楫枕

増田朋美

第一章

竜巻

第一章

そとはすごい雨だった。どこかの地域では、竜巻が吹いたという。屋根瓦がはがれてしまったというニュースが、テレビを占領していた。何処のチャンネルをひねっても、竜巻の話ばかりで、テレビアニメもドラマも野球中継もすべて中止になっていた。それがいいのか悪いのかはまた別の話。

その日、浜島咲は、稽古場がしまっていてお箏教室はお休みの日だったので、家の中にずっといた。テレビをつけた所、竜巻のニュースばかりで、楽しみにしていたテレビドラマも放送が休止になっているという。確かに被災地では、深刻なニュースなのかもしれないが、なんでも放送休止にしなくてもいいのになあと思いながらテレビを消した。

電話が鳴った。急いでテーブルの上にあったスマートフォンを取る。咲は固定電話を敷いていなかった。気ままな一人暮らし、固定電話なんて、面倒くさい。そう思っていた。其れに、スマートフォンの方が、誰からかかってきたのか、知ることができて、便利なのだ。

「はい。浜島ですが。」

と、電話に出てみると、相手は苑子さんだ。

「あ。そっちの方はどう?竜巻があったみたいだけど、何か被害はない?」

苑子さんが心配してかけてくれたのだ。そういう事からすると、竜巻があったのは、随分近いところだったんだろうか。急いでテレビをつける。

「ああ、大丈夫です。竜巻があったのは、、、。」

テレビを眺めると、竜巻があったのは、富士市内ではなくて、隣町の富士宮市であった。

「ごめんなさい、竜巻があったのは富士市ではないですよ。隣の富士宮市。だから大丈夫。」

「そう?それでは、道路が冠水するとかそういうことはでなかった?」

苑子さんは心配そうに聞いている。

「何もありませんでした。うちの住んでいる所は、ただ雨がすごく降っただけの事です。風もありません。本当に有難うございました。」

咲は、この時ばかりは有難うと思った。こうやって、自分のことを心配して、電話をよこしてくれるなんて。自分も、苑子さんに必要とされているんだ。何だか、やっと自分の望んできたことが、実現してくれるような気がするなあ。

「次のお稽古は、たしか月曜日だったわね。其れじゃあ、よろしくお願いしますね。」

「はい。その時伺います。今日は、心配してくださって、ありがとうございました。」

咲はそういって、電話を切った。

テレビでは、竜巻があったことを、盛んに報道していたが、そとを眺めると、雨はすでにやんでいて、もう外へ出ても安全ではないかと思われるほどだった。全く、テレビを見ていると、静岡県というか、日本全国が竜巻にあったようにみえてしまうのであるが、竜巻があったのは、富士宮市の一部の地域であって、ほかの地域は、何も無いのである。

そとは鳥が鳴いている。もう外へ行ってもいいだろう。咲はテレビを見ていてもしかたないので、近くのショッピングモールに行って、お茶でも飲んでくることにした。まあ、きままな一人暮らし、ご飯の時間などどうでもいいのだった。それでは、ちょっと歩いてみるか、と咲は、カギと鞄をもって、自宅マンションの外へ出た。

確かに、沢山雨が降ったことは確からしい。近くの用水路は、水が増えていたし、道路は至ると事に水たまりがあった。でも、歩行するのに支障はなかった。よほど酷かったのは、ごく一部の所だったのだろう。それをテレビは、大げさに報道するのでは、帰って迷惑だなあと思ってしまうほどである。

とりあえず、ショッピングモールに行って見ると、雨がやんだせいか、少しづつ客も増え始めていた。特に、コインランドリーに行く客が多いのは、雨の日なので洗濯ものがたまってしまったからかもしれない。咲は、とりあえず、モールの中のカフェに行くが、満席であった。雨が降った後なのに、カフェは混雑していた。なんでだろうか、其れだけ暇な人が多いという事だろうか。しかたなく、ジュースでも買って帰ろうか、と、咲は食品売り場に向かって歩いて行った。これだけの大雨が降ったのに、洋服売り場には沢山の人がいた。なんでだろうと思われるほど、人がいた。これだけ甚大な被害が出たといわれているのに、ショッピングモールの中は、沢山の人であふれている。みんな、大雨なんか関係なく、好きな色の洋服を着たり、本を読んだり、鞄や靴を選んだり。ご飯の事なんて、誰かに任せきりなのだろうか。其れとも、レストランでたべればいいと思っているのだろうか。いいなあ、と咲は思ったが、でも、何だか、そういう贅沢はしたくないなと思った。

