門出

「おかえりなさい」


 意識を取り戻した礼一に私は声をかけた。自分でも驚くほど優しい声が出た。どういう心境の変化だろうか。やはり、以前言われた『生きている人間の方が死んでいる人間より尊い』という言葉を思い出さされたのが原因かしら。ふと、高校の時にその言葉を私に言った男の意味深な笑みを思い出してしまった。湧き上がった忌々しい記憶に思わず膝の上で硬い握りこぶしを作った。


「あの……」


 突然黙りこくった私に礼一は気まずそうに様子を伺ってくる。そういえば彼の視点では、私がブチ切れて沈黙した直後に突然悟りを開いたかのような表情で思い耽っているのよね。

 私は小さく咳払いをした。


「まぁ、さっきはああ言ったけど、こうやってご飯を奢らせてしまったわけだし、私としても霊能力についてバラされるのも面倒だわ。約束通り高島宗介の霊は私が責任持って祓ってあげる」


 全くもって、素直になれない自分の性格に嫌気が差すが、こればかりはもうどうしようもない。礼一は間の抜けた表情で私を見返してくるが、彼の返事を待つことなく話を続ける。


「さて、話を戻しましょう。約束は守る、とはいえ山崎くんは用済みになった高島宗介を私に祓わせようとした。彼の魂を弄んだことに私は怒っている、ということに対して実際のところどう思っているのかしら?」


 自分でもなかなかに傲慢な質問だと思う。私はどういう答えを望んでこんなことをいったのだろうか。人様に自分の考えを押し付けたいわけではない、と思う。少なくとも謝罪を求めているわけではないのは分かる。

 冷静になって考えてみれば、私が霊を見ることができるできないに関わらず、礼一が私に怒られなければならない道理など微塵ないのだ。私は正義の代弁者などではないのだから。

 なぜ、自分がかくも傲慢な問いをしているのか。それは視えてはいけないものが視えるが故に、死者かれらを生きている人間と対等に扱いたいというエゴなのではないだろうか。

 私が思考の迷宮に突入している間、礼一もまた深く考え込んでいる。慎重に自らの答えを探しているみたいだった。


「僕は、確かに神薙さんの言うとおり高島さんの魂を弄んでしまったのかもしれない。それについてはとても反省している。でも、僕は取り憑いていたのは悪魔とかそういう類だと思っていた。決して人の魂を弄ぼうとしていたわけじゃない」


 礼一は今までのおどおどした雰囲気とは違って、私の目をしっかり見てそう答えた。私の自己満足で不当に追い詰めてしまった為に、彼がここで自分の芯を持って反論してくれたことで何か心につっかえていた杭が外れたような気がした。

 私は内心安心したと同時に、少しだけ罪悪感に見舞われた。


「そう……。私もさっきは少し言いすぎたわ。ところで、その反省の気持ちについて、罪滅ぼしできる機会がある、と言ったらどうしたい?」

「教えて欲しい」


 私は手に持っていた高島の卒論の草案を礼一に手渡した。


「それは、高島宗介が卒業論文よ。ただそれは草案、要するに書きかけなのよ。そして、彼がこの世に未練を遺して地縛霊となってしまった原因」

「つまり、僕にこれを完成させろ。そう言いたいの?」


 察しがよくて助かるわ。なんだかんだで頭の回転は速いのかしら。

 礼一の問いかけに私はコクリと頷いて肯定した。


「やるよ。高島さんの研究は僕が引き継ごうと思う。この大学生活を懸けて」

「そう言ってくれて嬉しいわ。ちなみに高島さんは山崎君がその論文を引き継いでくれることを条件に除霊されることを承諾したの」

「そうなんだ」


 先に言質を取ってから本当のことを言うとは、我ながら意地の悪い話の構成をしてしまったと少しだけ反省した。

 とはいえ、これで両者の合意は取れた。ならば後は穏便に除霊を行って高島宗介の魂を鎮め、黄泉国に送り届けるだけで良い。

 善は急げという諺もある。ここはそれに従うのが良いのでしょう。


「山崎君。あとで私の家に来て頂戴」

「えっ! 家に?」

「そう、私の実家は神社だからそこでお祓いをしましょう」

「あぁ⋯⋯そういうことか」


 突然慌てだしてどうしたのかしら。それに顔色も青くなったり赤くなったり、慌ただしいわね。カメレオンだってここまでコロコロ変わらないと思う。


「そうね、儀式は18時の黄昏時から始めようと思うから、余裕を持って十七時半に私の家に来て。シャワー浴びて清潔な服でね。住所は後で送るわ」

「うん、わかった」


 あ、そういえば。

 オープンテラスから立ち去ろうとする礼一を私は呼び止めた。何事か、と礼一は少し不安気な表情で振り返って身構える。いや、確かにさっきまでは刺のある言葉ばっかり吐いて、礼一の心にいろいろと突き刺してしまったけれど、そこまで畏れ慄かなくてもいいと思う。


