第六章
第六章
三日後、咲は裁判所の前でバスを降りた。
あの、梅津由香子さんにあってみようと思った。直接言葉をかけられるわけではないけれど、傍聴人として、梅津由香子さんがどう裁かれるか、見てみたいと思った。
傍聴席に行くには、先ず傍聴券が必要なので、裁判が始まる前に、それを購入する必要があった。傍聴券を販売する所へ行ってみると、傍聴を希望する人はマスコミの関係者が五、六人くらいいる程度であったから、傍聴券はすぐに買えた。
丁度その時、別の部屋から、下駄の音がして、現れたのはジョチであった。彼も傍聴券を持っていた。
「あれ、浜島さんじゃないですか。あなたも、この事件に興味があるんですか?」
「ええ。あたしも、武史君が余りにも悲しがっているので、何か力になれないかなと思ったんです。」
咲がそういうと、
「そうですか。僕もそう思ったんです。本当は弟が、こちらへ来たかった見たいですけど、店があるので、僕が代理で来ました。武史君の親友だった様ですからね。実の母親が犯人とされていますけど、本当に彼女が犯人だったかどうか、それを確かめに来たんです。」
と、いう言葉が返ってくる。
「という事は?」
と咲が聞くと、
「いや、正人君を殺害したのは、紛れもなく由香子さんだと思うのですが、彼女一人の身勝手な犯行という訳ではないと思うのですよ。」
と、ジョチは答えて、腕にはめた時計に目をやり、法廷に入った方がいいと促した。咲も、わかりましたと言って、法廷に移動する。ジョチさんは裁判を傍聴するのは初めてではないようで、平気な顔をして歩いているが、咲はこういう所を歩くのは初めてで、非常に緊張してしまったのだった。ジョチさんが、隣に座ってもいいと言ってくれなかったら、緊張しすぎて、震えてしまったに違いない。
裁判所という所はそういう所である。
二人が、そうやって、裁判が始まるのをまっていると、検察官や、裁判官、弁護士の小久保さんが入ってきた。そして、被告人である、梅津由香子が入ってきた時には、マスコミ関係者はすぐにフラッシュを炊いた。
裁判官が検察官に起訴状を朗読するようにといった。ちょっとごつい顔つきの検察官が、えへんと咳ばらいをして、朗々と起訴内容を語る。
「えー、被告人の梅津由香子は、一人息子の梅津正人の育児に耐えきれなくなり、正人を自宅のベランダから放り投げて殺害したものである、、、。」
咲が理解した内容は、そこまでであった。後は、法律の用語ばかりで、よくわからなかった。
「それでは、被告人はただいまの起訴内容を認めますか?」
と裁判官が聞くと、
「はい、認めます。」
と、梅津由香子は小さい声でこたえた。弁護士の小久保さんもこれは認めた。しかし、
「被告人は、犯行時、心神耗弱状態にあったと思われますので、寛大な処分をお願いします。」
と続けて言った。なるほど、減刑を求めるときによく使われるキーワードという事ですか、と咲の隣でジョチさんがそういっている。
「それでは、本当にそのような状態にあったのか、証人を呼んでいますので、よろしくお願いします。」
と、小久保さんは、影浦を証人席に呼んだ。影浦も、こういう所に立たされる経験は余りないようであったが、それでもしっかりと、
「はい、梅津由香子さんは、母親であるとして、懸命に育児をしていましたが、それを祖母の望月八重子さんが、手伝っていたという事は事実であります。由香子さんは、この行為をありがたいと思ったことはなく、寧ろ、自身の育児の場を奪われた様で、苦痛であったと言っておりました。その苦痛が重なって、正人君を殺害に至ったものと思われます。」
と、言った。
「被告人の、犯行以前の精神状態について教えてください。」
小久保さんが聞くと、
「はい。正人君の母親という実感を失くしていたほど、祖母の望月八重子さんの介入が多く、望月さんの声がするたび、パニックになるような言動も見られました。それは、これまでの診察ではっきりしています。八重子さんが余りにも介入してくるせいで、八重子さんの声が頭から離れず、しょっちゅう八重子さんがやってくると騒ぎ立てることもありました。私たち医者にも、看護師にも、弁護士の小久保先生にも、八重子さんが梅津由香子さんのことを、悪く言っているとか、責め立てるような光景が、みえたということはありません。しかし、本人には確かにみえたり聞こえたりしているのです。これを医学用語では幻視といいます。由香子さんには、逮捕後に僕が診察した時、この症状がはっきり確認できました。由香子さんのご主人も、由香子さんが暗闇に向かって突然叫ぶという言動があったと話していますので、犯行の頃にも、これがあったのではないかと思われます。」