まあいい。人の事は気にしないで、ジュースを買って早く帰ろう。急いで食品売り場に行くと、食品売り場にもたくさんの人がいた。しかも出来合いのお惣菜売り場に人が集まっている。こんな天気の悪い日は、自分でご飯を作る気にもならず、出来合いを探してくればいいやになってしまうのだろうか。何だか、自分で何か作るということはかっこ悪いことになってしまっているのだろうか。咲は、そういう人をすきになれなかった。でも、何が売っているのかだけ見ておこうと思って、咲はお惣菜売り場に近づいた。

すると、ヌウと小さな手が、サラダを掴んだ。本来、お惣菜売り場のサラダを取って買っていくには、そこに置いてあるトングで取ることが、お決まりになっている。でもこの小さな手は、まるでサラダをむしり取るように、乱暴にサラダを取った。

「こら!」

咲はその手をパシンとたたいた。

「何をやっているの!お店のものを手で取って食べるのはいけないことよ!」

すると、いきなり火が付いたような、泣き声が聞こえてきた。泣いているのは、小学校低学年くらいの少年である。しかもその少年は、まるで戦災孤児のように、からだも小さくて、げっそり痩せていた。これは若しかしたら、何か訳があるのかもしれないと思って、咲は泣いている少年の腕を引っ張って、とりあえず、お惣菜売り場を出て行った。

とりあえず、少年を、公衆トイレの近くにある、人の少ない場所へ連れていく。

「どうして、お店のものを取ろうとおもったの!」

咲は、そういって、少年をきっとにらみつけた。と、また考えなおす。少年は一人でこの店に来たのだろうか?このくらいの年齢であれば、必ず保護者がついてくる筈なのだが、、、。

「僕、お母さんか、お父さんは?」

そう聞いてみると、少年は、顔中を涙だらけにして、

「居ません。」

とだけこたえた。

「だって、おうちに帰ってこないの?」

咲がもう一回聞くと、

「帰ってこない。もう冷蔵庫の食べ物が全部なくなっちゃったの。」

と、少年は、わあんと声を立てて、さらに泣き出した。つまり、冷蔵庫にあるものはすべて食べてしまって、ほかの食べ物を探しに、このショッピングモールにやって来たのか。其れもまたおかしいな。

「もう、何か食べないと、僕も動けないの。」

少年の発音は最後の語尾が不明瞭で、何となくろれつが回って居なかった。もしかしたら、何日もご飯を食べてないのかもしれない。それでは、たいへんなことになると思った咲は、まず第一になにかたべさせることにした。とはいっても、自分の家にあるのは、冷凍食品やインスタント食品ばかかりだ。それでは、何も意味がない。ちゃんと栄養があるものを食べさせなければ。咲は、スマートフォンを出して、ある家に電話をかけた。用件を話すと、快く承諾してくれた。

「本当にすみません。わざわざ作ってくださって。」

一生懸命サラダを食べている少年を見て、咲は申し訳なさそうに、チャガタイに言った。

「いや、良いってことよ。気にしないで。たべなければ、人は生きていけないんだから。それにしても、すごい食欲だなあ。」

チャガタイは、少年を見て、不思議そうに言った。

「今の子は野菜が大嫌いだというが、この子は野菜をよく食べるな。全く、珍しい子だ。」

丁度この時、店の入り口がガラッと開いて、

「ただいま戻りました。」

と、ジョチがもどってきた。

「あれ、どうしたんですか。この少年は。」

「あたしが、スーパーマーケットで見つけました。サラダを万引きしようとしていた所を、あたしが見つけたんです。見つけたときは、ろれつも回ってなくて、可哀そうな感じだったんで、すぐに何かたべさせるべきだと思い、チャガタイさんにお願いしました。」

咲がそう説明すると、ジョチもなるほど、とわかってくれた様で、頷いた。

「なんでも、冷蔵庫にあるものはすべて食べてしまったようだ。親は何日も仕事に行っていて、帰ってこないらしい。」

チャガタイがそう付け加えた。

「はあ、そうですか。といいたいところですが、そうは行きませんね。少なくとも彼は、小学校の一年生か、そのくらいでしょう。そのくらいの子どもを、置き去りにして長期に外出するとは、親としてあり得る話でしょうか?これは若しかすると、刑事事件に当たるかもしれませんよ。」

