待ち人来たりぬ

 翌日、午前中にあったはずの必修講義をすっぽかした私は、昼前にいつものオープンテラスの一角に腰を下ろしていた。今日は風が強くて少し肌寒い。強風によって桜の花びらがキャンパスに舞う。待ち合わせは屋内にすればよかったかしら。

 私はスプリングコートの襟元を手繰り寄せて、体を身震いさせながら山崎礼一を待っていた。


「お待たせしました」


 待ち人来りぬ。

 十一時五十五分。礼一は昨日よりもおよそ一時間ほど早い時間にオープンテラスへ足を運んできた。五分前に到着するのは殊勝な心がけだと思う。待ち合わせ時間は昨日のうちにメッセージを送って変えておいた。伊織には伝えていない。彼女は今頃、必修講義のある大講堂の一番後ろの席で惰眠を貪っていることでしょう。

 彼女をこの場に呼ばなかった理由は、昨日は少し働かせすぎたというのもあるけれど、これから私が見せるであろう痴態を彼女に見られたくなかったのが本当のところだ。

 礼一は持っていたプレートを私の前に置く。鯖の味噌煮定食とデザートのケーキ、締めて九八〇円也。これも昨日のうちに奢らせるメニューを送っておいた。礼一の表情は相変わらず曇っている。昨日よりもげんなりしているのは私の気のせいではないと思う。

 礼一は黒いスプリングコートを身にまとっている。腕からは昨日とは違うこれまたブランド物の腕時計が顔を覗かせている。


「遅かったわね。もう私、お腹ペコペコよ」


 柄にもなく嫌味を吐いてしまった自分に内心少しだけ驚いた。思った以上に私はイライラしているみたいね。一応断っておくけれど、決してお腹が空いているだけでイライラしているわけではない。

 私は礼一に正面の椅子に座るように促した。一対一の構図だ。図らずもまるで礼一がこれから懺悔をするかのような形になってしまったけれど他意はない。私はプレートに並べられた定食に手を付けることなく、姿勢を正して礼一の目を見た。


「さてと、食べる前に例の話の続きをしちゃいましょう」

「はい」

「結論から言えば、山崎君に取り憑いている霊の正体がわかったわ。それと、どうして山崎君に取り付いてしまったのかも。全て」


 目に見えて礼一の顔が青ざめていく。顔を俯けて微かにその身体を震わせている。その表情からは恐怖や焦燥といった感情が読み取れた。動揺する礼一を無視して私は自分のペースで話を続ける。


「まず、あなたに取り憑いている霊の名前は高島宗介さん。この大学の理工学部四年生だったけれど、二年前の秋に交通事故で亡くなったわ。高島さんはあなたの身体を乗っ取ろうとしているけれど、あなたに対して害意は持っていない」


 礼一は何も言わずに私の話を聞いている。少しだけその表情が弛緩する。害意がないことを知って少し安心したみたい。よっぽど怖かったみたいね。考えてみれば、意識を乗っ取られるなんて経験、怖かったに決まっているわよね。例えそれが本人の望んだ結果でも。

 ま、本題はここからなんだけど。

 私は小さく息を吐き出しながら、自分がこれから言うべき話しの流れを再確認した。


「山崎君。あなたは意識を失うようになったのは入学してから、と言ったわね」

「はい……」

「それは嘘。あなたが高島宗介に憑依されたのは去年の夏頃、具体的にはこの大学のオープンキャンパスがあった時期のはずよ」

「ち、違います!」


 礼一は顔を上げて必死に否定する。先ほどまで礼一の顔は真っ青だったけれど、今度は興奮気味に顔を紅潮させている。その必死さが逆に私の推理を肯定してしまっている。

 できれば外れて欲しかった。

 私はため息を漏らしそうになったのをどうにか堪える。


「高校三年の時、あなたは受験勉強が捗らずに躓きかけた。弓道のインターハイの準優勝するんだもの。相当部活に傾注していたんじゃないかしら? だけど、大学受験に失敗するわけにはいかなかった。きっと親御さんからのプレッシャーも相当だったはずよね」

