第一章(1-5)

 ドアを開けた左手は取っ手に引っ掛けたまま、その場でしばらく立ち止まってしまった。いつも無表情な西村もドアが開く大きな音と突然の来客にさすがに目を見開き、口が開いたままだった。まだ肌寒い季節で窓なんて開いていないのに、僕と彼女の間に冷たい風が吹いたような気がした。

 そんな謎の風を感じた瞬間、僕はどうかしてたことに気づいた。別に図書館に西村がいるだけだ。このまま無視して、カウンターの横にある返却ボックスに本を置いて、ここを出ればいい。何を動揺する必要があるんだ。僕は西村の方を向いていた目をカウンターにやり、そのままそちらの方向に体を運んだ。

それにしても放課後も先生に許可をとって一人で漫画を描いているなんて、どんだけ好きなんだよ。

そんなことを考えながら、カウンターに本を置いた。西村の事なんて気にしてない風に装っていたが、おそらく心は彼女の方にずっと向いていた。別に好きだからとかそういうわけではない。なぜか気になった。カリカリと音がする。再び漫画を描きだしたのだろう。

 本は返却ボックスに置いた。あとは図書館の先生が勝手に処理してくれる。あとはここを出るだけだ。西村の方を気にしながら、出口へと向かう。西村は猫背になって漫画を描いている。この居心地の悪い空間に対する苦しさと、もうこの図書館に来ることはないのかもしれないという寂しさが混同した状態でドアの取っ手に右手をやった。

「ねえ、」

右手が冷たい金属の取っ手に触れた瞬間に、甲高くて優しい声が聞こえた。天からそれが聞こえたような気がした。霊かとも思った。でも普通にこの状況を考えれば、それが彼女の声であることはわかる。

「、、、え?」

僕は体をドアの方向に残したまま、首と顔だけを彼女の方にやった。彼女は下を向いて漫画を描いていた。一瞬彼女の声じゃないのかなと思った。本当に霊だったんじゃないかとさえ思った。でもそうこう考えてるうちに彼女の口が動いた。

「楽しかった?学校生活」

頭がこんがらがった。いったい彼女はなにが聞きたいんだ。なんだその、親が聞いてきそうな質問は。まあこの1対1の状況で無視するのも嫌だし、僕は素直に答えた。

「楽しかったよ」

何の感情もない声で僕は答えた。これ以上会話を続けたくなかったけど、彼女の方をずっと見たままでいた。彼女は僕ではなく、漫画を見ている。すると彼女はこの会話の流れを止めることなく、進めてきた。

「本当に楽しかった?」

「、、、、、、は?」

反射的に声が出てしまった。彼女が何を聞きたいのかわからない。わからな過ぎて、思わず聞き返してしまった。この会話の流れを僕もとめることなく、進めてしまった。彼女は続ける。


「私をからかってるとき、君だけ心から笑ってなかったよ」


おそらく、さっきの休み時間のことを言ってるのだろう。僕はいつだって希たちとずっと一緒にいたし、ずーっと楽しい学校生活をおくっていた。彼らといるときはいつだって笑いが絶えなかった。いつも笑顔でいられた。でも彼女は、あの時の僕の笑顔だけを否定した。そして彼女はこう続けた。


「君は私と一緒なはずだよ」


なんだかよくわからなくなってきた。彼女と僕が一緒?わけがわからない。この場から逃げたくなってきた。もういい、逃げよう。

僕は入るとき同様、ドアを思い切り開けた。開けた瞬間に彼女が再び話しかけてきた。


「忘れ物って意外とさりげないときに思い出すんだよ」


それをしっかりと聞いてから僕は昇降口まで走った。さっきよりスピードが出ている気がした。

忘れ物は意外とさりげないときに思い出す。

何が言いたいんだ。僕が図書室の本を返し忘れてたことをからかってるのか?違う。

それに、彼女をからかっているとき、心から笑ってなかった?彼女をからかってるとき、感じたあの不思議な感覚。その感覚を彼女は感じ取ってたのだろうか?彼女は僕と一緒?何が言いたいんだ。僕は漫画なんて好きじゃないし、描いたこともない。

走りながら頭の中で整理したが、やっぱり彼女の言いたいことがわからなかった。そして僕が彼女をからかってるとき生じたあの感覚もわからないままだ。僕の頭の中で何かがグルグル回っている。グルグルしたままグラウンドに向かい、みんなでサッカーをした。相変わらず僕はサッカーが下手くそだ。グルグルしてたぶん、いつも以上に下手くそな気がした。


 昼12時過ぎになり、お腹もすいたことだし、みんなで帰ることにした。家に帰ってからもずっと考え続けた。彼女の優しい声、優しい目、言葉すべてを思い出したとき、僕の彼女に対する不思議な感覚の正体がなんとなくわかった気がした。

     彼女はきっと僕に何かを伝えようとしている。必死に。

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