、貴族や王族からそういった目を向けられる事が多かった。
権力を嵩に、関係を迫られた事もあったが、その頃には政治や財務に深く食い込んでいた竜胆が、いつの間にかその権力を逆手に取って、いいように利用していた。
明らかに、利用された。
今思えば、恐らくあれらは、神野の身持ちの固さを知っている竜胆がけしかけたのだろう。神野が貴族令嬢と関係を持っていた事を知っていて、食えない女だ。
だが、神野にとって、ある意味竜胆の行動は、助かるのも事実だ。
神野は己が召喚勇者達リーダー役だと、自覚している。
他にも纏め役は居るが、全体のリーダー役は神野だ。だから、神野には他の召喚勇者達を守る義務がある。
しかし、守る義務といっても、中には教員等の大人も居る。一概に、神野が前に出ればいいというものではない。
このレミエーレ王国にも、自分達に関わる責任者が居る。だから、そういった者達と連携して、守る義務がある。……あったのだ。
「どうして…」
神野は呟く。
事はつい最近に起きた。レミエーレ王国領と魔族領との接点となる土地、そこに建てられた関所となる城塞が突破されたと、それがあの日神野にもたらされた報せだった。
神野も何度かその城塞を見た事があり、当初はその報せを信じられなかった。だが、次々に入る報せが、それを事実だと訴える。
神野は国と共同で、討伐隊と救助隊を編制し、現場へと向かった。今思えば、自分は向かわなければよかった。
あの事件が起きた今、そう思ってしまう。
神野達が城塞を取り戻し、王都に戻ってきた時には、山科椎名の反逆とグレイ・オーフィリア暗殺の、裁判が終わってしまっていた。
あまりに早過ぎる判決に、流石の神野も強権を用いて、あらゆる手を尽くしたが、山科の処刑は覆らなかった。
残る手は、竜胆のコネを使い処刑の日にちを遅らせ、関係各所に出鱈目の通知を行い混乱を起こし、山科を助け出す。
「グレイ……」
神野にとって、グレイ・オーフィリアは年の離れた親友であり、山科椎名は神野の初恋であった。
だから、山科がグレイを殺す訳が無いと信じられたし、彼女の性格から、勝算の無い反逆をする訳も無い。
何から何まで、この一件はおかしすぎた。
まるで、山科を排除する為だけに、一連の事件が起きていた様な、言い様の無いなにかが、足元で這いずっている。
「マサミチ様」
まだ月が高い夜を、窓から見上げていると、背後の寝台から声が聞こえた。
金糸を思わせる美しい髪に、気品のある穏やかな顔立ち、色気を振り撒く艶やかな曲線の体。神野の恋人であるリフィーア・ハウグストが、眠気の残る目でこちらを見ていた。
「リフィーア」
「あまり、御無理をなさらないでくださいませ」
リフィーアは薄絹のシーツを纏い、神野の背に抱き着く。柔らかな肌と肉の感触、温かな体温が、神野の背に伝わる。
「シーナ様の事を考えてましたね?」
「あ、いや、その……」
「構いません。あの方は、貴方様の初恋の方ですもの」
リフィーアは抱き着く力を強める。
細身ながら鍛え抜かれた肉体、召喚されてから数年に渡り、国を守り抜いてきた体と意志。
「うん、…済まない」
「構いません。そう申しましたわ」
初めは、ハウグスト家存続の為の見合いだった。だが、逢瀬を重ねるにつれ、神野の真っ直ぐで人好きのする人柄に惹かれていった。
「ですが、今だけは私をだけを見てくださいまし」
「…‥有難う、リフィーア」
神野の心に残る山科に、嫉妬を向けた事もあった。
だが、神野は山科に想いを告げる事無く、親友を前にその身を引いた。
「私は貴方様だけの女、どうか今だけは、昼の痛みを忘れてくださいませ」
「……ごめん」
神野はリフィーアの元に、山科はグレイの元に、神野と山科はお互いの心の内を知らぬまま、お互いの鞘に収まった。
その筈だったのに
「シーナ様なら、きっと大丈夫ですわ」
「……大丈夫かな?」
「大丈夫ですわ」
山科は全てを奪われた。
リフィーアは、神野の頭を己の胸に抱き寄せ、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
世間知らずの貴族令嬢の、根拠の無い慰め。だが、少しでも彼の負担を減らせるならば、リフィーアはそれを口にする事を厭わない。
「あの方は、きっと大丈夫ですわ。貴方様とオーフィリア家に見初められた方ですから」
「うん…」
「マサミチ様、まだ夜は長う御座います。どうか、リフィーアに貴方様の痛みをお教えくださいまし……」
神野はリフィーアの背に腕を回し、リフィーアも彼を抱き寄せる腕に力を強める。
陽が昇れば、また明日が始まる。変わってしまった日々が始まる。
だが今だけはと、神野はリフィーアの温もりの中で、重くなった瞼を下ろした。
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