「違う! 違うんだ!」


 礼一が最初に私に見せたあの優雅なお辞儀、身につけていたブランド物の衣服や腕時計。そして名門私立高校に通っていたという経歴。礼一がいいところのお坊ちゃんであることは明白だった。彼に対する親からの「期待」も彼の家柄に応じて相当大きかったのは想像に難くない。そういった重圧に耐えられなかったのかもしれないわね。


「追い込まれていたあなたはオープンキャンパスの日に、高島宗介の霊と出会った。そして自ら望んで彼の霊を受け入れた」


 私の詰問にもはや礼一は泣きそうになっていた。もはや否定する気力すら残っていないようね。その姿に心が痛むけれど、ここでやめるわけにはいかない。心を鬼にして彼に言葉を畳み掛ける。礼一には自らの罪の重さを自覚してもらわなければならないのだから。





 礼一は糸の切れた人形のように力なく椅子の背に体重を預けた。沈黙がオープンテラスの一角を支配する。生暖かい風とともに木々が騒めく。その重々しい雰囲気に木霊たちが近づいてくることはない。

 しばしの沈黙の後、礼一はポツリポツリと口を開いた。


「……そうだよ。神薙さんの言うとおりだ。僕は、僕はあの受験を僕に取り憑いた霊で受けた」


 礼一は涙を流しながら私に向かって懺悔する。ぽたぽたと涙の雫が礼一の膝に落ちた。罪の意識はあるようだけど、残念ながら私は牧師でも神父でもシスターでもない。私はただの巫女で、礼一の罪を浄化することはできない。


「私はね、あなたが替え玉受験をしたことについてどうこう言うつもりはないわ。仮にこのことを告発したとしても、頭のおかしい人だと思われるだけだもの」


 礼一が替え玉受験を行ったことについてどう考えているのかと聞かれれば、「なんとも思っていない」と私は答えるだろう。昨日の今日で知り合った人にあれこれ言えるほど、自分のことを崇高な人間だと過大評価しているわけではないからだ。

 彼の環境を考えれば共感こそしないけれど同情くらいはするし、全く同じ立場だったときにその選択肢に絶対に手を出さないかと言われれば即答は難しい。

 私の言葉が意外だったのか、礼一は呆けた表情をしながら涙で赤く晴れ上がった目で私を見る。だけど、未だに私が怒り心頭なのに気がつくと、すぐに身体を縮こまらせた。どうやら私の怒りの本質を理解していないみたいね。いや、理解できる人の方が少ないのは自覚している。私のはらわたが煮えくり返っている理由を理解できるのは、多分同じように霊を見聞きすることのできる人間だけなんだと思う。それを理解しろと押し付けるのは私のエゴに過ぎない。

 私はできるだけ声を荒げないように、できるだけ低い声で礼一に怒りをぶつけた。


「私が本当に頭にきているのはね、高島宗介のおかげであんたは大学に入ることができたのに、用が済んだら私に祓わせようとしたところなのよ!」


 怒気を孕んだ私の声に礼一は身体を強張らせ、ゆっくりと頭を垂らした。並木を抜ける風と共に沈黙が流れる。彼が次、何かを言うまで私は黙っていることを決めていた。きっと憑依されてからのことをいろいろ考えているでしょう。

 たっぷり三十秒の沈黙の後、礼一は小さな声で謝った。その謝罪は私に向けられたものじゃないのはなんとなく察しがついた。ただ高島宗介にその言葉が直接届くことはない。

 幽霊だからといってないがしろにしていいわけがない。彼らだって笑ったり怒ったり悲しんだりする感情が、一人ひとりに人格がある。霊が視えてしまう私は、いつからかそんな彼らを普通の人間と同じように接するようになってしまった。だから、私は礼一が高島の魂を利用しただけ利用して捨てるような、結果だけ見れば高島の魂を弄んだ行為が許せなかった。


