「小説が書けない」

いつからだろう。

「私には小説は書けない」と、線を引いてしまったのは。


十七歳のころ、はじめて短編を書いた。

『毛布』という題で、部屋でナイフをもっている少年と、その部屋の押入にいる少女との話。どういう意味があったのか、思いだせない。


『向日葵』という題の短編も記憶にある。

「表」と「裏」にわけられていて、向日葵に恋する少年と、向日葵である少女との話で、表と裏が交錯しながらすすんでいく。これもやはり、細かいことは思いだせないし、どういうきっかけで、どういう意図で書かれたものかもわからない。


そのほかにもたくさんの短編を書いた。

二十年も前のことなので、ふたつの題名とあらすじがかろうじて記憶にあるばかりで、ほかのものは題名すら思いだせない。もっとも、思いだす必要もないのだけど。


私はそれらをフロッピーディスクに保存していた。

ノートパソコンで書いていたが、ネットにはつながっていなかったので、実質ただのワープロだった。作品は自宅で印刷し、いくたりかの人の目に触れた。

太宰にほれこんでいたHさんは、「ふふん、いいんじゃあないか」と言った。

自由な旅人のKさんは「よくわからないなあ」と言った。

変わり者のIさんは「とてもよくできている、詩的だ」と言ってたいそう褒めてくれた。

濫読家の従姉妹には「何が言いたいのかわからないが言葉がいい」と言われた。

脳科学の研究者になったインテリのYさんは「○○的だ」とか「△△の作品に似ている」などと言っていた。「影響を受けたのかい?」とも。影響を受けるはずがない。私はそれらの作品を読んだことも聞いたこともなかったのだから。


作品の中身もろくにおぼえていないのに、こうした感想だけはいまでもはっきりと思いだせるということは、不思議なものだ。

それらの紙の束はやがて紛失し、書きためたフロッピーはいつどこで失ったものか、おそらく、当時の恋人が妊娠したとき、つまり娘ができたときに、すべて捨てたものと思うけれど、実際はどうだったのだろう。


それらの打ち棄てられた短編たちに、未練があるかといえば、ない。

ただ、現在それらを読み返してみたとしたらどう感じるのだろうか、とは思う。

ずいぶんと出来のよいものもあったようにも思うが、それはもう手の届かない遠くにあるために、記憶がいいようにその姿をごまかしているだけのことなのだろう。


私はいま『人と木』と題して「小説」を書いている。

詩がまったく書けなくなったので、その間の筆ならしのつもりで書きはじめたが、あとからあとから、書きたいことがあふれて止まらない。

仕事中も、運転中も、入浴中も、四六時中そのことばかり考えている。

あれだけ頭に刻みこまれるようにしてあった「小説が書けない」という考えが、気づけば頭のなかからきれいさっぱり拭い去られていた。

なぜか。


「小説」というものは、自分の書きたいように書くものだと気づいたからだ。

そこに正答などありえないし、規定もない。

ただ書きたいものを書けばいいだけのものを、「書けない」といってなげうつ理由がどこにあるだろう。


何万冊と売れなければ小説ではないのか?

出版されなければ小説ではないのか?

本でなければ小説ではないのか?

拙くたっていいし、自己満足でもいい。

賞なんて、なんの意味もない。そもそも私が認めていないような作家たちが選考委員をしているのだ。そんなものに認められることに意味などあるわけもない。


商業的な成功はのぞんでいないし、プロの作家を目指しているわけでもない。

ただ私が読みたいものを書いているに過ぎない。

小説とは、文学とはなにか、というあまり実のない議論は他に任せるとして、私は私の文を学びながら、好きなものを好きなように書きつづけていければ、それで充分なのではないかと思う。ほかになにが要るだろう。


人から認められたい、人に褒められたい、などという思いはとっくの昔に消えた。

ひとりきり、自らの作品と対峙して、誰がどう言おうと自らの欲求のあるがままに、書きあげて、それを一冊の本にしたい。

私がいま求めているのは、それだけのことなのだ。


「小説が書けない」と思ったのはいつだったか思いだせない。

けれど、「私は小説を書いている」と、思いはじめたのは今だ。

また忘れてしまっては困るので、ここに書いておくことにする。



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