須貝明輝(4)

「この指使い、兄貴の癖だったんだ」

 ミュージシャンの左手の中指が伸びて、弦に触れた。

「ふつうは薬指で押さえるところなんだろうけどね」

 そうなんですか、と明輝は応じた。楽器の経験がまるでないので、そう説明されてもよく分からない。

「やっぱ、直したほうがいいんだとは思うけど」

「慣れてるほうが弾きやすい?」

「いや。セオリー通りのほうが楽と言ったら楽だよ」

 言いながら、じゃらん、と音を奏でた。

「だけどさ、こういう変な弾き方してたのは、たぶん兄貴だけだったんだよ。俺がやめたら、この形が消えちゃうかもしれないなって思って、続けてるんだ」

 わざわざやりにくい型を残すことに、どういう意味があるのかと考えれば、おそらくなにもないのだろう。ただ、兄の音楽を伝承しようという、彼なりの想いに違いないのだと、明輝は思った。

「だったらほかの人たちに教えたらいいんじゃないですか。あんがい流行るかも」

 まさか、とミュージシャンは笑って、

「こんなの教えたら怒られるよ。おまえのせいで悪い癖がついたってね」

 そうかもしれないですね、と明輝。ミュージシャンのわりに、表に出たがらない人なのだ。こんな誰もいないような森のなかで歌うばかり。もっとふさわしい場所がいくらだってあるはずではないか。

「そういえばその猫、飼ってるんですか」

 ミュージシャンの足元で丸くなっている黒猫を指さして、明輝は訊いた。自分がかつて首輪を外してやった猫だと確信していた。

「いや。なんだか知らないけど懐いちゃったみたいでね。たまに俺のところに来るんだよ。なんでなんだろ」

「運命じゃないですか」

 真顔で言ってしまってから、明輝は気恥ずかしくなって俯いた。運命ときた。今どきそんなものを誰が信じるだろう、と思われたのではないか。

「運命か。そうなのかも」

 ミュージシャンがそう応じたので、明輝は驚いて顔を上げた。

「兄貴はよく言ってたんだ。神さまがいるかとか、運命があるかとか、そんなのは人間には分かりっこないんだ。だったら信じたいように信じたっていいだろって」

「じゃあ、その猫が懐いてるのも、俺がこうやってここに来たのも、運命ってことになるんでしょうかね」

「そうなのかもしれないし、ただの偶然かもしれない。でも兄貴なら、天からの贈り物って言うんだろうな」

 だけどさ、とミュージシャンの声が低くなる。

「兄貴、このあいだ死んじまったんだよ。事故だった。それも運命だったって、受け入れられるのかな。あんなに才能があって、これからってときだったのに。あれじゃ浮かばれないんじゃないかって、やっぱりそう思っちゃうんだよな」

「……そうだったんですか」

「兄貴が死んだとき、俺は兄貴の代理としてライヴやってたんだ。ステージに立ったのはあれが初めてでさ。正直、緊張したけど楽しかったんだ。みんなの目に映ってたのは俺じゃなくて兄貴だったんだろうけど、でも楽しかった。兄貴がいつもいつも『おまえも出てみろよ』って言ってた気持ちが、ちょっと分かったような気がしたんだよ。でも兄貴は死んだ」

 ミュージシャンは言葉を切り、ため息をついた。

「どうしたらいいのか分かんなくなってさ。偽物としてライヴやって、ファンを騙して、その間に本物が死んだんだ。みんな怒るだろ。冗談じゃねえって」

「……でもそれは、あなたの所為じゃないでしょう。お兄さんの大好きだった音楽がなくなっちゃうほうが、音楽が大好きだった弟がいなくなっちゃうほうが、お兄さんは悲しむんじゃないですか」

 事情もよく分からないのに、と思いながらも、明輝は声を上げずにはいられなかった。するとミュージシャンは小さく笑って、

「俺も、そう信じていいのかな?」

「いいに決まってるじゃないですか。俺はそう思います」

 そうだなあ、と彼は呟いて、

「……兄貴が言ってた。自分はせいぜいあと何十年かで死ぬけど、俺の作品は誰かのなかに生き続けるかもしれない、俺のことなんか忘れられても、俺の作ったものが誰かのなかに宿っていてほしいって。兄貴の音楽を、いちばん忘れないでいてやれるのは、俺だ」

 そうですよ、と明輝は強く頷き、黒猫をまた示して、

「俺はこういう風に信じることにします。その黒猫は、俺たちを引き合わせてくれた黒猫は、お兄さんの使いなんだって。そいつの導きに従えば、なんかの奇蹟が起きるんだって。だから、お願いがあります。聞いてくれますか」

「なに?」

 明輝は、深く息を吸った。

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