 頭を垂らす礼一から得体の知れない雰囲気が溢れてくる。昨日と同じ、憑き霊が顕現する前兆ね。ゆっくりと礼一は頭をあげる。涙を浮かべているがその雰囲気は明らかに礼一とは違う。


「こんにちは、高島宗介さん」

「ありゃ、昨日の今日でよく突き止めたね」


 高島は大して驚いた様子もなく口角を少しだけあげた。高島はポケットからハンカチを取り出して涙を拭く。自分の宿主である礼一がどうして涙を流していることに気がついたのかしら、全てを悟ったような表情でどこか寂しげに遠くの校舎を眺める。あそこは、確か理工学部の研究棟だったかしら。


「タバコ吸いたい」

「ここは禁煙よ。そもそも貴方の身体は未成年」

「あぁ、そうだったな」


 どこか寂しそうにヘラヘラと高島は笑いながら軽口を楽しんでいる。というか貴方、喫煙者だったのね。


「さてと、どこまで話したんだ?」

「全てよ。山崎礼一が自ら望んで貴方を受け入れたこと。貴方の人格で大学を受験したこと。そして、用済みになった貴方を私に祓わせようとしたこと」

「そうか、全部筒抜けか」


 高島は少しバツの悪そうな顔をした。


「あんまりこいつをイジめないでやってくれ」

「私は別にイジめているわけではないわ。彼は貴方の魂を弄んだ。その清算をこれからさせるつもりよ」

「なんだ? 小指でも詰めさせるのか?」

「昨日から思っていたのだけど、どうして貴方はそう物騒なことばっかり思いつくのかしら」

「さてね。なんでだと思う?」


 私は苦笑を漏らしながら、バッグの中に手を伸ばす。そして、一束の分厚いレポートを取り出して高島に手渡した。高島はそのレポートの表題を見ると、一瞬だけ目を大きくしたが、その表情は優しいものだった。


「これは、懐かしいな」

「午前中、貴方の担当教授のところに行ってきたわ。ベタ褒めだったわよ」


 それは、高島宗介が生前に執筆していた卒業論文の草案だった。


「そりゃそうだ」


 高島は誇らしげな表情でどこか懐かしそうに論文を数ページ捲ってから私に返した。

 私は今日の午前中に高島の担当教授の講義が終わるのを見計らって接触を試みた。当初は訝しげな顔をされたが、高島宗介の名前を出すとコロッと態度を変えた。昔に世話になっていた話を適当にでっちあげ、どうにか研究室に遺されていた論文の草案を入手することができた。


「正直、未完成品を他人に見られるのは死ぬほど……ってもう死んでるんだけど、相当恥ずかしいんだよね。どういう意図でこれを?」

「まず一つ確認させて。この論文が貴方の未練で間違えないかしら?」


 高島は小さく頷いた。

 私は内心ホッとした。高島が昨日発した「卒業まで待ってほしい」という一言から導き出した仮説。最初は単なる軽口かと思ったけれど、そこには彼の本心があったのではないか。高島は山崎礼一として一生を終えたいのではなく、自分が書き上げることのできなかった卒業論文に未練があったのではないか。

 決定的な証拠としては不十分だった。けれども、彼との会話で感じていた邪ならざるこの世への執着心、そして地縛霊としてわざわざ大学に残り続けたことなどの断片的な事実を集めていった結果の結論だった。もし、この前提が違っていれば私の計画は全て崩壊していたけれど、なんとかその賭けに勝つことができた。

 あとは高島を説得するだけだ。


「貴方には……その未練を預けてほしい」

「詳しく聞こうか」


 大丈夫。筋は通っている。あとは気後れせずに最後まで貫き通すだけよ。

 私は論文を高島に突き付けながら彼の目を見て口を開いた。


「山崎礼一に貴方の論文を仕上げさせる」

「こいつに俺の論文を盗作させる、と言っているのかい?」

「貴方の研究を引き継ぐのよ」

「言葉の綾だな」

「違うわ」


 私は高島の反論をピシャリと否定した。その否定は彼も想定していなかったようで言葉を詰まらせたように見える。

 いや、確かに彼の言う通り言葉の綾であるのかもしれない。けれども、それ以上に高島が礼一の身体に憑りつき続けることが、両者にとって不幸な結末にしかならないという確信があった。

