新堂雪歩(3)

 この階段を下りていくのは二回目だ、と雪歩は思った。自分を包み込むような闇に、胸がどきどきさせられる。初めてのときと、似たようで違う感情。

 あらかじめ、このライヴハウスの日程は調べてあった。ライヴの出演予定者のなかに、トーマの名前はなかった。ブログも更新されないままだった。それでも、自分はここに来ずにはいられなかったのだ。いる、きっと出てくれる、と信じ続けて、ついには足が勝手に動いてしまったのだった。

 わたしのことなんて忘れてもいい。でも音楽だけはやめてほしくない。雪歩の胸中にあったのは、その思いだけだった。

 もし彼がまたステージに立ってくれたなら、自分はただ精一杯の拍手を送りたい。あのときは本当にたまたま、一瞬道が交差しただけのこと。トーマは向こう側の住人で、自分はこちら側にいる、そういう元通りの世界に戻ってほしい。声が届かなくても、こちらを見てくれなくても、なんなら地球の裏側ででも、彼が歌ってくれたならいい。ただ、トーマが音楽を続けていることだけを確かめたかった。

 入り口でスタッフらしき人に紙切れを渡された。前回もこうだったかと思い出そうとしたが、なんら記憶がない。やむなく会場の後ろ側にいた別のスタッフのところへ行って問うと、ドリンクの引換券だと言われた。まごまごしている間に紙コップが突き出された。受け取って一口つけてみる。正体がよく分からない。

 もしかしてお酒だろうか、と気がついたときには、すでに一つ目のバンドが出てきて演奏を始めるところだった。各楽器が競い合っているかのように音が大きい。ヴォーカルの歌声も荒々しいが、勢いがあって悪くない。

 最初から最後までいるつもりだった。違う名義で参加している可能性だってなくはない。あるいはサプライズゲスト。どんな形だっていいのだ、音楽でさえあれば。

 一組二組と演奏が続く。調べてあったスケジュール通りである。目を皿のようにしてステージの端から端まで見つめ続けてきたが、やはり彼の姿はなかった。

 轟音のなかに立ち尽くしながら、雪歩はため息をついた。

「ありがとう」と、去り際に彼は言った。それは「いつも応援ありがとう、これからもよろしく」という意味だったのだと信じようとしてきた。

 なのに、彼はいない。

「俺はトーマじゃない」という言葉がまた甦る。でもあなたは、あのときわたしの前で歌っていた。あれが偽者だったなんてことが、果たしてありえるのだろうか?

 ありえない。あれはトーマだ。雪歩はまたステージを凝視する。

 とうとう最後のバンドの番になった。そこにも、トーマはいなかった。

 ……どうして、と雪歩はうつむいた。すべての演奏が終わっても、雪歩はその場を去る気になれなかった。ぱらぱらと客が出て行く流れに逆らって突っ立っていた。舞台の影から、トーマがひょっこり飛び出してくるのではないかと思った。いつまでそうしていたか、雪歩には分からなかった。

「あの、きみ」

 声をかけられ、はっとした。振り返ると、立っていたのは四人の男たちだった。最後に演奏したバンドのメンバーだった。

「誰か探してるの」

 連れ合いとはぐれたと思われたのだろう。しかし、問いかけ自体は間違っていない。確かに雪歩は人を探していたのだから。

「……もしかして、トーマのファン?」

 驚きのあまりなにも言えなかった。まさに自分の求めていたその名前を、どうして彼らが? 雪歩がただ唖然としているのを、彼らは肯定と受け取ったらしく、ひとりがこう続けた。

「まだ知らなかったのかな。トーマなら、もう出ないよ。この間、死んじまったから」

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