と、影浦は言った。
「そうですか。では、影浦先生、被告人をどのような疾患に罹患していると考えられますか?」
「そうですね。最近の精神疾患は、病名をつけてしまうと、かえって診察しにくいことが多いので、余り具体的な病名をつけることはしません。」
また小久保さんの説明に答えを出す影浦。
「それでは、正人君を殺害した時の、責任能力はあったという事でしょうか?」
小久保さんはまた質問すると、
「いえ、犯行を行うことを前々から計画したという訳ではありませんし、その日も、正人君について、八重子さんが注意をしたという話もありますから、おそらく、八重子さんの注意に対して、衝動的に正人君を突き落したのだと思われます。」
と、影浦はこたえた。つまり、おばあ様の八重子さんさえ口を出さなかったら、事件は怒らなかったという事か。それでは、かえって、八重子さんのほうが悪いということになってしまうのでは?
「質問を終ります。影浦先生、有難うございました。」
小久保さんがそういうと、影浦は、一礼した。すると、検察官が立ち上がる。
「影浦先生。それでは、望月八重子が、正人君を殺害するように、誘導したという事でしょうか?」
「いえ、八重子さんにも、殺意があったということはありません。ただ、八重子さんは、それまでの過ちを正人君にはさせないように、という気持があったと伺いました。事件の日も、八重子さんは、正人君のことが心配で、声をかけたと言っています。またこれはまだ確証がないのですが、由香子さんは、自分が幼かった時に、八重子さんが、正人君に取るような態度をしてもらえなかったという可能性もあります。」
影浦がそういうと、検察官は、
「なるほど。では、被告人は、八重子さんが、正人君を余りにかわいがるのに嫉妬し、殺意をいだいたという事ではありませんか?」
と、聞いた。
「それは不詳です。ただ、由香子さんが、八重子さんを憎んでいるのであれば、八重子さんを直接ということもあり得るでしょう。それに、八重子さんが、由香子さんが幼い時、彼女を邪見に扱っていたというのは、彼女の発言から私たちが推測することであって、はっきりと確証が取れたということはありません。」
影浦は、しっかりと言った。
では、どうして、望月八重子さんが証言をしないのだろう。咲はそれを聞きながら、そんな疑問をいだいてしまった。
「ありがとうございました。」
と、検察官もそういったため、影浦は、また一礼して証言台から離れて行った。次の証人として呼ばれたのは、正人君の通っていた学校の校長であった。
今度は検察官が聞く。
「それでは、私の方から幾つか質問をします。えーと先ず、正人君は、学校で何か問題を起こしたことはありますか?」
「ありません。正人君は、いつもにこやかで授業もよく聞いていましたし、わからない所はしっかり質問にやってくる、学校でも評判のいい子でした。」
と、校長は答えた。
「でも、正人君の母親の梅津由香子さんは、正人君のことを、学校の成績が悪いと言って、よく彼をしかっていました。」
「しかっていた。それはなぜなのでしょうか?」
検察官はもう一度聞いた。
「はい。どうしても学校の成績というモノは、一とか二とか、数字で表さなければなりません。いくら、授業態度が良かったとしても、数字が一や二であれば、成績が良いとは言い切れない。正人君は、虚弱な体質であったので、どうしても欠席が多かったこともあって、よい成績は得られなかったといわれています。学校側としては、通信簿で良い点が取れていなくても、正人君はとても良い生徒だと何度も説明しましたが、由香子さんは聞き入れませんでした。」
校長がそうこたえるほど、由香子さんは、そういう母親だったんだろう。
「ちょっと失礼、横入りをしてしまいますが、なぜ、被告人は、正人君のことを成績だけでしか評価できなかったのでしょうか。」
小久保さんが、ふいにそんなことを言った。
「そここそ、被告人が、精神を病んでいるという事ではありませんか?」
「ええ、ですが、学校の成績は、親御さんに対しても、学校教育の結果ということもありますので、私どもが由香子さんに、どうのこうのという事ではありませんでした。」
