第二章
第二章
「こんなに貰っちゃって、良かったのかな。」
今日、お稽古が終了して、フルートを片付けながら、咲は言った。生徒さんの一人が、うちで取れたナスですけど、作りすぎて入れるところがないので、持って行ってください。と言って、持ってきてくれたのだ。こういう職業についていると、時折こういう貰いものをすることがある。豊かな人の家には、食べきれなくなるくらい、野菜が取れることがあるのだ。昔であれば、自分たちだけ食べるのに、精一杯であったのだが、今は違う。大体一粒の種を蒔くと、家族以上の人間が食べるほどの実をつける。
苑子さんは、きっとおいしいから貰っておきなさいと言ったが、一人暮らしの咲には、こんなに沢山ナスを貰っても、冷蔵庫で腐ってしまう運命になってしまうだろうな、と思ってしまった。それでは一寸ナスが可哀そうだと思ったので、咲は誰か別の人にあげることにした。どうせなら沢山食べてくれる人にあげたほうがいいだろうな、と思って、咲はジャックの家にメールを送って、ナスを届けに行くと伝えた。メールは、わかりました、有難うございますと返ってきた。まあ、メールという手段は言葉を伝えることは出来るけれども、それ以外のことを伝えるのは苦手なのであった。メールの文章からは、武史くんがどうしているのかを読み取ることは出来なかった。
咲はバスを乗り継いで、武史君とジャックさんの住んでいる家に行った。多分、ドアをたたいたら、武史君が、満面の笑みを浮かべて、有難う!というだろうなと思った。ところが、インターフォンを押しても、反応がない。
「こんにちは、浜島です。武史くん、咲おばさんよ。ナスを貰ったから、おすそ分けって、パパにメールして置いたんだけど?」
と、ドアを一寸開けて、声をかけてみると、やっとごそごそと音がして、ジャックさんが出てきた。
「あ、ああ、すみません。気が付かなくて。そう言えば、ナスを持ってきてくれるって、仰ってましたね。一寸大きな事件があって、すっかり忘れてました。」
と、ジャックさんは言い訳をするが、ナスを届けに来るのを忘れるほど、大きな出来事があったという事だろうか。
「あの、これ、お約束のナスです。うちの生徒さんで農業をしている人がいるんですが、今年はナスがなりすぎてしまって、家族で食べきれなくなったというので、持ってきてくれたんです。」
そういって咲は、ナスが三本入った紙袋を取り出した。露地ものというだけあって、たいへん巨大なナスで、少なくとも30センチ近くある。
「あ、そうですか。ありがとうございます。」
そういってジャックは顔をかじって、紙袋を受け取った。
「あの、ジャックさん。武史君はどうしていますか?」
心配になっておもわず聞いてしまう。
「そういえば、新しい学校に編入出来たんですってね。此間送ってくれたメールで、新しい友達も出来て、元気に通っていると書いてありましたけど、楽しそうに通っていますか?」
たしか、一週間前に送ってくれたメールにはそう書いてあったなあと思って、咲はそう聞いてみた。
「私立学校だから、其れなりに御金がかかるって書いてありましたけど、何か不自由なことがありましたら、なんでも行って頂戴ね。」
まあ確かにそれはそうなのだ。私立学校は御金がかかる。でも、その分子どもの面倒見は、公立学校よりいいだろうと、咲は勝手に決め込んでいた。
「まあそうなんですけどね。でも、今日はものすごく落ち込んで帰ってきましたよ。まあ、公立学校と違って、色々事情のある子供さんが通っている学校ですから、こういうこともあるのかなあと思ったんですけど。」
と、もどかしい顔をしていうジャックさんに、咲は、あら、何かあったんですかと軽い口調で聞いてしまった。でも、ジャックさんの顔つきが、簡単に話せるようなことではないなということを示していたので、ぎょっとする。
「いやあねえ、、、。人に話ていいかどうか、よくわからない事なんですけどね。少なくとも、イギリスでは普通に話していましたが、ここではどうなんだろう。」
「もったいぶらないで、話してみてはどうですか?」
咲は、ますます心配になって、そう聞いてみた。
「話さないでため込んでいたら、ストレスがたまっておかしくなるのは、日本でもイギリスでも変わりませんから。」
