第三章
第三章
その日、小久保さんは、梅津正人君の母親である、梅津由香子さんに会いに行くため富士にやってきた。と言っても、御殿場線が、一時間に一本しか走っていなかったから、時間を早くしすぎたせいで、約束の時間の一時間以上前に、富士駅へついてしまった。それではしかたない、富士駅の中で時間をつぶすかと思って、駅の中に併設されているカフェに入る。
カフェに入ると、一番前の席で、一人の中年女性が、小さな男の子と一緒に、ジュースを飲んでいた。小久保さんは、その隣の席に近づいて、
「あの、隣に座ってもよろしいですかね。」
と聞いた。女性は、ええ、大丈夫ですよとにこやかに言ったが、小さな男の子は、返答しなかった。「僕、よろしいですか?」
小久保さんは、小さな男の子のほうを向いてそういう。女性が、ほら、武史くん、返事をしなさい、と言うと、武史君と呼ばれたその男の子は、はい。としっかりと返事をした。其れがどうも子どもらしくなくて、変な感じがした。
「随分しっかりしているんだなあ。それでは、ちょっと、おませというか何というか。」
と、小久保さんが言うと、
「いや、年上の人にはちゃんとあいさつしなきゃいけないって、僕の父が言っていました。」
まだ、小学生と思われるのに、そんな丁寧な言い方をするなんてちょっと、おかしな子ではないかと思われるところがあった。でも小久保さんはそれを、あえて訂正しなかった。
「偉いねえ。ちゃんとお話ができるんだ。それにしても君はどうしたのかい?今の時間であれば、学校に行っている筈だよね。」
と、代わりに尋ねる。
「ええ、そうなんですけどね。ちょっと事情がありまして、学校にいけなくなってしまったんです。それでは、いけないという事で、今、ちょっとカウンセリングに通わせているんです。」
中年の女性が、答えをだした。
「ああ、そうですか。というと、お母様ですかな。」
小久保さんは又聞いた。
「ああ、あたしは違います。あたしは、ただ、彼の知り合いっていうだけで。武史君はもともとお母さんがいらっしゃらなくて、お父さんも仕事で忙しくて。だからあたしが代わりに連れて行っているんです。」
「そうですか、親戚か何かの方ですかな?私、スクールロウヤーもやっているものですから、そういう子供さんのことに興味がありましてね。お二人は、なにか学校で問題でもあったんでしょうかな?」
小久保さんが聞くと、
「ええ、まあそういう事です。私は、浜島咲です。彼は、田沼武史君。実はこの武史君、今までは普通学校にいたんですが、どうしてもなじめなくて、数か月前から、支援学校に通い始めたんです。そこで、親友といわれる子が出来たんですけどね。その子が急に亡くなってしまって。そのショックで立ち上がれなくなってしまったようで。もう、ぜんぜん学校に行きたがらないんですよ。」
と、咲は、ちょっとため息をついて言った。
「そうですかあ。ちょっとお伺いしますけど、何処の支援学校ですか?富士市内ですか?」
小久保さんは支援学校と聞いて一寸ピンときた。
「ええ、そうです。里村学校です。其れが何か?」
咲がその通りにこたえると、
「里村学校ですか。となると、亡くなられたのは、若しかして梅津正人くんではありませんかな?」
と、小久保さんは聞いた。
「ええ、そうですが。なんでそれを前もって知っているんです?」
咲が聞くと、武史君が、小久保さんのスーツについている、弁護士のバッジをゆびさす。
「ああ、申し遅れました。わたくし、小久保と申しまして、実は、亡くなった梅津正人君の母親の弁護を引き受けておりまして。」
と、小久保さんは自己紹介した。まあ、そうですか、、、と、何をいっていいのかわからない顔をしている咲を尻目に、
「正人君は、亡くなったんじゃありません。正人君は、お母さんに殺されたんです。」
と、武史君は言った。その全く悪びれた様子もない事から、明らかに武史君は、何か障害を持っているという事がわかる。小久保さんは、それを指摘したら、武史君が傷ついてしまうと思って、そこはいわない代わりに、
「そうですか。有難う。武史君。ちょっと、聞きたいんだけど、正人君は、学校で不審なことはなかったかな?例えば、正人君の体にあざがあったとか、変な所をけがをしていたとか。これは学校の先生にも聞こうと思ったんだけど。」
と聞いた。