と、小久保さんの質問に対して、校長はこたえた。全く、学校という所は実にいい加減だ。ただ、子どもに学問を教えて、その成績をつければいいというだけのスタンスなのである。
「では、由香子さんは、正人君に対して、正しい認識が出来ていなかったということは、確認出来ませんでしたか?」
検察官がもう一回聞くと、
「ええ、学校側としては確認できませんでした。成績で、判断してしまうのは、母親にはよくあることだと思っていました。」
と、校長はそういった。検察官は、校長に対して礼をいい、証言台から下がらせた。
その日は、まだ初日であったせいか、それ以上深いやり取りはなく、裁判は終了した。何だか、小久保さんの方が有利な展開になってきたと、咲は思った。でも、正人君のことは、やっぱり、と思うのだが。何となく、咲はそのあたりが腑に落ちない裁判になったなあと思ってしまったのであった。
その次の日。また裁判が行われた。今度は、ジョチさんと裁判所の前で待ち合わせして、咲は傍聴券を買い求めて中に入った。傍聴人の数は、また少し減っている。
また、検察官と弁護人の小久保さん、そして、証人とのやり取りが、開始されたのである。
「それでは、校長先生に伺います。正人君が、学校生活をしていたうえで、何か不自由な所はありいませんでしたでしょうか。」
と、検察官が、話し始める。
「はい。確かに正人君は特殊な体質でした。正人君は、肉や魚に対して強いアレルギーがありました。そのため、給食をほかの生徒とは別のものしたり、時にはご家庭に連絡して、お弁当を持ってきてもらったこともありました。」
と、校長はしっかり答えた。
「それを、正人君のお母さんは、遵守していましたか?」
検察官が又聞くと、
「いえ、正人君の食生活は、おばあ様が担当されていた様で、おばあさまがお弁当を作ってくれたと正人君は担任教師に話していたようです。」
と、校長はこたえた。
「それでは、母親の由香子さんは、正人君の世話にほとんど介入して居なかったという事でしょうか?」
「ええ、その通りです。でも八重子さんは、正人君のためを思って、こういう事をしていたのだと言っていました。授業参観も、保護者会も、ほとんどおばあさまが担当されていたようです。」
校長がそう話している間、数人の記者たちが、なぜ望月八重子が姿を表さないのかとざわつき始めた。裁判長が、幾たびか、静粛に!と注意する場面も見られたほどである。
「本当は、八重子さんをここに連れてくることが必要なのではありませんか?」
咲は、おもわず、隣の席に座っていたジョチさんに言った。
「そうですね。ですが、それは実現できますかどうか。」
と、ジョチさんは、ふっとため息をつく。
そのまま、由香子が証言をすることになった。証人が証言台を降り、今度は手錠をかけられた由香子が、証言台に乗る。
「事件の概要を思い出してください。まず初めに、なぜ、正人君をベランダから突き落したのでしょうか?」
と、裁判長が言うと、記者たちは、ここぞとばかりに、メモと、ペンを持ち直した。これが一番、彼らの関心を引くことであった。
「はい、私には、どうしても、正人を大切には思えませんでした。」
と、由香子はぼそっと答えた。
「それは、正人君を愛していない、という事でしょうか?正人君はあなたにとって、憎むべき相手でしたか?」
検察官が聞いた。
「いいえ、確かにあたしが産んだ子であることはまちがいありません。でも、正人は、とても体が弱くて、学校にもなじめなくて、肉も魚も食べられなかったし、それでは、もう生きていないほうが、しあわせなんじゃないかって、思ってしまうほど不自由だったんです。」
「でも、正人君は、学校では評判のいい生徒だったといわれている。それでは、決して、生きていなくても良いということは、なかったのではありませんか?」
「いえいえ、そんなことありません。毎日毎日、食べ物にあたって膿痂疹が出来て、学校の成績も悪くて、本当にダメな子だと、あたしは思ったんです。だから、正人の事、本当にいい子だとは思えなかったんです。だから、あたしは、もうあの子はこの世に生きていたら、この世に順応できないんじゃないかって、いつも不安で仕方なかったんです。」
それでは、明らかに学校の校長の証言とは認識がずれている。校長は、とても評判のいい生徒だと言った。でも、由香子の話だと、体が弱くて、成績も悪くて、ダメな子だということになる。
