いいのかな

 『どうしてこの大学を選びましたか』という欄に、差し掛かっていた。私がこの大学を選んだ理由?まず理学部生物学科があったからだ。そして、国公立大学であること。他にもある、地方にあるということ。実家に行こうと思えば数時間で行けること…。パッとしない理由しか浮かばない。だから私は『自然豊かなこの大学の雰囲気が気に入ったからです。』とありふれた言葉を並べといた。


 次は『なぜこの学部を選んだのですか』だった。お父さんに、


「これからは理系中心の社会になるから理系に行きなさい」


と言われたからだ。私は数学が大嫌いだったから、理系には行きたくなかった。でも、理系の中で1番興味があったのが生物だった。動物も植物も私は好きで成績も良かった。今更だけど、私は文系に行って歴史を学びたかったよ。そんなことお父さんに言えるはずないんだけどさ。


 どうしてだろう、『運命』と『気持ち』っていつも反対側にあるよね。


 涙で視界がにじんだ。


「そろそろ、終わりましたかね。」


先生の声が聞こえた。匿名のアンケートだから未回答があってもいいよね。


 私はハンカチで涙を拭いてから、アンケートを出した。


 そのままトイレへ行き、顔を少し洗った。鏡の自分はいつ見ても不細工だ。私も、みんなみたいに髪の毛染めたりピアスしたり、高い化粧品を付けたりすれば可愛くなれるのかな。この疑問について、半年くらい考えてるけど、私には答えが出ない。勇気が出ないのだ。


 次の時間は英語、私は教室が遠いから足早に広場を横切る。着いて時計を見ると、授業の始まる五分前だった。いつも五分前、もしかしたら急ぐ必要ないのかな。無駄な息切れを隠しながら、私は席に着いた。


 この授業の担当の先生は苦手。課題も多いし、なにより授業中に指名されて問題を解かされたり英語を訳させたりする。私は眠くなることが多いから、急に指名されても対応できないし、何より英語が苦手だった。いつも戸惑ってしまう。戸惑って前の人の答えを見て、答えることもたまにある。ただ前の人もそんなに英語が得意というわけではないみたいで、答えが全部あっているわけではなかった。でも他に間違っている人がいるだけで私は心強い。


 今日だって、その前の人の腕を眺めていたら、いきなり指名された。もちろん答えられなくて、わかりません、と言ったら怒られた。どこが分からないか言ってくださいと言われたけど、あいにくどこが分からないのかも分かりません。


 どうして腕を眺めていたかというと、いつも黒い腕時計をしているから。私はいつもそれを見ていた。今日は忘れちゃったのかな?


 にしても、あの腕時計はかっこいい。きっと、センスがあるんだろうな。あんなもの買えるなんて、きっとバイトもうまくやっているんだろうな。


 私は、バイトをしていない。4月、飲食店のバイトに応募した。初日から仕事が多くて正直びっくりした。でも1番辛かったのは、たくさん怒られたことだ。


 「遅い!」「どうしてこんなに雑なんだ。」「やり方がわからないなら質問しろ!」「ぼーっとしてんなよ。」「もっと声を出せよ。」…


 私はもうそこに行くことはなかった。シフトは書いていなかったし、辞めると言い出せなかった。あの日はたくさん泣いた。たくさん…。


 今日もまた、たくさんの課題が出た。早く帰ってやらないと。でも夕飯も作らないといけない。そうぁ、今日は学食に行こう。


 学食は、私にとってごちそうだった。料理が苦手な私は好きな食べ物も満足に作れない。いや、好きな食べ物を作ってるつもりなのに、完成すると別のものになる。そう考えると、お母さんって本当にすごいよ。この学食と肩を並べるくらいかな?でも、お母さんの麻婆豆腐だけは、世界一おいしいと思う。私が落ち込んでいるときに限ってよく出てきたっけ。また食べたいなあ。


「辛い物ってね、体が温まるし、ストレスの解消にもなるんだよ。だから、たくさん食べな。」


お母さんの麻婆豆腐はいつも辛かった。そして涙の味だった。私はよく泣きながら食べてた。私はお母さんを尊敬します。あんなにおいしい料理を作れるお母さんを。


 ああ、情けない。料理ができなくて学食を食べている自分が。


 この時間の食堂は人数が少なかった。まだ、4時半くらいだからか。周りを見ると、おやつ的なものを食べる人がほとんどだった。急に恥ずかしくなって、周りに仕切りがある座席に座った。


 学食の麻婆豆腐は食べたことがなかったので、買った。お母さんのとはだいぶ違う。赤が少なく、辛くなさそうな見た目。それでも、豆腐は白く輝き、湯気が温かさを示していた。あの辛さはなさそうだけど、とてもおいしそう。