「そうですねえ。では、いいますよ。なんでも武史の同級生が、急に亡くなったそうなんですよ。その子は武史も気に入っていて、よく遊びに出かけていたんですがね。最近一週間ほど学校に来なくなっていた様で。」
ジャックさんは、何か悩んでいる様な顔をして、そう話し始めた。
「まあ、そうですか。交通事故にでもあったのでしょうか?其れとも、何か病気にでもなったとか?」
「どうなんでしょうね。確かに特殊な体質の子で、肉魚は一切食べられなかったというのです。僕たちも学校から説明があって、その話に寄りますと、誤って肉を食べてしまい、気道が狭くなって窒息したという事ですが、、、。そうしたら、武史が近いうちにお線香でもというのですよ。学校では、これ以上梅津さんのお宅に付きまとうのはやめるようにと先生が言っていたんですがね。」
まあ、学校ではそう言われるだろう。出来るだけ亡くなった同級生の元を訪れるのは、避けた方がいいのではないかというのが教師の建前である。
「梅津?」
咲は、その名前が、ちょっと耳に残った。
「ええ、梅津さんです。亡くなったのは、梅津正人くんです。武史が編入した時に、最初に友達になった子で、武史は、梅津君と一緒に、箱根に遊びに行く約束もしていたそうです。」
この間、ショッピングモールでサラダを万引きしたあの少年ではないか?と咲はピンときた。
「その子なら、、、あの、変なことを聞くようですが、極端に痩せていて、ちょっとひ弱そうな顔つきをした子ではありませんでしたか?」
咲が急いでそう聞くと、
「はい、その通りですが、なんでそれを前もって知っているんですか?」
とジャックさんは面食らってこたえた。そこで、咲は先日、ショッピングモールであったこと、そのまま焼き肉屋に連れて行って、ご飯を食べさせてやった事を話した。
「そうなると、武史の話も、万ざら嘘では無いのかもしれませんね。咲さん。ちょっと武史と話をして貰えませんでしょうか。」
と、ジャックさんは、家の中に咲を招き入れた。咲はわかりましたと言って、家の中に入る。
ジャックさんは、咲を小さな部屋の前に連れて行った。多分これが武史君の寝室兼勉強部屋なのだろう。
「武史、入るよ。咲おばさんだぞ。」
と言って、ドアをがちゃんとあける。
「正人くんが亡くなってから、武史も矢鱈無気力になってしまった様です。この通り、布団から出てきません。」
確かに部屋の隅には布団が敷かれていた。その中から、小さな頭がみえるので、武史君はそこで寝ているということがわかる。
「ちょっと武史と、話をしてやってくれませんかね。」
「わかりました。」
咲は、自信はなかったが、それでもやってみようと思って、頷いた。そしてお邪魔しますと言って部屋に入り、布団のそばに行く。
「武史君。」
咲は布団の隣に正座して座った。
「武史君、大切なお友達が亡くなったんだってね。」
武史君は一寸警戒心が取れたのだろうか、ちょっと布団から顔を出してくれた。
「武史君は、優しいから、正人君が亡くなったことをまだ、信じられなくて、こうして寝ているの?」
「違うよ。」
と、武史君は小さな声で言った。
「正人君は、亡くなったんじゃなくて、殺されたんだ。」
子どもがこんな発言するとは、まるで思えない発言だった。
「殺された?殺されたって誰に?誰か不審者とか、痴漢みたいな人が出たの、学校に。」
咲が聞くと武史君は首を横に振る。
「そうじゃないよ。」
「じゃあ、誰に殺されたの?まさか戦時中じゃあるまいし、そう簡単に殺されるということはあり得ない話よ。」
「正人君のママにだよ。」
武史君は、大人ってなんでこんなに素直じゃないんだろうと思っているような顔をして、咲に言った。
「正人君のママが、正人君を?でも、そういうことは、普通の家庭であれば、殺そうなんて気は怒らないけどな。」
そんなことをいいながら、咲はチャガタイの家で起きたことを思い出した。あの、野菜をむさぼるように食べる正人君は、そのたべ方から言って、何十日も食べていないということが見て取れた。たしか、正人君の母親は出張で何十日も家を開けていたといっていたけれど、若しかしたら、それは、正人君に対して、、、?
