第四章

第四章

「今日は、おじさんの所に行く日だ。僕ちゃんと覚えているんだ。」

と、武史君が、壁にかかっているカレンダーを見ながら言った。確かに今日の日付は、赤まるで囲ってある。武史君は、それを今か今かと楽しみにしていたようだ。そういう所は、やっぱり子どもだなあと思う咲であった。父のジャックさんは、その日も、絵を描く仕事でどこかに出かけてしまっていたので、咲が武史君の家で彼の世話をする役目を任されていた。

「咲おばさん、早くおじさんの所に行こう。」

武史君は、そういって咲を急かした。咲は急いでお化粧をしなおして、はいはい、とスマートフォンを取って、タクシー会社に電話する。

武史君はその間にも、ぴょんぴょん跳ねながら嬉しそうな顔をしていた。これを見ると咲は、何とかしてやらなければならないな、と思ってしまうのだ。子どもって得だねえ。そんなことを思いながら、タクシーの手配をした。

それでは、行きましょうか。と咲は武史君を自宅の玄関前に連れていくと、タクシーはすぐに来てくれた。二人はすぐにタクシーに乗り込んで、製鉄所まで走って貰う。

製鉄所に行くと、玄関先に、誰の靴なのかわからない靴があった。多分先客が来ているという事だろうが、それにしても高級な革靴で、持ち主はきっと、高尚な身分の人なのではないかと思った。

「あれ、お客さんなのかしらね。」

咲が、そう呟くと、ブッチャーがやってきて、

「あれ、浜島さんじゃないですか。今日は、どうしたんですか?あ、そうか。そういえば今日、武史君がお見舞いに来てくれるって言ってましたね。」

と、頭をかじりながら言った。

「そう、連れてきたのよ。その日付通りに。あの、ブッチャーさん、右城君は?」

咲があらためて質問すると、

「あ、はい。水穂さんなら、四畳半で寝てますよ。」

と、ブッチャーはこたえた。

「それはわかるんだけど、この靴は誰の靴?」

「ああ、これですか、小久保さんの靴です。丁度、水穂さんに証言をしてほしいって依頼に来られました。まあ、結局、水穂さんには断られてしまったようですね。結局、無理なものは無理ですが。小久保さんなら、いま食堂で、お昼を食べてます。」

ブッチャーの説明を聞いて、小久保さんもすごい人に、証言を求めるものだなあと咲はおどろいてしまった。ブッチャーは気を取り直して発言する。

「まあ、とにかく上がってください。武史君が来てくれることは、前々から決まってましたから、実行しなければならないでしょうからね。」

前々から決まって無かったら、追い出されるところだった。武史君のような子どもには、前々から決めておく事は、非常に重要な事なのである。

「じゃあ、上がってください。」

咲が困っているとブッチャーはもう一回言った。これも重要なことで、目的を少しでもはたしていれば、武史君のような子はすんなり落ち着くのである。目的を、勝手な都合で消してしまうというのが、武史君には一番いけない。

「そう、じゃあお邪魔しますね。」

と、咲は靴を脱いで中に入った。武史君もわあいと言って、その通りにした。

「今さっきまで小久保さんが来ていて、色々話していきましたんで、あんまり体力を使わせないようにしてくれよ。それに、三日間ほどんど碌なものをたべなかったから、もう痩せてがりがりだよ。びっくりしないでね。」

ブッチャーがそういうのを尻目に、武史君は、電光石火のように、製鉄所の中に入ってしまうのであった。いくら廊下を走るなと言っても効果はなかった。咲が追いかけても追いつかず、武史君は、すぐに四畳半に行ってしまう。製鉄所は部屋が多いため、迷路みたいな作りになっており、一度や二度はまよう物だが、それをすぐに解いて、猪突猛進に四畳半へ行ってしまえるのも、武史君ならではなのかもしれない。

「おじさん!」

武史君は、すぐにふすまを開けた。おじさんこと、水穂は、疲れてしまったのか布団のなかで静かに眠っていた。

「おじさん!」

武史君はもう一回言う。咲もやっと彼に追いつき、

「右城君、たいへんだろうけど、ちょっとだけおきてやって。武史君が、来てくれたのよ。」

と、水穂さんに声をかけた。

「おじさん、おきて!おじさん!」

武史君が、その体を揺さぶると、やっと目を覚ましてくれたようで、目を開けた。

「あ、ああ、すみません。何だか疲れてしまって。」

水穂は、ヨイショとげっそりと痩せた体を起こした。其れも何だか辛そうな顔をしている。

「どうしたのよ、右城君。体調良くないの?」

咲がそう聞いてみると、

「ごめんなさい。何だか体が重くて。起き上がるのも一苦労何です。」

と、細い声で水穂はこたえた。

「それはねえ、おじさんがご飯を食べないからじゃないの。」

得意げにいう武史君。

「さっきのぶさめんな人に聞いたよ。何も食べないって。」

隣の部屋からブッチャーがくしゃみをしているのが聞こえてきた。本当にこの子は、どうしてそういうことをタイミングよく口にするのだろうか。本当に変な子だなあと、咲は思った。

