佐倉秀平(4)

 どこに行ったんだろう、あいつは。秀平は歩き疲れ、立ち止まってため息をついた。朝っぱらからずっと探しているのに、どうにも見つからない。

 猫が人気だと言われて真に受けた。もう一度撮ってやろうと思い、意気揚々と出てきたはいいものの、肝心の黒猫がどこにもいないのだ。

 この辺りを根城にしている野良だろう、と秀平は当たりをつけていた。首輪はしていないが、人にはそこそこ慣れている。近所の誰かが餌付けしているのかもしれない。

 あいつが人気者になるとは、世の中分からないものだ。俺の腕だ、と少し気取りたくもなったが、結局のところは運だろう。どれほど美しくても、どれほど愉快でも、誰にも注目されないまま消えて行ってしまう者はいくらでもいる。一方で、どうしても隠したかった汚点が世界中に曝露されてしまうこともある。そういうものだ。

 かまってほしいときは見向きもしてくれず、放っておいてほしいときに限ってしつこい。世間の視線というのはいつだって理不尽だ。誰か個人が、ではない。おまえたち皆――世界が自分にそそぐ眼差し、それ自体のことだ。

 振り回されて、調子に乗って、疲弊して、閉じこもりたくなって、それでも淋しくて、勇気をもって這い出してみる。自分を持ち上げていたものも好奇の目を注いでいたものも、しばらくすれば何事もなかったかのように歩み去っている。また別の誰かが入れ替わりやってきて、自分をじろじろ眺めたり無視したりする。

 しかし、そんななかでも、いつまでもこっちを見ている物好きや、さっと過ぎ去っただけのくせに強烈な視線を残していくやつが、たまにいる。その出会いを喜ぶべきか悲しむべきか、秀平にはよく分からないのだった。

 ――分からないなら、信じたっていいじゃないですか。気持ちの問題ですよ。

牧島はこの言葉を受け取ったのだ、本当にたまたますれ違っただけの芸術家から。

 秀平は顔を上げた。流れてくる風が心地よい。

 まあ、猫は猫らしく、そのうちひょっこり現れるだろう。秀平は探索を切り上げ、自室へ帰ることにした。道端の自動販売機で緑茶を買い、喉を潤す。細い路地をぶらぶら歩いて、アパートへ戻った。

 部屋着に着替えて、秀平はノートパソコンを立ち上げた。牧島が管理している掲示板にアクセスし、やり取りを真面目に読んでみた。

 よくやっている、と秀平は感心した。意外に人の気持ちがよく分かる男なのだ。こういう仕事のほうが、実は向いているのかもしれない。

 しばらく読み続けて、秀平は手を止めた。目に飛び込んできた投稿のタイトルは、「偽物のミュージシャン」。

 はっとして、二度通読する。内容はこうだ。匿名の投稿者が偶然あるミュージシャンに出会う。そのミュージシャンは凄腕であるにもかかわらず、人気のない森のなかでひとり演奏するばかりで、ステージに立とうとしない。理由は「自分は嘘っぱちの偽物だから」……。

 ポケットに手を突っ込んで携帯電話を出す。牧島に架けた。しばらく呼び出し音が続いたが、やがて「はい」と返事があった。

「おまえ、掲示板を見たか」

「ああ、今日は見てないです。というか今、電話で起こされた感じで」

「そうか。早く見てみろ。それと、うっかり訊くのを忘れてたんだが、教えてほしいことがあったんだ」

「なんでしょう」

「おまえが会った例の芸術家、名前はなんていうんだ?」

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