「はい。僕が見た限り、けがをしているということはわかりませんでした。でも、正人君が夏休みの宿題を提出した時、正人君は鬼の絵を提出しました。先生は、もう一回、絵を描き直して提出しろと指示をだしたので、学校の廊下には、普通のお母さんの絵が貼ってあります。」
武史君の話は、理論的にまちがっているところがなく、非常にわかりやすい内容であったので、小久保さんは、詳細をしっかり理解することが出来た。それらをすべて手帳に書き込み、
「その、正人君が、鬼の絵を描いて提出した時、保護者会が開かれたとか、何か学校で取り上げられたりしましたか?」
と尋ねる。
「いえ、何もありませんでした。先生は、保護者会で話題にするどころか、正人君に別の絵を描かせて、其れで良いことにしたんです。」
やれやれ、学校の先生というのは、どうしてこう、事なかれ主義というか、何というか、おかしなものであった。学校の先生は、どうしてそんなに、鈍感何だろうか。
「では、武史君は、どうして正人君が鬼の絵を描いたという事を知っているのですか?」
「はい、あの時、僕は、帰りの会のあと、家に帰るつもりだったんですが、国語の教科書を持って帰るのを忘れたのに気が付いて、急いで教室にもどりました。その時、正人君が、先生と話していたのを聞いてしまったんです。先生は、正人君に、鬼の絵を描くのはやめて、ちゃんとお母さんの絵を描こうねって、しかっていました。」
そうか、そんなことが本当にあったのなら、学校も重大な問題だ。
「正人君のお母さんに武史君はあったことはあるかな?」
小久保さんはそう聞いた。
「あります。よく、正人君が、僕を家に呼んでくれたんです。一緒に宿題をやりたいって。」
なるほど、そこまでするほどの親友だったのかあ、と咲はあらためて知った。
「で、一緒に宿題をやっていた時、正人君のお母さんは、何をしていましたか?」
「正人君のお母さんは、仕事をしていました。仕事と言ってもハンドルの革を縫い付けたりする仕事です。」
詰まるところ、正人君のお母さんは、内職をしていたんだろう。生活費とか教育費を稼ぐために。
「お父さんは、居なかったのかな?」
「居ませんでした。お父さんが帰ってきたのは見たことがありません。」
と、なると、お父さんの重雄さんが、弁護を依頼してきたのも変な話だ。つまり、正人君のお母さんの梅津由香子は、勝手に家出して、勝手に息子と二人で暮らしていたという事か。そのような妻に、弁護士をつけてくれ何て依頼に来るのだろうか?それもまたおかしな話である。
「そうか、おじいちゃんはね、今から、正人君のお母さんにあって話を聞くのだけれど、武史君の話を聞いて、参考になったよ。有難う。」
「うん。僕でよければいつでもおじいちゃんに協力します。よろしくお願いします。」
そう頭を下げる武史君は、子どもではあるけれど、ある部分では、大人びた面を見せるのである。れがいわゆる発達障害とか、アスペルガーとかいうものかもしれない。でも、そのフィルターをかけて接すると、大事な証言を落としてしまった可能性がある。こういう時も、人間は、事実だけを見る事しかできないということをしっかりわきまえて置かなければならない。
「武史くん、有難う。君のおかげで、今日の用事が少し楽になったよ。」
「いいえ、どういたしまして。」
丁度、ウエイトレスが注文したコーヒーを持ってきてくれて、小久保さんはそれをおいしそうに飲んだ。
「あはは、おじいちゃんも、コーヒー飲むんですか。弁護士さんって、すごい偉い人だから、コーヒーなんて飲まないだろうなと思ってた。」
そういう武史君に、小久保さんは苦笑いする。
小久保さんは、時計を見た。咲も、スマートフォンを取り出して、時間を確かめた。
「それでは、時間になりましたので、これで失礼します。今日は協力してくれてありがとうね。」
「いいえ、ありがとうございます。僕の話、信じて聞いてくれたのでとても嬉しいです。」
という武史くんは、今まで誰にも信じてもらえなかったのだろうか。にこやかに笑っていた。このにこやかな顔をみて、今までの発言に嘘はないと小久保さんは思った。
「じゃあ、有難うね。武史君。」
「あの。もしよかったら、僕も、結果を知りたいので、連絡していただいてもいいですか?」
ふいに武史君は言った。そういう言い方がどうも子どもらしくないのだが、小久保さんはそれを言ってはダメではないかと思った。
「わかりました。じゃあ、何処に連絡すればいいのかな?」
「うちへ、ファックスしてくれませんか。僕は其れが一番いい連絡方法だと思っています。番号は、、、。」