「おじさん、また本を読んでよ。僕が大好きな本。」

武史君は鞄の中から、一冊の絵本を取り出す。またライオンとネズミか、と咲は思ったが、水穂は何もいわないでその本を受け取り、昔々あるところに、と語り始めるのであった。

「全く、なんでそんなに、ライオンとネズミの本がすきなのかしらね。武史君は。」

咲が呆れた顔をしていうほど、武史君はライオンとネズミの本を読んでくれと、何回もせがむのが通例になっている。

「もう一回読んで。」

一度読み終わって、武史君は予想通りにまたせがむのだ。水穂は、はいはいといって、本を元の位置に戻した。その直後に咳が出た。

「右城君大丈夫?」

と咲が聞く。咳き込みながらライオンとネズミの本を読み始めた水穂だが、そのスピードは一回目に読んだ時よりも遅かった。それでも、読んで読んでと、朗読をお願いする武史君。

「じゃあ、お昼いただきましたので、帰りますよ。ありがとうございました。」

と、小久保さんが、四畳半にやってきた。武史君が、丁度またライオンとネズミを読んでとせがんでいる所だった。

「あら、武史君が来ていたんですか。武史君、何回も本を読んでもらうのはいいのですが、水穂さんへの負担を考えて下さい。」

小久保さんがそう注意すると、

「いいえ、構いません。ライオンとネズミの本を読んでよろこんでくれるなら、僕も嬉しいので。」

と、水穂はこたえた。小久保さんは一寸ため息をつく。

「そういうことじゃなくて、水穂さんもご自身の体の事を考えてください。武史君にも、体の事をちゃんと示して、少し我慢して貰うことを覚えてもらわないと。」

「いえ、そんなこと、」

言いかけて水穂はまた咳き込んでしまった。咲が急いでその背中をなでてやった。右城君吐きそう?と聞くと無言で頷いたので、咲はすぐに口元へタオルをあてがってやる。すぐにタオルが赤くなった。

「すみません。何だか、申し訳ないことをして。」

水穂は軽く頭を下げたが、小久保さんはもう横になった方がいいと言った。武史君も、つまらなそうな顔をしないで、おじさんすぐに眠って、と、横になるように促した。小久保さんに支えてもらいながら、水穂は、敷き布団に横になった。武史君がはいおじさん、とかけ布団をかけてやった。

「すみません。何だか皆さんの楽しみをぶち壊すようなことをして、申し訳ないです。ごめんなさい。」

水穂は申し訳ない顔をして、起きていれば頭を下げるようなしぐさをした。

「いいのよ、右城君。もう疲れちゃったんでしょ。ゆっくり眠った方がいいわよ。」

「僕も、ライオンとネズミの本を読んでもらったから、それでいいや。」

咲も武史君もそういうことを言った。本人が納得することが出来れば、多少我慢することもできるようである。

「すみませんね。僕が一寸、質問しすぎて、疲れてしまいましたでしょうかね。ちょっと、裁判で話すのに、水穂さんの話をしようと思って、いろいろ質問したんです。まだ聞きたいこともあるんですが、今日はもうここまでにしようかな。」