そういってジョチは、少年に目を向けた。

「一寸お伺いしますけど、お母さんかお父さんは、何処に行かれたのでしょうか?本当に、仕事へ行くと言って家を出て行ったのでしょうか?」

少年は、食べることに夢中になっていて、返事をしなかった。

「兄ちゃん、そんな難しい言葉はつかわないでさ、もうちょっと、優しく話してやれ。だから兄ちゃんは、とっつきにくいといわれちゃうんだ。」

チャガタイは、ジョチの質問をそう訂正し、

「君君、君のお母さんは、仕事に行ったのかい?」

と、優しく聞き返した。少年はたべながら頷く。

「そうか。夜のお勤めがあるとか、そういう仕事をしているのかなあ?それにしても、折角おじさんが作ったとんかつを残して、なんで線キャベツばっかり食べるんだ?とんかつはそんなに、嫌いなものなのだろうか?」

チャガタイはそういって、肉を一切れ箸で取った。すると、火が付いたようにまた泣き出す少年。

「あれれ、肉ってそんなに嫌いなのかあ?だって、肉は、おいしいよ。あのね、肉は、タンパク質と言って、体がおおきくなるために必要な栄養を、作るための原料になるんだ。君はまだ子どもで、これからいくらでもおおきくなるんだから、肉は沢山たべなくちゃいけないんだよ。」

と、丁寧に説明しても少年は泣くばかりだった。

「肉そんなに嫌かあ?なんでそんなに肉を嫌いなのかなあ?」

チャガタイがもう一回聞くと、

「だって怖いもの。」

とこたえる少年。

「怖い?肉は、怖いものじゃないよ。おいしいんだよ。大事な栄養でもあるんだよ。だから食べようよ。」

チャガタイは優しく言うが、一寸待って、とジョチがそれを止め、ちょっと失礼と少年の来ているTシャツをぺらんとめくった。背中も腹も、赤いぶつぶつが出来ている。ただの栄養失調による湿疹と思われたが、それにしては酷いものであった。

「膿痂疹ですね。」

「兄ちゃん、それがどうしたんだよ。」

「いえ、これは僕の勝手な推測なんですが、彼も若しかしたら水穂さんと同じ体質なのでは?」

咲もチャガタイもびっくりしてしまった。それでは、つまるところ、肉魚一切抜きの生活を強いられているという事である。

「つまり、それでこんなにがりがりで体も小さいのか。それでは、早く何とかしてもらわなければいけないな。親はそういう子を放置して、どこかへ行ってしまったのか。そうなると、兄ちゃんが言う通り、何か事件に通じるかもしれないぞ。」

「ね、ねえ、僕。君の名前は何て言うの?君が重大な事情を抱えていることがわかったから、お母さんかお父さんに、君を迎えに来てもらわなければならないのよ。」

チャガタイの発言に、咲もそう尋ねた。

「梅津正人。」

と彼はこたえた。まだ、小学生だから、自分の名を漢字で書かせることは出来ないだろう。咲はそれを聞くのはやめにしておいた。

「梅津。珍しい苗字ですね。じゃあ、もう一回聞きますが、あなたの住んでいるお宅の周りに何か建物か何かありませんでしょうか。」

ジョチがそう聞くと、少年は、

「はい。隣は紙がいっぱいあるおうち。」

とこたえた。

「紙がいっぱいあるおうち。製紙会社か、印刷所でしょうか。敬一、地図を持ってきて。」

チャガタイは、わかったと言って、タブレットを持ってきて、地図アプリを開く。

「でも製紙会社は、富士には沢山あると思いますけど。」

咲は心配になって聞いた。

「わかっています。質問を変えましょう。それでは、その紙が一杯あるおうちについて伺います。その紙が一杯あるおうちは、何色の外壁をしていましたか?」

ジョチが又聞くとチャガタイが、

「兄ちゃん。そんな堅苦しい聞き方をするから悪いんだ。その紙が一杯あるおうちは、何色のおうちだったの?」

と、訂正する。

「おうちは、青い屋根のおうち。」

少年は、しっかりと発言した。

「紙が沢山あって、青い色をしているおうちとなると、また絞られてきますね。青い屋根をしている製紙会社は、たしか、富士には一軒もないはずですが、青い屋根をしている印刷会社は、確かにありますよ。武中印刷です。武中印刷の隣となると、ここから車で五分ほどの所ですね。」

そこはさすがにジョチの顔の広さに敵うことはなかった。

「車で五分なら、車では簡単に来られるが、子どもの足ではたいへんだっただろうね。其れに、そういう事情があるならなおさらだ。すぐに、お母さんを呼んで、迎えに来てもらおう。武中印刷の隣の梅津となると、えーと、君の電話番号は?」

