第19話 そして誘拐先は
「彼は愛する者を奪った物が、何であるのかを追求した。
その末に、神に会う手段を求めてさまよった。
最初は愛する者を守るため。
そのうちに全ての人をも救おうという気高き心を得て、七人の青き翼持つ天使の守護を得た彼は、神の庭へ続く扉へ導かれたが、そこには死者以外の者を拒む神の雷が荒れ狂っていた。
しかし青き翼の守護により神の洗礼をくぐり抜け、彼はついに天の扉を開いたのだ。
そして混沌とした乱世が終わりを告げた。
やがてその足跡を知る多くの人に、彼は聖者と呼ばれるようになった」
神書の、天翼の扉の章を読み終わったシーグは、手に持っていた分厚い革表紙の本を閉じる。
まだ八歳だった彼には重かったらしい。落としはしなかったものの、本を脇へ置くのにも少し腕が震えていた。
「これが天翼の扉の章だ」
「なんか……夢がしぼんだ感じ」
率直な意見を述べて、わたしはシーグの部屋の寝台に寝っ転がる。
まだ六歳の小さなわたしが暴れても、子供には大きくて広すぎる寝台はびくともしない。上掛けの羽毛を包み込んだ布に頬をすりつけ、わたしはそのつやつやした感触を堪能した。
「どんなのを想像してたんだよ」
「真っ白な扉を開けたら、お菓子とお花と緑で溢れた場所が現れて、女神様が一杯食べていいって言うようなのを想像してたんだけど」
シーグが吹き出した。
「バカにした……」
「いや、バカにはしてない。してないけど……リシェらしいっていうか」
シーグは寝台の上を膝立ちで歩いていき、脇にあった小さな机の引き出しから、何かを取り出す。
戻って来て差し出してきたのは、綺麗な明るい色の包み紙でくるんだ飴だった。
「ありがとう!」
さっそくわたしは飴を口に入れる。シーグも飴を食べ、二人はしばらく静かに甘さを堪能した。
食べ終わったところで、わたしは疑問を口にする。
「でも楽園に入らせないために雷を使うとか、神様は人間が嫌いなの?」
「嫌いってわけじゃないだろうよ。ただ、自分の家に人が好き勝手に出入りするのが嫌なんじゃないのか?」
「でも死んだ人は自由に入れるわけじゃない? そっちは嫌じゃないの?」
「死んでるから、きっとたいした悪さができないんだよ。物を盗ろうとしても幽霊だから掴めないとか」
「……神様は、人を信用してないってことね」
するとシーグは、めずらしく暗い目をして応えた。
「たぶん大人は皆、人を信用してないんだよ」
だから信用してもらうのが、命をかけるほど大変なのだ。聖者が何年もかけて天使一人一人を味方につけ、雷をくぐりぬけないと会いもしないほど。
「じゃあこのお話って、人に信用してもらうためには、何年も苦難を乗り越えなきゃいけないって教える話なのね」
納得したとうなずくわたしに、シーグが苦笑う。
「いや、たぶん神様に会うのは大変って話じゃないか?」
***
小さい頃のことを夢見ていたわたしは、ふと目を覚ました。
最初に目に入ったのは、夕陽の情景が描かれた天井だ。
夕陽は死の国の象徴だ。
天翼の扉の向こうにある楽園は、空が黄昏の色に染められた美しい世界だという。夜という闇に全て隠されるのでもなく、朝や昼の、くもり無き光に全てを照らし出されるのでもない境目の時間。
夕陽を死の世界と結びつけた昔の人は、その中途半端さが、死者という見えない存在となじみが良く感じられたのだろう。
「ていうかここ、どこ?」
わたしの家にこんな部屋はない。
いくら元王宮錬金術師の家でも、内装にここまで凝ったらどれだけのお金がかかることか。しかも寝具だって高級品だ。子供時代を過ぎてからはあまり行かなくなったため記憶が曖昧だが、これほど上質な布に触れたのは、シーグの部屋でのことだった。
つまり貴族の家だ。
がばりと起き上がったわたしは、急に体勢を変えたせいか、一瞬めまいがする。
額を押さえてしばらく目を閉じ、落ち着いてから部屋の内装を見回す。
真っ白な壁は、白大理石だろうか。つやつやとした壁面は彫刻と彩色がほどこされている。
部屋の中にある家具は、この寝台だけのようだ。やはり貴族の家にあるような、立派な木製の天蓋付寝台だ。その他は作り付けの暖炉があるだけ。
まるで空き部屋に急ぎ寝台だけ置いたような感じだ。
窓の外は暗い。白いカーテンがあるものの、閉じられずに窓の両脇にタッセルで纏められている。そのタッセルすら、星の連なりに似た金の鎖に大きな緑の石がついた高級なものだ。
一体自分はどんなお屋敷に連れてこられたというのだろう。
そもそも自分を捕まえたあの黒覆面。片方は確かにエンデの声だった。町中の警備隊員は基本的に平民がなるものだ。彼が一体どうして、こんな豪勢な内装の屋敷の主とつながりを持ったのだろうか。
そこで、どうやって彼らが門の中に侵入できたのか気づいた。
お茶をふるまうために招き入れた時に、おそらくエンデが何か細工をしたのだ。
連れ去られた目的もわからない。
襲撃される心当たりといえば、例の連続殺人の件ぐらいだ。しかし犯人が痛い腹を探られたくないというだけなら、わたしを捕まえる必要はない。殺してしまえばいいだけのはずだ。
「それに夜っていっても、当日の夜なのか翌日の夜なんだか……」
とりあえず場所の見当がつかないか、窓から外を眺めて見ようと思った。
寝台の周りを見たが、履き物はさすがに無かった。しかたなく素足で床に降りる。絨毯が敷かれているので、冷たくはないが、心許ない。
服は連れ去られる前から着ていたものだ。
そして窓へ近寄ったわたしは外を眺め――呆然とする。
「こ……ここ」
登り始めた月が青白く輝いている。その傍に見える山まで、視界を遮る建物はなかった。
一瞬、王都の外へ連れ去られたのかと思ったが違う。少し下に視線を移せば、きらきらと地上の星のように輝く物が見える。
わたしは以前、お祖母ちゃんに言ったことがあった。
王様のお城は丘の上にあるから、塔の上なんてきっと見晴らしがいいんでしょうね、と。
それに答えて祖母は教えてくれた。
夜になれば、王都は天を映したように無数の星の光が宿るのだと。その一つ一つの明かりの元に、人の営みがあるのだと言って、王様はとても嬉しそうに夜の王都を眺めるのだと。
「ここって、王宮?」
お祖母ちゃんがその時教えてくれた光の様子と、寸分違わぬ眺めだったのだ。
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