という武史君は、まるで大人のようにみえた。自宅の電話番号まですらすらといえる武史君は、やっぱり、障害児といえると思われた。
「じゃあ、そこへ定期的に送るようにするね。」
小久保さんも、こんなふうにいわれては、連絡せずには居られないと思った。隣にいる咲の方が、恥ずかしそうな顔をしている。
「よし、これでコンビ結成だね。」
武史君はにこやかに言った。
「じゃあ、今日、正人君のお母さんにあったら、すぐに連絡するからね。」
と言って小久保さんは伝票をもって、武史君の頭をなでて、カフェを出て行った。咲が、どうもすみません、こんな失礼な態度をとって、申し訳ないです、と頭を下げるが、小久保さんは、いいんですよ、とにこやかに言った。
そのまま、小久保さんは、タクシーを捕まえて、富士力本病院に向かう。そこに梅津由香子が入院している筈である。
その病院は、タクシーで、少なくとも駅から40分以上ある高台の上にあった。もし土砂崩れでもおきたらいちころだと思われるが、そういうことまで考慮しようという気はしないらしい。
とりあえず、正面玄関の前で降ろしてもらって、小久保さんは病院に突進した。
「あの、すみません。梅津さん、梅津由香子さんの部屋はどこでしょうか。」
「あ、はい。今、影浦先生と一緒です。すぐご案内させましょうか。」
受付は、そういって電話を回した。そこで待たせてもらいながら小久保さんは周りを見渡す。周りには、何人かの患者たちが、診察を待っていたが、彼らは異様な雰囲気であった。天井を見つめたり、壁に向かって泣いたり、顔を伏せたりしている。詰まるところ、人が怖いという事か。そういう人が、この病院には沢山いるのだ。
「小久保さん、梅津さんがあってもいいと言っていますが。」
と、受付がそういったので、小久保さんははっと気が付く。
「じゃあ、そうしましょう。梅津さんの所まで案内してください。」
「わかりました。まだ保護室から出て、数日しか経っていませんから、慎重に相手をしてやってください。」
受付に連れられて、小久保さんは、病棟に入った。病棟もいろんな種類のものがあって、うんと酷い人から、比較的軽い人まで細かく別れていた。二人が入ったのは、比較的軽い人のためのものである。
「まあ、もともと、意思疎通が出来ないとか、そういう事はありませんでしたので、こちらに入ってもらいました。」
と、受付は説明した。まあ、そういう事のあるなしと、病気の重症度はあまり関係がない。
閉鎖病棟ではなかったことが、唯一の救いかもしれない。
病棟のドアを開けると、非常勤医師の影浦千代吉が出迎えた。
「これはどうも、小久保先生。梅津由香子の担当医をしています、影浦と申します。よろしくお願いします。」
「で、由香子さんはどんな状態なんですかね。少なくとも、受付の方によれば意思疎通が出来るという話でしたが。」
「はい。意思疎通は可能ですが、事件のことになると全くしゃべらないのです。僕も何回か、お話を伺いましたが、全く収穫になりそうなものはありません。」
「とりあえず、顔だけ見させてもらう訳には行きませんでしょうか?」
「わかりました。こちらへどうぞ。」
影浦は、病棟の中に案内した。暫く廊下を歩いて、一番奥の部屋に案内する。
「ここです。」
確かに部屋のドアには、小さな文字で、梅津由香子と書いてあった。
「ああ、影浦です。今日は、弁護士の先生をお連れしました。」
と言って影浦は、ドアを開ける。梅津由香子はベッドの上に座っていた。何だか人間というより、蝋人形といった感じの顔をしている。
「梅津さん、こちらが、梅津さんの担当弁護士になってくれる、小久保哲哉先生です。ご挨拶に来てくださいました。」
と、影浦が紹介しても、由香子は天井を見つめたままだった。
「梅津さん。頼むから、こっちを向いてくれないかな。」
影浦が言うと、由香子はやっとこちらを向いてくれた。
「もう一回いいますよ。こちらは、小久保哲哉先生です。あなたの担当の弁護士になってくださいました。」
もう一度影浦が言うと、
「よろしくお願いします。」
とだけやっと言ったので、やっぱり意思疎通は可能であるということがわかった。
「早速ですが、梅津さん。事件のことについて少し、教えていただけませんでしょうかね。」
と、小久保さんが言った。彼女はぞっとするような顔をする。
「梅津さん。もう、これからは、自分で何をしたのかちゃんといえるようにならなくちゃ。あなたのしたことは、それくらい酷いことなんだから。いくら、泣いてもわめいても、正人君は帰ってこないんだよ。」