「伊織の分の昼食、買っといてね。日替わり定食にケーキ」


 礼一は苦笑を漏らしながら学食のカウンターまで足を運んでいった。




 礼一は伊織の分のプレートを持ってきたらすぐにその場をあとにした。それからしばらくして講義の終えた伊織がオープンテラスにやってきたので、ことの顛末を彼女に伝えた。

 そうしたら「どうしてあたしに教えてくれなかったのよ!」とかなんとか色々拗ねられてしまった。どうしてと言われれば、『午前中に教授のところに突撃するけれど時間が余りそうだ。昨日と同じ時間までオープンテラスで待っているのは嫌だったし、早くご飯を食べたい。そうだ、礼一を呼び出す時間を変えちゃえばいいじゃない』という理由になる。

 いやいや、これでは待ち合わせ時間を変更した理由であって、伊織に伝えなかった理由にはなっていない。

 少女漫画の令嬢よろしく、「貴方は昨日の件でお疲れになっていたと思ったのよ。私はただ、貴方に休んでいて欲しかったの」なんて甘っとろいセリフを吐いた暁には、私はむず痒さからテラスから飛び降り自殺してもおかしくない。

 ならばいっそのこと、「いやはや、伊織にも送っていたと思ったのだけど、何かの手違いで送れてなかったみたいね。てへぺろ」というのはどうかしら。いや、いくらなんでもふざけすぎている。許してくれるかもしれないけれど、私のプライドが許さない。他にも色々とくだらない代案は浮かんでくるけど、これがどうして、なかなか妙案は浮かんでこない。

 『礼一にブチ切れてしまうであろう私の痴態を伊織に見られたくなかった』、という妙な自尊心が本当の理由なのだけど、なんか小っ恥ずかしいのよね。

 ええい、こうなったらシンプルイズベストよ! とばかりに私は理由を言わずに「ごめんなさい、伊織」とひたすら平謝りした。ちらっと伊織の顔を確認するけれど、未だにその表情は拗ねている。

 ぐぬぬ、なかなかの堅牢さね、心にもない謝罪だとバレているのかしら。

 私が次の手が浮かばずに口をパクパクさせていると、伊織はクスクスと笑い出した。


「あんたーっ! からかったわね!」

「ごめんごめん。慌ててる透子見てたら面白くなっちゃって」


 屈託のない伊織の笑顔を見ているうちに、自分が色々頭を巡らせていたことも、彼女にからかわれたことも、いまこの瞬間だけはどうでも良くなってしまった。


 礼一が高島の霊を使って替え玉受験していたことについては伊織も驚いたようだった。口外しないようにと念を押したら「もちろん」と言ってきた。伊織なら信用できる。

 食事を終えた私たちはその足で私の家に向かった。




 私の神社は大学から歩いて一時間、自転車では30分ほどの木々に覆われた小高い丘の上にある。境内に向かうには、公道から鳥居を潜って石段を登っていかなくてはならない。小学生の頃、この石段が何段あるのか数えたという思い出はあるけれど、肝心の何段だったかは覚えていない。ただ、百段単位であるのは間違えない。

 午後からは陽が出てきて少し暑くなっていたけれど、木々に覆われた石段は木漏れ日が差し込んできて、たまに木々を抜けるそよ風も相まって心地よい暖かさだった。

 私は毎日ここを登り降りしているから慣れているけれど、伊織には少し堪えたらしく登りきった時には肩で息をしていて額に汗を浮かべていた。

 石段を登りきると拓けた空間が目に入る。ここまで来ると都会の中心にあるにも関わらず街の騒音は聞こえてこない。目の前に朱色の鳥居、その中央を石畳が貫いて社まで繋がっている。社の前には当然、お賽銭箱が設置してある。その上で一対の狛犬が気持ちよさそうに昼寝をしていた。