チャガタイがそう聞くが、少年はこたえない。

「そうかあ、まだわからないか。じゃあ、君のお母さんの名前を教えてくれないだろうか?」

もう一回聞くと、少年は、

「梅津由香子。」

とだけこたえた。

「梅津由香子ね。よし、検索してみよう。」

チャガタイは、タブレットにうめづゆかこと入力した。すると確かに武中印刷の隣のアパートがヒットした。兄ちゃんの推理力も相当なものだと思いながら、チャガタイはその番号へ電話をかけてみる。とりあえず、固定電話は敷いてあるらしい。検索でヒットするんだから。少なくとも、経済的に貧しい家庭ではなさそうである。

「もしもし、梅津さんですか。あの、こちら焼き肉屋ジンギスカアンのものですが、お子さんの正人君を、こちらで預かってるんです。冷蔵庫のモノすべて食べてしまったようで、今うちでご飯を食べさせて置きました。すぐに迎えに来てやってくれますか。よろしくお願いします。」

「しかし、母親の名前でヒットしたんですから、母子家庭でしょうね。」

チャガタイが電話をかけているのを聞きながら、ジョチがそう呟いた。

「よし、話が着いたぞ。お母さん、迎えに来てくれるから、よろこんで家に帰りなさい。今回は、お母さんにも悪いところがあるから、君はお母さんを思いっきりしかってもいいぞ。」

電話を切ったチャガタイは、そうにこやかに言った。

「敬一、子供さんには難しいんじゃありませんか。親をしかるなんて、大人になってからじゃないと出来やしませんよ。まだ小学生なんですし、しかれるような、客観的な判断ができる年齢ではありませんよ。」

確かにジョチさんのいう通りだと咲も思った。少年の痩せた体といい、膿痂疹と言い、肉を食べない体質と言い、お母さんの庇護無しでは生きていかれないはずだ。

「もう少し待ってれば、お母さん、迎えに来てくれるからな。」

チャガタイは、少年をにこやかに優しい顔で見た。

その数分後。

「すみません。この度はうちの息子が申し訳ないことをして。」

と言いながら、若い女性がやってくる。この人が、梅津由香子さんかとすぐにわかった。でも、咲が想像していた女性とはほど遠かった。咲はもっと派手な化粧をして、派手な髪型や服装をして、言葉ももっと汚いような女性を想像していたのである。其れとは全く違う雰囲気の女性だ。

「いいえ、構いませんよ。しかし、息子さんの話によると、冷蔵庫の中身をすべて食べてしまったというのですが、果たして食糧事情は、うまく言っているのでしょうか。」

と、ジョチが聞くと、

「すみません。あたしの不注意で。ちゃんと作っておいたんですけど、出張が長引くのは予想できなかったんです。」

と、由香子は申し訳なさそうに答えた。

「はあ、そうですか。それでは責めて、出張に行っている間は、親戚に彼を預けるとか、どこかの託児所を利用するとかして下さい。家の中でほったらかしにしていては、また今日のように、店で万引きをしでかすかもしれないんです。」

「はい。はい。もうしわけありません。あたしが、もっとしっかりしていれば良かったですね。」

其ればかり言って、ジョチに頭を下げている由香子。それをボーっと眺めているしか出来ない少年に、チャガタイが、

「君も、おかあさん、なんで僕のことを放置してたんだと、しかってもいいんだぞ。」

と、優しく言った。

「ほら、今回のことはお母さんが悪いんだ。もっと、僕のことを考えてくれ、僕は腹が減ってどうしようもなかったんだと、お母さんに主張してもいいんだよ。子どもなんだから。」

でも、少年は、そういうことは出来ないようだった。

「だって、僕も悪いんだもん。」

少年はそっと呟く。

「何を言っているんだ。今日うちで、食べ物をもらわなければ、どうなっていたかわからないじゃないか。ほら、お母さんにいいなさい。なんで僕のことを置き去りにしたんだって。」

「よしなさい、敬一。今回は、お母様も反省している様ですから、とりあえず、正人君を、返して差し上げましょう。」

チャガタイの主張は、ジョチのその一言で終ってしまったが、咲も本当は、正人君に母親を怒ってもらいたい気持なのだった。どうみても母が育児を怠けているとしか思えない。それでは本当はいけないのに。

「すみませんでした。本当に、この子が申し訳ないことをしまして。あたしもこれからは気を付けますから。」

と、母親は少年を連れて再度頭を下げて、そそくさと店を出て行った。

「何だか、もうちょっと、お母さんとして自覚をもってもらいたいものだなあ。」

と、チャガタイがぼそっと呟いた。

咲も、何だか頼りにならない母だなあと思いながら、一つため息をついた。

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