「僕、知ってるんだ。正人君のママが正人君に酷いことしているんだって。だって、此間の、夏休みの宿題を提出するときも、」
武史君は、そう語り始める。
「ちょっと詳しく話してくれる?」
咲はそう聞いてみることにした。
「あのね、夏休みの図工の宿題を、提出する時だよ。僕たちの夏休みの宿題は、パパママの顔を絵にかいて提出する事だったんだけど。」
確かに、学校の宿題で、そういうものが課されることはよくある事だ。
「其れで、僕はパパの絵を描いて提出した。」
そういうと、ジャックが少しため息をついた。つまり、また岡本太郎のような絵を描いて、先生方がびっくりしたのだろう。武史君自信もこれは問題である。
「正人君は、ママの絵を描いたんだ。でも、それは人間の絵ではなくて、鬼の絵だった。先生が怒って、ママの絵を描きして来いと言って、正人君はもう一回提出したんだけど。」
「鬼?」
「そうだよ。僕、覚えてる。真っ赤な顔して、頭に黄色い角が生えている鬼の絵だった。で、正人君は、其れで怒られて。」
多分、怒られたというより注意されたのだと思うのだが、武史君にとっては、正人君が怒られたようにみえたのだ。子どもだから、大げさに感じ取ってしまうのは、よくあることである。
「先生が、鬼の絵を、教室に飾るわけには行かないって言ったので、正人君は、絵を描き直して提出した。でも、その絵は正人君のママの絵じゃなかった。鬼の絵の方が、正人君のママに近かった。」
「ちょっとまって。正人君のママの顔を武史くんは覚えているの?」
咲はそう聞いてみると、武史くんは、しっかりと頷く。
「うん。覚えている。授業参観の時見たことあるよ。そんなに怖そうなママにはみえなかったけど、あの鬼の絵は、確かに正人君のママにそっくりだった。」
たしかに、支援学校ということもあって、頻繁に授業参観や保護者会は開催されると、ジャックさんから聞いたことがあった。でも、武史君に、鬼の絵から正人君のお母さんの形相を読み取る能力はあるのだろうか?
「だから正人君は亡くなった訳じゃないんだよ。ママに殺されたんだ。きっと、普通の子じゃないから、ママは正人君が嫌になったんだね。」
生物学的にいえば、亡くなったのも殺されたのも、心臓が止まるという事なので同じことなのだが、武史くんの目には違う光景に映るのだろう。
「でも、学校の先生は、正人君は病気のせいで天国へ行ったと言って聞かないんだ。だから僕は訂正しただけなのに、先生が逆上して、もう僕には学校に来ないでくれって。」
多分先生は、もう学校に来るなという言い方はしないと思うのだが、武史君の目にはそういう風に映ったのだ。つまり正人君は、母親に、殺害されたというのが武史君の主張である。まあ確かに、子どもがそういう発言をすれば、大人は確かに困ってしまうだろう。でも、咲は、先日正人君が焼き肉屋ジンギスカアンでしでかしたことを思い出して、武史君の主張が正しいのではないかと思ってしまったのだった。正人君の体にあざがあったとか、そういうことを思い出すことは出来ないが、でも確かにあの食欲は何日もご飯を食べていない証拠だと思うので。
「わかった。咲おばさんは武史君の発言を信じるわ。おばさんも正人君を見かけたことがあったのよ。」
全部を話すのは難しいが、咲は其れだけ伝えることは出来た。
「箱根、正人君と一緒に行けるはずだったのに。」
「わかった、もし、正人君の遺影が入手出来たら、それをもって、箱根にいってくればいい。」
咲は、武史君の肩をたたいてやった。
「それにしても、なんで正人君のお母さんは、正人君の事を、そんなに嫌いになったんだろうね。」
「正人君が邪魔になったのかな。」
武史君は、ぼそっとそれだけ言った。
その数日後の事であった。咲が、何気なくテレビをつけると、丁度ニュース番組をやっていて、ちょっと硬い顔をしたアナウンサーが、こんな発言をしていた。
「昨日、六歳の息子を殺害したとして、自首してきた母親が逮捕されました。母親、梅津由香子は、かなりの昔から、育児について悩んでいた様で、祖母にも育児の悩みを相談したりしていたそうです。殺害されたのは、静岡県富士市の梅津正人君で、障害児のための支援学校に通っていたようです。」
と、いう事は、武史君の発言は嘘ではなかったという事であった。
一方。
「は、はあそうですか。当の昔に国選弁護人でもついたのではないかと思っていましたが。」
と、依頼人二人をテーブルに座らせて、小久保さんは言った。
「ええ、そうなんですけどね。由香子は、ほかの弁護士の先生にも、何も話しませんので。」
