第一章(1-7)

 僕がゆっくりとドアを開けた分、彼女も昨日と違って、ゆっくりと頭を僕の方に向けた。昨日みたいに口を開け、目を見開くこともなかった。でも驚いていることは確かだった。昨日と同じように、僕と彼女の間に何かしらの風が吹いたような気がした。

「、、、まだ返してない本あったの?」

透き通るような甲高い声で彼女は聞いてきた。もちろん借りていた本は昨日全部返した。

「、、、いや、、、」

素直にそれを言おうとしたが、僕の口からは、その2文字しか出てこなかった。なぜだろう、言いたいことがうまく口から出ない。まるで喉の付近で誰かが僕の声を引き止めているようだった。

「、、、じゃあ何しに来たの?」

彼女は目を見開いて、こちらの返事を待っている。言いたいことがうまく口から出ないといったが、それは僕の口のせいではない。すべては僕自身のせいだ。言いたいことを言うのかは、僕次第だ。

 僕は静かに深呼吸を一回してから、口を動かした。

「、、、き、昨日の事なんだけどさ、あれってどういうこと?」

彼女は驚いたり、首を傾げたりすることもなく、口をㇵの字にしてこちらをしっかりと見ている。僕の次の言葉を待っているような気がした。僕は口を動かし続ける。

「昨日ここで、お前と会ってからずっと考えてたんだ。お前はいったい何が言いたかったんだ?俺が心から笑ってないだの、俺とお前が一緒だの、忘れ物が何だの、わけわかんないんだよ!でもお前はきっと、俺に何か言いたいことがあるんだよな?それが気になって仕方がないんだよ!だからはっきりと俺に伝えてくれ!」

ここまで息継ぎをしないで、早口で言ってしまった。伝わっただろうか。勉強しないで漫画ばかり描いている小学生には伝わらない気がした。

 彼女は僕の早口な質問を聞いた後もしばらくこちらを見ていた。一瞬沈黙が走った。そして彼女は自分の描いていた漫画に目をやり、再び手を動かしだした。やっぱり伝わってなかった。この空気感、どうすればいい。俺だけ大きな声で、ぶっ通しでしゃべり続けてこの沈黙。あきらめてこのままグラウンドに向かおうと思った。その時だった。

 彼女は漫画を描きながら、口を動かす。

「君は私をからかう時、全然心から笑ってなかったよ。全然楽しそうじゃなかった」

それは昨日聞いた。それが何だと僕は聞いている。僕はあきれて足元の床を見ることしかできない。

「、、、でもね」

まだ続きがあると知った瞬間、僕は床しか見えない視界をすぐに彼女の姿が見えるものに切り替えた。

「、、、、君がサッカーをしているときは、心から笑ってるよ。下手くそなのに」

最後の付け足しの言葉はいらないだろうと少し腹が立った。

「、、、、、なのになんで、、、」

漫画を描いている手を止めた。鉛筆を机の上に置く。それでも彼女は漫画を見続けている。

彼女の次の言葉で、さっきの「下手くそなのに」という付け足しが必要なものであることが分かった。

「、、、なんで、私の下手くそな漫画をバカにし続けるのよ、、、」

この言葉を聞いた瞬間、僕の中に閉ざされていた扉が開けたような気がした。彼女はその場で立ち上がり、僕の方を見た。こちらを見てから気づいた。彼女は泣いていた。目に涙があふれまくっていた。僕の中にある扉が開いた瞬間、そこから彼女の感情と大量の言葉が押し寄せてきた。

「君はサッカーが下手でも、希君たちから笑われてもずっと嫌な思いせずに笑ってサッカーしてるし、みんなから邪魔者扱いされない!なんでかわかる?サッカーが大好きだからでしょ?希君、翔平君、勇気君とするサッカーが、あの時間が大好きなんでしょ?どんなに下手でも、失敗してもサッカーが好きだからみんなで心から笑ってられるんでしょ?なのになんで、、、なんで、、、、、」

彼女はここまで言って、自分の漫画を再び見た。涙が垂れて、漫画が描かれた紙が湿っている。僕はそれを見ることしかできない。

「、、、、なんで、私の漫画をバカにするのよ、、、、下手なのはわかってる、、、でも私、、、漫画が大好きなの、、、、描いてる時間が一番私らしくいられるの、、、心から笑ってられるの、、、なのになんでそれを、邪魔されなきゃならないのよ、、、」

彼女はずっと漫画を見ている。僕は何も言えない。しばらく沈黙が走った。

僕らが彼女をからかっている時、彼女は怒ることなく、優しい顔をしていた。なぜそういられたか?それは彼女が漫画を描くことを心から愛しているからだ。でもこんなにからかわれて、怒り、悲しみ0%でいられるわけがない。ついに彼女が今まで溜めてきたその怒り悲しみを爆発させたのだろう。僕もサッカーが下手で、希たちから笑われることが何度もあった。でも傷つくことはなかった。なぜなら、僕は1年生の時から仲がいい希たちとサッカーをするのが大好きだからだ。いくら下手でもこの時間が一番自分らしくいられる。


心から笑っていられる。


僕は彼女と一緒だ。


なのに僕は、希たちと一緒に彼女のことをバカにし続けた。彼女の事を一番わかってあげられる人間なのに、希たちとともにバカにし続けた。下手くそな彼女の漫画をバカにし続けた。それは僕の好きなもの、自分らしくいられるものが何なのかわかっていなかったからだろう。自分が心から笑っていられるものが何なのか、ちゃんと認識できていなかったのだろう。彼らとサッカーをすることが大好きだということを忘れてしまったのだろう。忘れてしまった大好きなものが日常に溶け込んでしまった以上、その日常の中で探し出すしかないのだ。


忘れ物って意外とさりげないときに思い出すんだよ


そんなさりげない日常のなかに自分の忘れてた大好きなものが隠れているのだ。今それに気づいた。

 彼女は沈黙の中でずっと立ったまま下を見ていたが、やっとこちら側を見てくれた。彼女の目にはもう涙はなかった。彼女は笑顔だった。

「サッカーしてきな。多分今日が最後だよ」

僕の心の中の変化を彼女は察してくれたのだろう。彼女は優しく語りかけるように僕に言った。そして、こう続けた。

「卒業おめでとう」

明日も会うだろうとツッコみたかったけどやめた。僕は彼女に笑顔を見せ、図書館から離れた。昇降口で急いで靴を履き、心から笑っていられる場所、心から笑っていられる時間に向かって走り続けた。

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