 礼一は高島が引き起こした霊障によって精神的にかなり衰弱している。すでに憑依している霊が大学の地縛霊であることを伝えてしまったことから、そう遠くない未来に礼一は大学に来なくなることは想像に難くなかった。そうすれば、高島が礼一の身体を乗っ取る機会は失われ、彼の悲願が達成されることもなくなる。両者に訪れるであろう不幸な結末を回避する為に、私は昨晩かなり考えた。


「山崎君は貴方の意思を受け継ぐ義務がある。山崎礼一が貴方の力を借りたのならば、彼には借りを返す義務がある」

「君は傲慢だ」


 突然、高島の声が冷たいトーンになった。さきほどまでの飄々とした雰囲気ではなく、冷たく低く、相手を自分の話に引き入れるかのような落ち着いた雰囲気で。

 その差に私は動揺をとてもではないが隠せなかった。


「俺たちと君との間には決定的な認識の違いがある」


 高島は座った目でまっすぐに私を見る。

 それはある種の怒りに似た感情なのかもしれない。恐らくであるが、高島宗介はいま私に対して怒っている。けれども、感情を荒ぶらせることなく、淡々と粛々に彼は言葉を紡ぎだした。


「そもそも俺はこいつが俺の魂を弄んだなんて思っちゃいない」

「なっ、山崎君は貴方の魂を利用して――」

「利用したのなら俺も同じだ。こいつの身体を利用しようとした」


 反論を出せない。口が開かない。彼を説得しようと組み上げていたロジックは、放たれたその言葉によって根底から崩されかけているのだと感じた。


「若干、相互の認識に瑕疵というか誤謬というか、まぁ平たく言ってしまえばズレがあったみたいだが、概ねWin-Winの関係になるはずだった。俺は身体を手に入れ、こいつは志望大学に無事受かって卒業する」

「……Win-Winだなんて、それは詭弁よ」

「そう、詭弁だ。ではLoserはどっちだ? 俺か? それともこいつか? 客観的にみればすぐにわかる。どっちが加害者でどっちが被害者なのかなんてことは」


 私は即答できなかった。そして、即答できなかったということこそが主観的ではなく客観的に判断した私の答えなのだと自覚してしまった。


「たとえ貴方が加害者であったとしても、私は貴方を救いたい」

「なぜ?」

「貴方たちの出会いが偶然であったとしても、双方が合意の上だったとしても、山崎礼一が貴方の力を借りたのならば、彼には借りを返す義務がある」


 高島は深く息を吐きだした。


「別に俺は君の人生哲学にケチをつける気はないけどね、生きている人間の方が死んだ人間よりも尊いんだよ」

「……昔、同じことを言われたことがあるわ」


 私はいま、どんな表情をしているのかしら。多分、とても情けない表情をしていると思う。

 私の表情をずっと伺っていた高島は小さく口の中で笑うと、数秒間目を閉じた。


「全くもって、人間というのは死んでもなお欲にまみれた面倒極まりない生き物みたいだ」


 高島は自嘲気味に笑いながら、遠くの建物に視線を向ける。あっちは確か、理工学部の研究棟だったかしら。


「いいよ、気が変わった。山崎礼一に俺の論文を引き継がせる。それを条件に僕は山崎礼一から消えよう」


 高島の意外な言葉に私はポカンと間抜けな表情をしてしまっていることだろう。


「いいの?」

「あぁ。完成した論文を見ることができないのは残念だけど、合作としてこの世に出ていくというのも悪くない。あれが研究室でずっと腐っているのも耐えられないしな」


 どこまでが彼の本心なのかはわからないけれど、何かを決心していたことは感じ取れた。

 だから私は意を決して高島に宣言した。


「しっかりと決着つけさせるから安心しなさい」

「そうか、期待せずに待ってるさ」


 高島は相も変わらずヘラヘラと笑いながら、その意識を再び沈めていった。

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