 私は鳥居を潜る前に一礼してから石畳を進んでいく。伊織も私に習って一礼してから私についてきた。そのまま社には向かわずにその裏にある自宅へと入っていく。


「ただいまー」


 玄関には鍵がかかっていたので、家族はいま外出中のようだけど、私はいつもの習慣で帰宅の挨拶をしながら扉を開けた。


「お邪魔しまーす」

「あ、多分うちにいま誰もいないわよ。さ、上がって上がって」

 木造二階建ての日本建築。一世帯で住むには無駄に広くて掃除に手間取るけれど、縁側から拝める小さな日本庭園を私は気に入っていた。特に秋口は紅葉に覆われて風情がある。いつかここで月見酒を煽るのが私の高校のときからの密かな夢の一つだったりする。


「先にシャワー浴びる?」

「ううん、透子が先でいいよ」

「そう、じゃあ適当に寛いでいて」


 私は伊織を自室に案内して、麦茶と茶菓子を振舞ってから着替えを持ってバスルームへと向かった。

 冷水で自分の穢れを祓ったあと私は用意していた赤と白の巫女装束に着替える。大学に入学して以来初めて着るけれど思ったよりスムーズに着ることができた。

 実は霊を祓うだけなら大学でもできる。こういった儀礼的な要素は無駄が多く、儀式を完遂することのみを考えれば、かなり簡略化することができる。ただし、それは他人の家に土足で上がるようなものであまり印象がよろしくない。当然、神道かんながらのみちにも最低限のマナーというものは存在する。

 私が冷水で清めたり巫女服に着替えたりと、ここまで手順に則って、というか本気を出しているのは高島宗介の御霊の鎮魂も兼ねているからだ。


 私が自室に戻ると伊織は床にうつ伏せになって漫画を読んでいた。麦茶と茶菓子は少し減っていた。扉の開く音に気がついて私を見ると、伊織はにっこりと微笑んだ。


「おー、相変わらず似合ってるねー」

「やめてよ。私だって少し恥ずかしいんだから」


 顔が熱を帯びて赤くなっていくのが分かる。だいたい、伊織もこれから着るくせに何言ってるのよ。


「とにかく! 準備するから! 伊織もシャワー浴びてきて!」


 体を清めて巫女服に着替えた私たちは注連縄しめなわ三方さんぼう祓串はらえぐし、その他数点の神具を神社の倉庫から引っ張り出して社の裏、少し開けた屋外の地面に杭を刺したり注連縄で囲ったりしていく。山崎礼一から高島宗介の除霊を行って、その御霊を黄泉の国へと送り届けるための儀式場としての穢れ無き聖域を構築していく。外界から邪なものを完全に拒絶する、注連縄で囲われた空間が完成した。




 十七時半ちょうど、境内の鳥居で私たちが待っていると、礼一は石段を登ってその姿を現した。肩で息をしているところを見るに、走って登ってきたのかしら。多分五分前に到着するようにしたけれど、まさか境内まで数百段の石段を登らなければならないとは思ってなかったみたいね。事前に言っておけばよかったわ。


「いらっしゃい、山崎君。時間ぴったりよ」

「ギリギリになってごめん……って」


 礼一は私たちの姿を見るとその場で停止した。比喩表現ではなく停止した。呆けた顔で私たちをまじまじと見つめてくる。見られて減るものじゃないけれど、そんなに見つめないで欲しい。正直恥ずかしい。


「どう? 似合ってるでしょー」


 伊織はくるりと回って巫女服姿を見せつける。

 ショートボブというモダンな髪型と巫女服のギャップに魅力を感じる人がいるかもしれない。夕陽に染まる伊織の姿は可憐という言葉が似合っていた。


「でも、透子の方が似合ってるよね!」


 伊織はニヤニヤした表情で私と礼一の方を見てくる。


「あの、うん。すごく……あ、いや、似合ってるよ」

「そ、ありがと」


 ここで礼一が歯に衣着せる言葉を掛けようものなら石段から突き落としてやるところだったけれど、歯切れの悪い言い方もちょっと傷つくわ。私の隣でさっきから笑いを堪えている伊織はなんなのかしら。無性に腹の立ったので伊織の脇腹に祓串はらえぐしの柄の部分を叩き込んだ。