しきりの反対側から、聞き覚えのある声が聞こえた。


「俺さ、教師になったなら宿題は絶対出さない。勉強しなさい、も、絶対言いたくないな。」


「それじゃ、勉強しないでしょ。」


「そうかもしれない。でも勉強は、無理やりやらせるものじゃない。俺たちはそうされてきたから勉強が嫌いなんだよ。課題も多かったでしょ?」


「まあ、確かに。」


「それから、子供にも勉強しなさいとか、この学校目指しなさいとか言いたくない。あくまで子供が行きたいと思った所に行って欲しい。」


「それ前も聞いたよ。そろそろ、帰らないか?」


「あれ、そうだったか。うん、帰ろう。」


その後も会話は続いていたみたいなのだけど、離れてしまって聞こえなかった。私は心臓が高鳴っていた。なんて素敵な考えの持ち主なのだろう。私は彼みたいな人の生徒になりたかったよ。私は彼みたいな…。


 とりあえず、そんな風に考える人がいるのは嬉しかった。私はあの人に、教師になってもらいたい。きっと素敵な教師になるんだろうなあ。そして、どこで聞いたのかな、あの声。ゼミかな?


 私はゼミを受講している。明日もあるのだけど、やっぱり憂鬱だ。必ず、グループワークがあってグループで協力しなければならない。私は話すことが苦手だから、いつも緊張してしまう。でもゼミは卒業するためには必修科目だった。なんだ、コミュニケーションができないと大人になれない、と言われているような気がして不安になる。私はちゃんと働けるのだろうか。他の人みたいにたくさんの友達ができるのだろうか。入学してから結構経つけど、友達は数える程しかできていない。結婚式とか、何人招待できるのだろう。これが前から抱えている不安。そもそも結婚できないか。


 泣きながら笑いそうになった。男の子と話すってすごく難しい








 私はギリギリにゼミに着いた。1週間かけてやるはずの課題を昨日でやりきろうとして、寝る時間が遅くなってしまった。


「では、今回のグループを発表します。」


受講者は男女同じ人数になるようになっているから、グループ構成はいつも男女2人ずつ。相方の女の子が友達だったから私はすごく安心した。悪いけど、頼らせてもらうかも。頭の中で、頼みごとをした。


 グループになってみると、2人とも初めて同じグループになる男の子だった。片方の男の子は、パーマに丸メガネの人。もう1人は茶髪にパーマで顔が爽やかな人。私にも分かるほど、爽やかだ。


「ちなつーよろしくー」


「よろしくー舞ちゃん」


すごく安心した。舞ちゃんは、このゼミの1回目の時に友達になった。見かけると、ちなつーと叫んでくれる。すごく嬉しい。


 でも、遊びとかに誘ったことはない。一緒にご飯を食べたこともない。なんというか誘えない。友達には、なれる。でもその先の線の中に踏み出せない。呼び捨てで呼んだり、ここ行かない?とか言える仲に、私はなかなかなれない。大学に入ってから友人と遊んだのは、長期休暇に、地元の友達と遊んだだけである。大学でも遊べる人ができたら、きっと楽しんだろうな。


「あれ、あきちゃんの友達?」


爽やかな人が舞ちゃんに向かって言った。


「そーだよー。あきの知り合い?」


「そーそー、てか俺も工学部だよ!」


「まじ?男子多くてわからないわー」


2人は楽しそうに笑って話していた。もう1人の男の子も、


「なんだみんな知り合いかよー。」


とか言って会話に混ざっている。こうなると、私は動けない。会話に入るタイミングがわからない。きつい90分間になりそうだ。


「えーでは、今日の課題を発表します。」


講師の先生によって私は救われた。私たち以外で行われていた会話は終焉を迎えた。


「ちなつはどう思う?」


舞ちゃんが聞いてきた。今回は、学生の学習時間の減少という問題について意見をまとめるというテーマだった。なんかこれを教育者に言われると、勉強しろと言われているように感じるのが本音だ。結局、もっと勉強しようと思うみたいな結論に至るのが望みなんだろうな。


「うーん、スマホの普及と関係ある気がする。」


思いついた、それっぽいことを言うと、


「確かに!それじゃん!」


爽やかに言った。そんなに褒めないでよ。


「スマホの時間が、勉強時間を奪ってる、ということかー」


舞ちゃんがまとめてくれた。このディスカッションは、意見を出して、まとめてプレゼンすることが流れである。そして他の人の意見も聞き、最終的な意見をレポートとして提出するのである。