影浦がそういうと、彼女はしくしく泣き始めた。
「一体どうしたんです。泣かないで、ちゃんと言葉で言ってくれませんか。」
それでも彼女は泣いたままだった。
「梅津さん、あなたは、田沼武史君という少年をご存じありませんかね。あの、正人君のクラスメイトです。その彼が、正人君のことを証言してくれたのですが、正人君が、夏休みの宿題を提出した時、正人君は、鬼の絵を提出したそうですね。それを担任の先生が、普通のお母さんの絵を描き直させたと武史君は言いました。あなたは正人君に、何か恐怖を与える存在だったのではありませんか。」
「ええ、、、。」
小久保さんが質問しても、梅津由香子は、そういうだけであった。
「武史君は、そう証言しているんですがね。それでは、武史君の証言はあっていないという事でしょうか。僕は、彼と話してみましたが、彼の話に嘘があるとは、思われませんでしたよ。」
「ええ、、、。」
答えは得られない。
「これは大事な話なので、ちゃんと話していただけないでしょうかね。梅津さん。こたえてくださらないと、ちゃんと弁論が出来なくなりますので。」
「ええ、、、。」
由香子は泣くばかりだった。小久保さんは、梅津由香子よりも、あの武史君の方がしっかりしているのではないかと思ってしまうほどである。本人から事件の概要が掴めないので、小久保さんは、非常に困ってしまった。
「代わりに、僕のほうが、お話をしましょうか。」
困っている小久保さんに、影浦が助け舟をだした。
「ここでは、ちょっと話しにくいですから、診察室のほうで話しましょうか。」
小久保さんは、その通りにすることにした。
「あの、、、。」
由香子は、二人の方を見る。
「わかりました。後日また来ますから、その時には事件の概要を話せるようにしてくださいませね。」
と、小久保さんは言って、部屋を出て行った。影浦は、看護師を呼んで、由香子を見てくれるように頼み、彼も部屋を出て行った。二人は、診察室に入る。
「あの、事件の概要をもう少し詳しく教えてくれませんか。」
と、小久保さんが聞くと、影浦は、
「ええ、僕も、検察関係の人に聞いたことしか知らないんですがね。正人君が、余りにも肉や魚などを口にしないのに激高した梅津さんは、正人君を、マンションのベランダから突き落して殺したという話は聞いています。学校側は、食べ物を誤って食べさせられて、窒息したといっていますが、警察のはなしだと、それはまちがいなようですね。正人君は、酷いアレルギー体質で、肉や魚などを一切食べることが出来なかったそうなんです。まあ、最近の子供さんは、アレルギー体質というものが、段々に酷くなった傾向がありますな。余計に、いろんなものを考慮しなければならない子どもが増えてきました。中には大人になって、どんな大人になっていくんだろうと、心配になってしまう子どもも少なくありません。」
と、ため息をついて言った。
「そうですか。そういう子もいるんですね。」
とりあえず、小久保さんは、そういう返事をしておく。
「ええ、僕もたまにそういう子の診察をやったことがありました。中にはとんでもないものに、症状を示してしまう子も少なくありません。もう、これなしでは居られないと思われるものが、現代社会には山ほどありますが、其れが一切使えなくなってしまって、非常に困っているという親も少なくないんですよ。僕たちが、何でもなく使っていたものが、とんでもない凶器になってしまう体質の人が段々増えてきて、これから、世のなかはどうなっていくんだろうと、僕も考えてしまうことが本当に多くなってきました。」
「なるほど、では、そういう子供さんを育てる親御さんは、本当にたいへんなものですなあ。」
小久保さんは、はあ、と顔を拭いた。
「ええ、一度や二度は、この子を殺して私も死のう的なものを考えてしまう人も多いんです。大概の人は、周りの人の力を借りて何とか立ち直るんですけどね。梅津さんの場合、それがなかったのでしょうか。昔だったら、旦那さんとか、ほかのご家族が支えようとするんですけど、今は、其れがなくなりつつあるのかな。」
影浦は、しずかに言った。その間に病棟では廊下をドドドっと走っている音が聞こえてきた。それを追いかけている看護師の声も聞こえてきた。
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