小久保さんは、メモ用紙を、鞄のなかにしまった。

「何を聞きにいらしたんですか、裁判で話をするって。」

咲がおもわず、そう聞くと、

「い、いやね。丁度、殺害された梅津正人君と、水穂さんの体質が、似ていると思いましたので、水穂さんは経験者として、この事件をどう思ったのか、聞きたかったのです。」

と、小久保さんはこたえた。

「経験者?」

「そうですよ。正人君が、もし殺されずに成長することが出来た場合、水穂さんとおなじような生活をするようになるでしょうからね。其れで、お話を聞きたく思いまして。」

なるほど、経験者は語るか。

「それで、おじさんはどんな答えをだしたの?」

武史くんが、子どもらしくそう聞いた。大人の話に首を突っ込むのがどうもすきらしい。

「教えてよ、おじさん。」

それに対して損得があるのかなんて知らずに、ただ知りたいからそう聞くのは、なんとも子供らしかった。

「ああ、おじさんは、眠った方がいいから、おじいちゃんが代わりにこたえようね。おじさんは、殺されて良かったのではないかと言っていたよ。」

「は?」

咲はおもわず、おどろいてしまった。

「ちょっと待ってよ、右城君。そんないいかたってないでしょう?そんないいかたって。そうじゃなくて、やっぱり生きていることが一番だとこたえてやるべきではないの?」

「いや、そんなことありません。僕みたいに、人に迷惑ばかりかけているような人間になってしまうだけですからね。其れが不安になって、殺害に至ったのなら、寧ろそのほうが、親にも子にもいいのではないかと。」

布団に寝たまま、水穂が細い声で言った。

「ほらほら、無理してしゃべらないでください。しゃべるとまた、血が出ますよ。」

小久保さんが、急いでそれを制したが、咲のほうが、怒り心頭と化してしまって、こう言ってしまうのである。

「右城君もね、いっていいことと悪いことがあるじゃない!いくらどんなに重い障害や病気の人間であっても、自ら死んだ方がいいとか、殺された方がいいなんて言う人間は、何処にもいやしないわよ!そんなこと、右城君が一番よくわかっている事じゃないの!それなのに、そんな事いうなんて!」

「浜島さん。そんな大声をあげて怒鳴らないでくれませんかね。」

と、小久保さんが言ったが、女という者は、怒りのコントロールという点に関しては、苦手である場合が多い。まして、誰かが怒っている女に手を出すと、火に油を注ぐような感じで、ますます怒りを増幅させてしまうということもある。

「なによ、小久保さんまでそういう事をいうんですか!じゃあなんですか、こういう障害や病気の人は、みんな死ぬべきだというの!そんな事あるわけないじゃない!そんなのがまかり通るのは、ナチスの時代だけよ!」

「咲さん。ナチスの時代と今とは違うんですよ。」

水穂がもう一回そういったが、咲の怒りは其れで治まることはなかった。

「それなら、今じゃなくて、ナチスドイツの時代の方が、ただしいということになるんですか!あたしは、そんな事、絶対に信じませんよ!どんな人だって、死んだ方がしあわせになれる人なんて、いやしないわよ!水穂さんも、小久保さんも、どこかおかしいんじゃありませんか!どんな事であっても、体が悪いからと言って、殺してもいいかということはあり得ない話ですよ!」

「咲さんはしあわせだったんですね。多少、お母様との確執もあったかもしれませんが、そういうことを正しいと主張できるんですから。でも、それは、咲さんが裕福で、ご飯に不自由していないから言えるのであって、もしそうでなかったら、そういう倫理観は持てないと思います。」

そういって水穂は、また咳き込み始めてしまった。小久保さんが、すぐに体を横にして、背中をなでてやった。

「薬、薬とって。」

小久保さんの指示で、咲は嫌だなあと思いながら、枕元の吸い飲みを取った。本当は、これを中庭に放り投げてしまいたいくらいだった。でも、自分は大人だからとそれをぐっとこらえて、吸い飲みを小久保さんに渡した。

「ほらどうぞ。」

小久保さんにそういわれて、水穂は、吸い飲みの中身を飲み込んだ。吸い飲みの中身には眠らせる成分があるのか、飲み終わるとすぐに眠ってしまうのである。

「おじさんよく眠ってね。」

と、武史君までそういうことを言った。

「右城君、右城君だって、ちゃんと体を治そうと思わないと、看病して貰えなくなっちゃうわよ。今だったら、ちゃんと治せるでしょ。今は、良い薬だってちゃんとあるのよ。だからそれを使って、良くなろうと思ってよ。」

咲がそういう事を言うと、

「僕がおじさんを看病して上げられたらいいのにな。」

何て武史君が発言したため、おもわず、咲も小久保さんもふきだしてしまったのである。

「僕、おおきく成ったら、正人君の看病が出来るようになりたかったな。正人君が逝っちゃう前に、このことを話しておけば、正人君は逝かなくても済んだのかなあ?」

「武史君は、ほんと、優しいのね。」

咲は、そう武史君に声をかけた。

「咲おばさんも怒らないでね。おじさんは、本当に辛いんだよ。」

「そうね。おばさん、まちがってた。」

と、咲はそっとため息をつく。

「しかし、正人君は、どうして殺されなければならなかったのでしょうか。もし、水穂さんのような体質であれば、医療機関に見せて、医者から指示をされるとか、食べられない食べ物はなるべく避けるように食事を工夫して、食べさせたりするはずですよね。お母さんが、それを面倒くさくなるということは、お母さんであればないと思うんですけど。私は子どもを持ったことがないけど、少なくともあたしだったら、そんなことはしないと思うんですけどね。」