「さ、準備は整っているわ。付いてきて」




 注連縄で囲われた聖域の前に礼一を連れて行く。霊感のないものには分からないが、この空間は神聖な霊力によって微かに青白く輝いている。聖域の中央には簡易の神棚が設置されている。


「さて、ここはもう神前よ。神棚と目を合わせてはダメ。注連縄で囲われた聖域に入ったら、視線を下げて神棚の前まで歩いてそこで止まって。あとは私がいいと言うまで下手に動かないこと」

「うん、わかった」

「それじゃあ始めましょ」


 礼一は私に言われたとおりに視線を下げたまま儀式場へと入っていく。ゆっくりと砂利の上を歩いていき、神棚の前でその足を止めた。それと同時に私と伊織もまた聖域へと入っていく。私の手には祓串、伊織は手に御猪口おちょこを握り、私たちは礼一の後ろに立つ。私はサッサッと礼一の後ろで祓串を振り、口の中で小さく除霊の言霊を紡ぐ。礼一の身体から淡く光り、ゆっくりと半透明の男の像が浮かび上がる。幽体離脱の如く、礼一の身体から抜け出したそれは高島宗介の御霊だ。御霊はそのまま礼一の隣に動き、同様に神棚に向かって視線を下げたまま直立する。

 ザァ! っと一陣の風が吹き、木々が騒めく。木に止まっていた烏が飛び立ち、その鳴き声とともに夕焼けの向こうに消えていく。

 次いで私は伊織から御猪口を受け取った。注がれた日本酒を少しだけ口に含むと、礼一にの横に並んで神棚の前に立つ。深く二礼した後、手に握った祓串をサッサッと軽く左右に振る。ぼんやりと光っていた神棚が少しずつその光を強めていく。その光はますます大きくなっていき、眩しくて目を閉じそうになったとき、パリンと鏡の割れるような音が響き渡った。

 神棚から尋常ならざる気配を感じる。私は決して神棚と目を合わせることなく、深く一礼をした。


「あら、神薙かんなぎのところの透子じゃない。久しいわね」


 おっとりとした妙齢の女性の綺麗な声が響く。

 伊邪那美命イザナミノミコト。国産み、神産みの女神にして、黄泉国よもつくにを統べる主神。彼女の姿を生者は決して見てはいけない。かつて、イザナミの死を悲しんで、夫である伊邪那岐尊イザナギノミコトは黄泉国まで彼女を追いかけた。そこで妻を見つけるも、死して蛆に集られた自らの醜い姿を見られたことで怒り心頭になったイザナミは、夫であるイザナギをどこまでも追いかけたという神話が残っている。声こそ美しいイザナミだが、直視したら最後、確実に殺される。

 彼女にはこれから黄泉国までの扉を開けてもらう。


「この子を連れていけばいきたいのね。わかったわ。扉は開けておくわ。戸締りよろしくね」


 短くそう言い残すと神棚から発せられた彼女の気配は徐々に薄れ、消えていった。神棚の前の空間がゆらゆらと揺れている。黄泉国までの扉は開かれた。


「ふぅ……高島さん。貴方の目の前にあの歪み、これが黄泉の国への扉よ。ここを通れば、貴方は無事、向こうへ行けるわ」

「そうかい、この先が……」


 その声が少し震えているのには私でも気がつくことができた。


「安心して、向こうは悪い場所じゃないわ。さっきの声は伊邪那美命イザナミノミコトと言って黄泉の国の神様よ。優しい方だから」


 ヤンデレだけど、と心の中で付け足しておく。


「そうだな。迷惑かけたね、神薙透子さん」

「いえ」


 高島は意を決したよう表情を強ばらせながら、その歪みへとゆっくり進んでいく。


「あの、高島さん……」


 その時、礼一が消え入る声を発した。高島は足を止める。

 まさか、彼には高島宗介の声が聞こえているの? いや、私が話しているから高島がこの場にいると判断したのね。


「……なんだい」


 礼一に届くわけでもないだろうに、高島は優しい声で答えた。


「……ありがとうございました」


 高島は目を一瞬見開いて礼一の方に振り返ろうとした。だが、彼は礼一を見ることなく、そのまま黄泉国への扉に足を進めていった。

 薄れていく高島の姿と気配。それに反比例するように礼一の嗚咽の声が大きくなる。


「じゃあな礼一。後は頼んだぜ」


 この世から消えるその直前、高島宗介はおそらく笑いながら礼一にその言葉を遺して、黄泉国へと旅立っていった。

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