「もっと意見出さないとねー」


「あとは、学習意欲の欠如?」


「欠如とか、かっこつけちゃって。やる気がないってだけでしょ」


「でも、確かに。野口英世とかの意欲はすごそうだよね」


 偉人はどうしてあんなに勉強の意欲があったのだろうか。


「俺はさ、勉強というより課題が嫌いかな」


「あ、確かに!」


他三人は声を揃えた。私の声が小さいから、2.5人かな。


「勉強しろって言われるとやる気なくなるよなー」


私ははっとした。昨日の食堂での話と繋がるものがある。もしかして私が勉強を嫌いな理由がそれなら、納得がいく。私は小さいころから、言われてきたから。言われなければ、私はもっと自由で、いきいきしていて、みんなみたいに可愛い女の子だったのかもしれない。でも、もし言われなかったら、どうなっていたのだろうか。大学に合格できたかな?分からないや。もしかしたら、意欲はあっても、成績は低かったかもしれない。数えきれない憶測が頭の中に蔓延した。


「じゃあ、こんな感じでプレゼンしよう」


やばい。聞いていないうちに話が進んじゃってたみたい。でもプレゼンは舞ちゃんがやってくれるみたいで私は助かった。やっぱり舞ちゃんには勝てないよ。


 私達のグループは、MVPに選ばれた。毎回投票で決めるのだけど、私が所属したグループが選ばれるのは初めてだった。


「いえーい!」


舞ちゃんが喜んでいた。どうしてそんな、嘘偽りない笑顔ができるの?私も嬉しいけど、そんな風に笑えない。


「じゃあ、今日はおつかれ」


男子に言われた。おつかれとだけ言って、私は教室を一人で出た。舞ちゃんはもっと仲の良い友達とかえるみたいだから、私は一人。誘えば3人で帰れたのかもしれないけど……


 食堂で聞いたあの声の主は、ゼミにはいそうにない。なんたって、話し合いの時、ほとんどの人が大きな声を出してるから、確認ができる。いったい誰だったかな。


私は階段を下りながら、ポケットに手をつっこみ、自転車の鍵を探した。右のポケットにも左のポケットにもない。バッグにしまったのかな?端に避けてバッグを開けてみたけど、見つからなかった。


 教室に落としたかも。


 階段をもう一度上り、教室への廊下を早歩きで歩いていた。教室の中から話し声が聞こえた。


「舞ちゃんって子可愛くない?」


「あー今日めっちゃ話したわ」


この声は茶髪でパーマの子だ、多分。


「もう一人の子はどんな子だった?」


「あの子はね、あんま話さなくて、苦手なタイプ。何考えてるかわからないし。」


私は走って大学を出た。




 私は息が切れて、ごみ箱に寄りかかった。なんでだろう。あの男の子達の話を聞いた途端、私は走って逃げたくなってしまった。あの場所から。大学から。


 私はやっぱり不適合者なんだ。


 他の子みたいに可愛くない。コミュニケーションも取れない。サークルにも入ってない。私は、大学に行く資格なんてないんだ。でも、辞めたら、お父さんになんて言われるのだろう。家をきっと追い出される。もう私、永遠に一人ぼっちだよ。


 大学の、広場の端、ごみ箱の傍ら。絶対泣いちゃいけない場所だけど、涙は目からあふれ出た。上を向いて、涙がこぼれないように頑張ってみたけど、無理だった。私は、みんなとは違う人間なんだ。こんな所で泣いちゃう人間なんだよ?おかしいよね。


 私は恥ずかしくなって、そこに座り込んで、スマホを取り出した。何も見る気にはならなかった。ただ、おかしな人だと思われたくなかっただけ。


 食堂のあの人に、私は全部打ち明けたい気がしてきた。あの人なら何て言うかな?


 私ね、可愛くないし、コミュニケーションも苦手、何のサークルにも入ってない。課題はいつも友達だよりで、成績もギリギリ合格。寝坊もしちゃうし、忘れ物もしちゃう。私って大学来ていいのかな?


……生きていていいのかな?


教えてよ……


スマホに複数の水溜りができる。手とスマホの隙間にも、水滴が入っていたみたい。力のない右手から、スマホが落ちた。画面には大きなひびが入った。でも、私はそんなことまったく気にならなかった。


 スマホのひびって画面が割れているのかな、それともその上のフィルム?っていう問いが頭に浮かんだ。顔はたくさんの涙が走っているのに、どうしてそんなこと気になるんだろ。本当は私、落ち込んでなんてないのかな。


 スマホを拾おうとした。指が何かに当たった。覗き込んでみると、見覚えのある腕時計が落ちていた。


 あ


 私の中で点が線でつながった。


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