と、咲は、そこはどうしてもいいたくて、小久保さんに言った。小久保さんも、

「ええ、そこなんですよ。僕も其れがよくわからないんです。警察にも聞いてみましたけどね、どうして正人君を殺害するに至ったのか、は、はっきりしませんでした。彼女、つまり、正人君のお母さんの、由香子さんですが、警察の取り調べにもぼんやりしたままで応答しないので、何らかの精神疾患とされましてね。いま精神科を時折訪問させて貰うことになっていますが。」

と、咲の話に同調する。

「実はあたしも、焼き肉屋さんで、正人君のお母さんにあったことがあったんです。丁度、正人君が、サラダを万引きしようとして、焼き肉屋さんでご飯を食べさせて貰った時に、彼のお母さんに迎えに来てもらったんです。その時、私もお会いしましたが、お母さんは、とても殺害するような人にはみえませんでした。本当に、ごく普通のお母さんという感じでしたが、正人君の家庭に何か問題があったのでしょうか?」

咲は、小久保さんに、先日焼き肉屋さんであったことを話した。

「もし、あたしの話がおかしいと思うのでしたら、焼き肉屋の理事長さんにも、聞いてみてください。きっと同じことを言うと思いますから。」

「そうですか。わかりました。しかしですね。父親の梅津重雄さんは、出張で不在でしたし、時々育児を手伝っていたおばあさまの望月八重子さんは、その日老人会の会食に出ていて来訪しておらず、正人君と一緒にいたのは、梅津由香子さんしかいないんですよ。あのお宅は、家政婦を雇っている訳ではなかったんで、やっぱり家にいたのは由香子さんだけなんですよね。それは警察にちゃんと聞いて、はっきりしています。」

と、小久保さんは答えを出した。

「お父さんは、ずっと出張が多かったのですか?」

「ええ、まあそうです。でも、サラリーマンとなればそういうことも多いでしょう。それは一般的な家庭では何処でもあると思いますよ。父親は、そうやって経済的な基盤を作らなきゃ。それは、今の家庭でははっきりしています。ほかの人が、家庭を養うということは先ずありませんからね。」

まあ確かにそれはそうだ。それは本当だ。昔の家庭であれば、父親と祖父が二人で、ということも十分あり得た話だが、今は父親だけが一家で唯一の大黒柱という家の方が数多い。

でも、一般的な常識に、耐えられるかは別の話であるが。

「と、いう事は、正人君の育児は、ほとんど由香子さんにゆだねられていたという事ですね。」

咲が又聞くと、小久保さんは、そういう事ですねえと頷く。

「まあ、現代社会ですし、どうしてもそうなってしまうのでしょうか。其れでも正人君が、特殊な体質だったから、おばあさまの八重子さんは時々心配になって見に来ていたそうです。ただ、犯行が行われていた時は、たまたま老人会の会食に出ていまして、其れで不在だったというだけでした。何だか、おばあさまがそばにいてくれれば、犯行は防げたかもしれないですがね。」

「でもあたし、思うんだけど。」

と咲は言った。

「おばあ様が主役になっちゃ困るというのもまた確かよね。」

「そうですね。由香子さんも彼女なりに一生懸命やっていたそうですが、正人君に対して、不幸が重なったとしか言いようがないですかな。」

小久保さんもそういった。二人がしんみりと何か考えていると、

「僕は正人君が逝ってしまって寂しい。」

と、武史君が涙を浮かべて泣き出す声がする。慌てて咲と小久保さんが後ろを振り向くと、武史君、こっちにおいで、という声もして、水穂がそっと武史君の小さな手を握っているのがみえた。

「ごめんなさい。起こしちゃった?あたしたち、変な議論をし過ぎたかしら。右城君は、眠っていてくれて良かったのに。」

「咲さんが、そんな大きな声でしゃべるんですもの、眠っていられませんよ。」

咲が恥ずかしそうにそういうと、水穂はにこやかに笑ってそうこたえるのだった。何だか、自分は水穂や武史君に見透かされている気がして、咲は顔を赤くした。







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