第8話 遅い帰宅の後は
「たっだいまー!」
うきうきした気分で帰ってきたわたしは、誰もいない家の中に向かって帰宅を告げたつもりだった。
基本的には、わたしは一人暮らしなのだから。
お祖母ちゃんが居た頃の名残で挨拶してしまうのがくせになっていただけなんだけど、まさか返事がくるとは思わなかった。
「ようやく戻ったか。遅いぞ」
玄関ホールからまっすぐに伸びる二階への階段の途中に、シーグが立っていた。
マントこそ羽織っていないものの、出かける前に見た藍色の裾の長い上着と、中に着た眩しいほどに真っ白なシャツ。そして羨ましいほど長い足など、王子様然とした姿だ。
「ところで一緒に歩いていたあの男は誰だ?」
貴族然として見下ろしながら尋ねてきた内容は、しかし夜遊びをする娘に対する父のようだ。
「露店の辺り警備してる警備隊の子。夜遅いからって送ってくれたの」
「そうか」
別に怪しい人ではないと言うと、シーグは苦虫を潰したような表情をしながら、不承不承うなずいた。なにが気に入らないのだろう。
「そういえば今日は夜遅くまでいたんだね。夕方もいたけど、お家のご用事とかは大丈夫なの?」
「今日は特別な用もないからな。それにもうすぐクラーラの冥日だから……」
クラーラ――お祖母ちゃんが死んだ日が近づいている。シーグは自分の祖母のようにお祖母ちゃんのことを慕っていた。彼もまたその死を今でも悼んでくれているのだ。
お祖母ちゃんの館から出ないという本人との約束を破り、その墓へリシェと行ったこともあるほどだ。この時は、シーグも心底「あの扉があって良かった。じゃなければ墓参りもできなかった」と言っていた。
「そうだったね。一週間後か……また、二人でお墓に行く?」
行って帰ってくるのに一時間ほどかかる場所だ。階段を上りながら気軽に誘うと、シーグはかすかに微笑みを見せて――その表情が固まった。
「おい、その手は何だ!?」
わたしが階段のてすりを捕まえていた手。
それを奪うように握られて、思わず「痛っ」と声を上げていた。
あの怪しい箱が飛び散らせた火花で、火傷をしたのだ。箱と格闘している間は痛みもあまり気にならなかったのだけど、帰り道を歩いている内にじわじわと痛みが増していた所だった。
「なんで火傷をしている? まさか術で追い散らさなければならないような悪漢が! それで警備隊の者に送らせて――」
「ちがう、違うのシーグ! これは私の不注意で」
「とにかく薬を!」
わたしの手を引くわけに行かないと思った彼は、階段を上っていた彼女の膝裏を掬うように持ち、抱き上げてしまった。
「ちょっ、あの、別に足は何ともないって!」
抗議の声を上げたものの、シーグは聞き入れてくれない。
わたしを部屋へ連れて行き、昼寝をしていたあのソファの上に下ろす。勝手知ったる家だからと、棚の上に置いていた救急箱を取り、貴族にあらざる手際の良さで手の治療を始めた。
諦めて手を差し出していたものの、消毒液をつけられるとさすがにしみた。
「いた!」
「少し我慢してくれ。小さな火傷程度で良かった……」
心底からほっとしたような声に、わたしも彼に悪いことをしたような気持ちになる。
シーグはわたしの怪我に敏感だ。彼女の家が火事になった後も、足や手に負った小さな火傷をひどく気にして、包帯を巻いたりと甲斐甲斐しく治療してくれたのを覚えている。
こっそりと夜中に付き添ってくれたこともあるのだ。
昔は、それを見たお祖母ちゃんに「過保護だねぇ」と苦笑いされていたものだが。そう言ってくれる人はもういない。だから過保護と言われて真っ赤になるシーグもこの一年見ていない。
だからだと思う、薬を塗り終わって包帯を巻くシーグの顔が、まるで自分が怪我をさせたかのように、苦悩した表情なのは。
変わらないシーグの様子に気づき、少し考えてからお祖母ちゃんの代わりに言ってみた。
「シーグは過保護だねぇ」
「なっ、別に過保護じゃ……!」
慣れたやりとりに思わず顔を上げたシーグは、わたしと目を合わせた。それからはっとしたように我に返り、拗ねたように呟く。
「クラーラと同じ事を言うな」
「お祖母ちゃんならこう言っただろうなって思ったから。だってシーグが恐い顔してるんだもの。別にシーグが火傷を負わせたわけじゃないのに」
シーグは視線を落とし、包帯の端を結ぶ。
手の甲がほんの一カ所、水ぶくれを起こした程度の怪我だ。わたしが治療をしたら、ぺっと塗り薬だけ塗りつけて終わっていただろう。ある意味シーグは几帳面で、火傷にはひどく神経質になる。
彼が火傷で苦しんだことでもあるのかと思うほど。
「女の肌に傷があったら不味いだろう」
そう言って、彼はわたしの肘近くに触れる。シーグはそこに、昔の火傷の痕が治らずに残っていることを知っている。
火傷をした後、わたしはお祖母ちゃんの家で療養していたからだ。
「そんなことより、どうしてこんな火傷をしたのか聞こうか」
尋ねられ、わたしは今日の依頼について話した。
帰る途中で警備隊に声を掛けられたこと。
第三分隊の分署で聞かされた、貴族の子息ばかり犠牲になっている事件のこととかを。
「というわけで、これが問題の箱」
鞄から取り出した錬金術の箱をソファ前のテーブルに置く。
シーグはそれを半眼でじっと見ている。ひどく忌々しい物を見るような目で。
そして変な事を尋ねてきた。
「その近衛騎士の名前は?」
「たしかガイストさんって」
何故かシーグは暗く笑う。でもすぐに気を取り直したシーグはわたしに向き直り、両手を掴んできた。
「それにしてもリシェ、なんでそんな依頼を受けた? 断ることだってできただろう? 変な事に首をつっこんで、今までに何度クラーラや私に怒られたと思ってるんだ?」
「え? だってなんか困ってるみたいだったし。それに……」
「それに?」
重ねて問われて、言い訳を探しながらシーグから視線をそらした。
正直に言えば、よけいに止められるとわかっていたからだ。
「報酬が。すぐ必要な材料を補充しても、まだ憧れのフロッケウスの鱗とか星輝石を買えそうなぐらい余りそうだったから……」
その二つがあれば、もっといろんな物を作れる。実際わたしは、その二つが以前からずっと欲しかったのだ。
しかし自身も門前の小僧のごとく、ある程度錬金術を習い覚えていたシーグは、とたんに眉をつり上げた。
「リシェーっ!!」
わたしは思わず頭をかばった。
「お前という奴は! そんな代物を使って術を使って失敗したらどうするんだ! 館を破壊する気か!」
フロックスの鱗は水を呼ぶ。水という言い方は語弊があるかもしれない。正確には、まともに鱗一つを星輝石と合わせて使うと、フロックスという怪魚の起こすような、津波を呼ぶのだ。
「ちょっと削って使えばいいんだってば! 噴水があがるくらいとか。星輝石も別に一緒に使うわけじゃなくて……」
「当たり前だ! 王都を水浸しにしてみろ! 国外退去じゃ済まない犯罪だ!」
ああやっぱり起こらせちゃった。
そう思いながらも、わたしはシーグが誤魔化しにひっかかってくれたことに満足を覚える。
同時に心の中で謝る。
ごめんね、シーグ。
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