第18話 悪い子

 数学の授業が終わり、休み時間になった。

 結局、僕はまるで授業に集中することができなかった。

 理由は明白。すぐ隣に白石がいたからだ。

 一挙手一投足を意識してしまった。

 高鳴る心臓の音は聴かれていなかっただろうか。


「守谷くん。教科書を見せてくれてありがとう。おかげで助かっちゃった」

「全然。こっちこそ助かったよ。白石さんが答えを教えてくれて。あのままだと放課後に補習を受けるハメになってた」


 そうなれば、家路につくのは日が暮れた頃になっていただろう。


「あ。そうだ。借りてたペンと消しゴムだけど、もう少し借りててもいいかな?」

「今日いっぱいは貸しておくよ。僕は替えのシャーペンも消しゴムも持ってるし。だから遠慮なく使って貰えれば」

「ふふ。守谷くんには借りができちゃったね」

「そんな。借りだなんて……」

「もし守谷くんに困ったことがあったら何でも言ってね。今度は私が協力するから。お互いに持ちつ持たれつということで」

「その言葉、友江に聴かせてやりたいよ」


 白石の言葉を聴いて僕はしみじみと思った。

 そうだ。これが本当の持ちつ持たれつという関係だ。

 お互いが支え合って『人』という字は成り立っている。決して片方が一方的にもう片方を支えることを言うのではない。


「でも、守谷くんと机を合わせて授業を受けるの楽しかったなあ。ふふ。これからは毎日教科書を忘れようかなと思ったもん」

「……っ」


 机の上に組んだ手の上に顎をちょんと載せ、微笑みかけてくる白石。

 その表情は余りにも魅力的に過ぎた。冗談か本気か分からない口調も相まって、僕の心は一瞬にして掻き乱されてしまう。


「……毎日教科書を忘れてたら、さすがに先生に怒られそうだけど。いや、白石さんの場合は心配されるかもしれないな」


 動揺を気取られないように澄まして応える。

 けれど、向こうからすればお見通しかもしれない。


「あはは。私には今まで積み上げてきた信用があるからね。だけど、そろそろ殻を破っても良い時期かなって。ずっと期待されるのはしんどいもん」

「そうなのか?」

「毎回テストは学年首位を取って当たり前。体育は活躍して当たり前。素行が良いのも当たり前だと思われてるから。ちょっとでも期待外れのことをしたら、周りの人たちに凄くガッカリされちゃうんだよね」


 僕には到底分からない悩みだ。

 勉強も、運動も、秀でているわけでもない。素行は普通だが、愛想は良くない。周囲の反感は買わないが、注目もされない。


「好感度が高いっていうのも考えものだな」 

「だから、この辺りで少し好感度を調節しないとね。私も意外と悪なんだぞ~ってところを見せておかないと」

「悪……。白石さんが?」

「ふふ。意外だった? 守谷くんは私を品行方正だと思ってるかもしれないけど、本当は悪いことも結構するんだよ?」


 お兄さんが不良だし、あり得ないこともない――のか?


「へえ。例えば?」

「夜中にポテトチップスと炭酸ジュースを飲むとか。……ふふ? どう? とんでもない悪だと思ってくれた?」


 可愛いな、と思った。

 したり顔で言うところが特に。


「取りあえず、わざと教科書を忘れたりするのは止めた方がいいと思うよ。怒られるだけならまだしも、内申に響いたらマズいし」

「守谷くん。保護者みたい。心配してくれてありがと」


 白石はくすりと微笑むと、


「――あ。だったら、次は守谷くんが教科書を忘れればいいんだよ。そうすれば今度は私が見せてあげられるし」

「交互に教科書を忘れ合うみたいな?」

「それいいね。楽しそう」

「たぶん、そのうち両方先生に怒られて終わりだろうけど」


 さすがに先生も怪しむことだろう。

 僕と白石のどちらかが毎回教科書を忘れていたら。

 後、男子生徒たちからは反感を買いそうだ。


「……あのさ。白石さん。もう休み時間になったけど」

「うん?」

「机、離さなくていいのか?」

「休み時間が終わるまでは、こうしてようかなって。机をくっつけてた方が、座ったまま話せるから楽だし。それに」

「それに?」

「私、守谷くんともっと話していたいから。……ダメ?」

「…………」


 その言葉と、その上目遣いは反則だと思った。

 白石にこう言われてドキリとしない男子はいないだろう。


「――あっ。もしイヤだったら言ってね!? すぐに机を離すから! 守谷くんにウザい奴だなとは思われたくないし!」


 白石は慌ててそう付け加えた。


「ダメでもないし、イヤでもないよ」


 僕はすぐに弁明した。


「僕も白石さんと話すのは凄く楽しいし」


 それから僕たちは机をくっつけたまま他愛のない話をした。

 楽しい時間というのはあっという間に過ぎるものらしい。気づいた時には、次の授業の始まりを告げるチャイムが鳴っていた。

 けれど、しばらくしても先生が入ってこない。


 何かあったのだろうか?

 ――と思っていたら、廊下に足音が響いてきた。


 ガラッ。

 教室の扉が開けられる。

 現れたのは先生ではなくクラス委員の男子生徒だった。彼は教壇に立つと、黒板に勢いよくチョークで文字を描き出した。

 そこには『自習』と大々的に書かれていた。

 クラスに歓声が沸き起こる。


「守谷くん。自習だって。やったね」と白石が言ってくる。

「うん」

「私、さっきの数学の復習がしたくて。でも、教科書がないから。……ねえ。よかったらいっしょにしない?」

「……そういうことなら」


 僕は教科書を取り出すと、互いの机のちょうど真ん中辺りに置いた。白石がさっきと同じように身を寄せてくる。

 僕たちの机は自習の時間が終わるまでくっついたままだった。

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