「それでは、犯行のあった日のことを教えてください。正人君をベランダから突き落した時の事です。その前に何がありましたか?」
と、検察官が、由香子に聞くと、
「はい。母に、しかられていました。正人の学校の成績が悪いのは、あたしのせいだと罵っていました。あたしは、正人のことを、学校にも社会にも対応できないダメな子だと思っていたけれど、母は違っていた様です。母は何とかして、正人が学校に行けるように、勉強の手助けをしたり、正人のお弁当を作ったりしていました。それで、あたしに、正人が学校の成績が悪いことをいつもしかっていた。だから、あたし、母に怒られるのがどうしても嫌で、正人さえ居なかったら、もう怒られることもないと思って。だから、思わず、、、。」
そういって、由香子は涙を流して嗚咽した。
「それでは、正人君は抵抗したりとかしなかったんですか?正人君が転落する際に。」
小久保さんが聞くと、
「はい。正人は、学校から帰ると、疲れて寝ていることが多かったんです。丁度、私がしかられていた時、正人は、昼寝をしていました。なので、眠っていた正人を持ち上げて、そのまま突き落しました。」
と、由香子は答えを出した。記者たちは素早くペンを走らせる。
「ということが認められるんなら、正人君を意図的に殺したことになるわねえ。それでは、由香子さんは、正気だったのではないの?」
と、咲はおもわず呟いてしまった。
「どうですかねえ。たまたま昼寝をしていただけなのかもしれませんよ。其れが、由香子さんにとっても、正人君にとっても、不幸な事だったのかもしれない。」
ジョチもそっと咲に呟く。
「被告人は、正人君について、八重子さんに良く叱られていたのですか?それを、周りの人に相談したことはありますか?」
と、小久保んが言うと、由香子はこうこたえる。
「はい。主人にもいいましたが、仕事が忙しいから、後にしてくれと言って、話を聞いてくれませんでした。あたしは、一人では苦しいので、何とかしてくれといいましたが、つまらない発言はやめろと言って、信じてもらえませんでした。でも、本当に、あたしは、正人の食生活や、勉強の事で、すごくしかられて、しかられて、、、。」
この言葉が、影浦の言った幻覚というものかもしれないな、と咲は思った。裁判所にいるほかの人たちも、認識のずれや、このような証言から、由香子がやはり普通の精神状態ではないということを確信したようだ。
「正人君は、生まれてこない方が良かったのではありませんか。」
ふいに、水穂さんが言っていた言葉を思い出す。若しかしたら、そうだったのかもしれない。水穂さんは、本当のことを言ったのかもしれなかった。だって、彼女の話が本当であったら、とても正人君を育てることなど出来ない筈だ。それを、ふさごうとして、八重子さんはいろんなことをしていたのだが、其れが、由香子さんにとって、悪影響であったのなら、負のスパイラルに追い込んでしまうということになり、結果として、それは正人君の成長にも、影響を及ぼすことになる。
でも、本当に其れでいいのだろうか。それでは正人君は、なぜ生まれてきたのだろう?
「それでは、被告人は、正人君を愛して居なかったということになり、正人君に対して、明確に殺意があったという事になるのでしょうか?」
また検察官がそんなことをいった。
「違います。あたしは、正人の事を嫌いになったことはありません。だって、正人は、あたしが産んだ子だったんです。でも、正人は母のもとに行ってしまうし、体も弱いし、学校の成績も悪い!あたしの方なんて、どうでも良かったんです!あの子は、あたしには、ぜんぜん懐こうとしないで、母のほうに行ってしまう!それでは、あたしが何のためにいるのか、なんて到底わかるものじゃ、ありませんでした!」
「ほんとに、精神がおかしくなっているのでしょうか。認識に問題があるように思います。影浦先生の診察通り、正人君に対しても、お母さんに対しても、話がずれている。」
ジョチさんのいう事が本当なら、正人君は何のために生まれてきたんだろうか。ただ、おかしくなった母に殺される運命しかなかったのか。それでは、正人君の存在とは、何だろう、、、?
武史君、咲おばさんは、ちゃんと答えを出せなくてごめんね。
咲は、大きなため息をついた。
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