依頼人としてやってきたのは、梅津由香子の夫である梅津重雄と、彼女の母親である、望月八重子の二人だった。
「それでは人を変えても同じことだと思うのですがね。富士市内でもいい弁護士さんは沢山いると思うのですが、なんでわざわざこんな遠くまで来たんです?」
と、小久保さんは聞いてみたが、答えは何となく予想できた。多分、近隣では、近所の人の噂話が蔓延っているのだろうと思われる。
「いえ、御殿場だけではなく、小久保哲哉先生のお名前は、よく知られていますので。」
と、重雄さんがそういう。小久保さんは、それ以上聞かなかった。
「で、梅津由香子さんは今何処にいるんですか?拘置所ですか?」
「ええ、拘置所に行っても、様子が変なので、今精神病院にいます。ちょっと、精神疾患の疑いもあるって、影浦先生が仰っていました。」
つまるところ、担当医は影浦千代吉であるという事だった。重雄さんの説明によるとそういう事であるらしい。
「どうかお願いします。由香子の弁護をお願いできますでしょうか。」
二人は、もう一度頭を下げた。
「わかりました。今は特に大きな依頼もありませんので、引き受けましょう。」
小久保さんがそういうと、二人は、やっと笑顔を見せてくれた。
「ではですね。一寸事件の全容をお聞かせください。奥さんが、どういう訳で殺人に走ったのか、教えてもらえないでしょうかね。」
小久保さんはまずそう聞いてみる。
「ええ、うちの梅津正人は確かにとても酷いアレルギー体質でして、肉や魚などを食べることが禁止されていました。誤って、何回も肉や魚を与えて、たいへんなことになったことは本当によくあったんです。」
「そうですか。」
小久保さんは、何となく水穂のことを思い出しながら言った。
「そうですか。それをお母様は、疎ましく思っていらっしゃった?」
「いいえ、疎ましくということはありませんでした。寧ろ、普通の子以上に可愛がって居ました。学校に入るにしても、人一倍、一生懸命探して居ました。でも、確かに、あたしが見た通り、ちょっと真面目過ぎるという所はありました。」
小久保さんの質問に、母の望月八重子が言った。
「真面目過ぎる、ですか。具体的にどういう風に?」
「ええ、一生懸命、アレルギーの子どもについての本を読んでいました。しかし、本を読んだって、その通りにはなりませんよね。それは、誰でもわかると思うんですが。だけど、由香子はどうしても本通りにならないって、焦っていました。たまには、本から外れてみてもいいと思うんですが、そういうことはしないで、なんでもかんでも本通りにしようとしていました。」
「まあ、そうですか。ほかに育児のサークルに行くとか、誰かに相談するとか、そういうことは一切なかったのでしょうか?」
「ありませんでした。」
と、重雄さんが言う。
「これだけ、多くのサークルへの募集とか、育児の支援なども行われている筈なのに、なんで、そういう所に手を出さなかったんでしょう。」
小久保さんがもう一回聞いた。
「ええ、それはわかりません。でも、僕が見た限り、そういう所に顔をだそうという気は起こらなかった様です。」
「私も、よく、育児サークルのパンフレットとか見せたんですけどね。何だか、プライドだけが高くなってしまって、他人の意見に従おうとか、そういうことはしませんでした。私が、もっと、他人に対して、謙虚になるように、しつけておけば良かったのでしょうか。私も、その日ことで精一杯で、あの子に対してもう少し、しっかりしつけて置かなかったものですから。」
そうしくしく泣きだす八重子に、小久保さんは、
「そういうことは今は追求しないようにしましょう。それは、かえって証言を取りにくくなりますから。先ず、其れよりも、由香子さんが、なぜ、正人君を殺害するに至ったか。それを、追求していかなければなりません。それでは、先ず始めに、本人とあってみましょうか。由香子さんの口から話を聞いてみましょう。」
と、メモを取りながら言った。
「そうですね。夫である僕に対しても、話を聞いてくれませんので、弁護士の先生に話をするということは、出来るんでしょうか。」
と、重雄さんは、心配そうな顔をしていうのであるが、
「其れであっても、お医者様に話を聞くことくらいは出来ますでしょう。それでは、しばらくしましたら、病院へ電話して、行ってみることにします。」
小久保さんは、スマートフォンを取った。
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