第6話 挨拶も料理も、初めてだからね

 子猫を見つけた次の日。

 俺は案の定、風邪で寝込んでいた。それも結構酷い風邪で、鼻水が止まらないし、頭痛も物凄い。そして一番辛いのは、喉が炎症を起こしているということだ。唾を飲み込むのにも勇気が要るこの状況は、本当に最悪だった。

「ほら、温かいものでも飲みなさい」

 ベッドで苦しんでいると、母さんがティーカップを持ってやって来る。

 俺は喉を押さえて「喉が痛いから何も飲めない」というジェスチャーをする。しかし、母さんはぐいと俺にティーカップを持たせようとする。

「これ、喉に良いやつだから、大丈夫よ」

 ティッシュで鼻をかんでから、渋々ティーカップを受け取る。薄っすらと立ち上る湯気からは、まろやかな蜂蜜の香りがした。

 恐る恐る、ティーカップの中身に口をつける。

 美味しい。

 喉はめっちゃ痛いけど、これは美味しい。

「……なに、これ」

 壊れた喉で、無理やり四文字を絞り出す。

「蜂蜜生姜だって。洋子ちゃんから貰ったのよ」

 どうして母さんが自慢げにするのだろうか。

 それにしても、出来すぎた偶然だ。蜂蜜生姜なんて、正に風邪にぴったりな飲み物じゃないか。洋子さんが風邪の俺を心配して作った、なんてことは無いだろうし。

「はっちゃんお手製らしいから、味わって飲みな」

 母さんが何でも無いことのように言う。俺はそれを聞いて、動揺からか、物凄く咳が出た。

「料理とか、するんだ」

 俺はまた、痛む喉で無理やり声を出した。

 母さんから色々な話を聞いていたが、宮崎が蜂蜜生姜を作るなんて初耳だ。むしろ料理とかを全然手伝わないって洋子さんが愚痴っているのを聞いたくらいである。

「何か、急に生姜と蜂蜜を買ってきたらしいわよ。まぁ、あの年頃の女の子っていうのは気まぐれだからねぇ」

 いや、いくら気まぐれでも唐突に蜂蜜生姜なんて作るか?

 人を年代で一括にするのは、母さんの悪癖だ。

 とはいえ、気まぐれ以外に理由が見つからないのも事実だった。まぁ、そもそも俺は宮崎のことをよく知っている訳ではない。きっと彼女には彼女なりの理由があったのだろう。

 でも、分からない。

 何なんだろうなぁ。

 俺は部屋の窓から、宮崎家を見た。しかし、昨日から続く雨が薄いカーテンのようになって、視界を遮る。

 考え事をしていたら、段々と眠くなってきた。

 俺は蜂蜜生姜を飲み干して、直ぐに横になる。喉の痛みが和らいだせいか、結構安らかに寝ることが出来た。




 次の日。風邪は治っても、雨は止まなかった。俺は一応マスクを付けて、どうしてか返ってきた傘を手に持って玄関を出る。

 雨だから、日課のランニングは中止した。そうでなくても病み上がりだから、運動は避けなければならないのだが。

「あ……」

 宮崎が、微かに声を漏らす。

 扉の向こうには、宮崎が居た。居たと言うか、明らかに立っていた。佇んでいた。もっと言えば、誰かを待っていた。

 洋子さんから頼まれて、家に何かを届けに来たのだろうか。何にせよ、俺は話しかけない方が良いだろう。今までだって、そういう風にしてきたのだから。

 俺は門を開けて、宮崎を無視して駅の方へ向かう。

 宮崎の、赤い大きな傘。

 きっと近づいたら、俺の傘は彼女の傘にぶつかってしまうだろう。あの立派な傘に、穴でも空けてしまうかも知れない。

 心の中で、俺はよく分からない言い訳をした。

 ガツン。

 背後で、何かがぶつかった。傘の持ち手が震えて、俺は驚きと共に振り向いた。

「お、おはようっ」

 宮崎が、俺の袖を掴んでいた。見たことがないくらい、必死な顔だった。中学の時、美術室で一人、絵を書いていた時よりも。修学旅行の計画を考えている時よりも、必死な表情。

 一体何をそんなに必死になることがあるのだろう。俺一人に挨拶をするくらい、モテモテの宮崎初美にとっては朝飯前じゃないのか。

「……おはよう」

 俺は雨の音でかき消されるかと思うほど小さな声で、返事をした。

 宮崎は頷いて、視線を俺のちょっと上に向ける。

「傘、ぶつけちゃってごめん。穴とか、空いてないよね」

「いや、大丈夫だと思う」

 実際ぶつかってみると、大したことは無かった。穴も空かない。痛くない。

「もし、また傘を失くすようなことがあったらさ、私に言って欲しい」

 俺は宮崎が何を言っているのか分からなかった。赤い傘の向こう側で、彼女は真剣な顔をして、俺の目をじっと見ている。俺の理解を待っている。

「二人とも、遅刻するわよ」

 すると、宮崎家から洋子さんが出てきた。片手には傘、片手には大きな荷物を抱えている。

「あ、時間やばい!」

 宮崎が携帯電話を見て、大きな声を上げる。つられて俺も時間を確認すると、バスに乗るのにギリギリの時間だった。

「マジかよ……」

 俺が走り出そうとすると、それより早く宮崎がスタートした。俺もそれを追いかけ、何とかバスに間に合おうと……。

「にゃあ」

 視界の端に、見覚えのある生き物が居るのに気が付いた。

 洋子さんが抱えていた大きな荷物は、ペット移動用の持ち手の付いたケージだったのだ。

 そしてその中に、茶色い子猫は居た。腹の辺りにある縞模様を見て、俺は確信する。この猫は、俺が助けられなかったあの子猫だ。

「この猫、どうしたんですか」

 遅刻しそうなことも忘れて、俺は洋子さんの方へ一歩踏み出した。

「はっちゃんが急に拾ってきたのよ。可哀想だし、しょうがないから飼ってくれる人が見つかるまで家で育てることになってね。これから予防接種に行くところなの」

 俺は洋子さんの説明を聞きながら、ケージの中を覗き込む。子猫はか細い声で鳴きながら、俺の方へと前足を伸ばす。狭いケージから出してほしいのだろう。

 多分、俺のことなんて忘れているだろうけれど。

「……良かったな、お前」

 俺は何だか胸が一杯になって、洋子さんと別れてから、ゆっくりと駅に向かった。

 その間に、考える。

 宮崎は、俺が子猫を見つけていたのを目撃していたのだろう。そして、気が付いたのだ。俺の父さんが動物嫌いである以上、俺には捨て猫をどうにかする手段が無いということを。

 雨粒が楽しげにアスファルトを跳ねる音を聞いて、俺は笑みを浮かべた。全く。俺もきっと人のことは言えないだろうが、宮崎は言葉が足りなさすぎる。ちゃんと説明してくれれば、あの場で感謝できたのに。

「……いや」

 俺と宮崎は、家が隣なのだ。

 話そうと思えば、機会なんて幾らでもあるじゃないか。

 明日の朝は、俺から挨拶しよう。

 そう心に決めて、俺は遅刻確定のバスに乗車した。

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