新堂雪歩(2)
「なんかそれってさあ、すごいじゃん。ドラマが始まりそうっていうか。夢物語っていうか」
「ほんとに夢だったんじゃないの?」
亜希奈と夏実が口々に言って、お菓子をぱくつく。ちょっと聞いてもらいたい話がある、と彼女たちに相談したところ、この店を指定された。なにやら人気のある店らしいが、雪歩には味の違いがよく分からない。ただ落ち着かないなと思う。俯いて、ストローでアイスコーヒーを飲んだ。
友人たちがけらけらと笑うのを眺めながら、やはりあれは夢だったのではないかと、雪歩は思いはじめていた。オーディオやディスプレイの向こう側、自分の記憶のなかに棲んでいたトーマ――音楽という魔法によってのみ姿を現しうる幻と、薄汚れた道端に倒れ伏していた青年、その肉声や、仕種や、なにより酔っ払った男たちと取っ組み合っていた光景、それら生々しい事実の一切とを結びつける術を、雪歩は持たなかった。両方とも、自分とは遠く離れた非現実として認識されつつある。もうしばらくすれば、それぞれが頭の別々の箇所にしまい込まれて、完全に繋がりが絶たれてしまうだろうという気がした。
「でもそのロックの人、なんで喧嘩してたんだろ」
「むかついた、理由なんかねえ、とか。ロックっぽいじゃん」
そういった性急さは、彼には似つかわしくない。自分ごときがトーマのなにを知っているわけでもないのに、雪歩はそう確信していた。
「でさあ、その人どんなの? かっこいい?」
さっそく話が横滑りしはじめた。こうなってしまうと修正はまず不可能だ、と雪歩は経験から知っていた。格好いいと思うかと問われれば、答えは迷いなくイエスなのだが、それが彼女たちの感じる格好良さと合致しているのか、雪歩には判断がつかない。そこでやむなく、
「女性ファンとかは、わりと多いみたい。あんまり有名じゃないけど」
「ほう。で、雪歩はなんでその人に目を付けたわけ?」
興味津々といった様子で亜希奈が訊いてくる。少し悩むふりをしてから、説明するのは難しいなあ、と雪歩は答えた。うまく言語化する自信も、感覚を理解してもらう自信も、まるでなかったからだ。
それだけで、まあそんなもんだよね、と友人たちは頷いた。納得したらしい。あえて否定せず、雪歩も調子を合わせた。
「画像かなんかないの? 顔見てみたい」
あ、わたしも、と二人して盛り上がりはじめたが、雪歩はかぶりを振った。音源を所有することにしか関心がないのだと告げた。
「残念。曲は?」
あるよ、と答えて鞄からデジタルオーディオプレイヤーを取り出し、イヤホンを渡した。二人が片方ずつ嵌めたのを確認して、再生する。
何度となく聴いた曲だから、脳内でほぼ完璧に再現できる。イントロを経て、歌声が入り……亜希奈と夏実が曲のどこにどう反応しているのかが、観察している雪歩にはよく分かった。
やがて三分ほどの曲が終わった。二人がイヤホンを外しながら、
「……へえ。思ったよりあれだ、アーティスティック」
「もっと、ロックだぜカモンって感じなのかと思ってた」
どうやら自分と似たような感想を抱いたらしい。雪歩はプレイヤーをしまって、
「だから、あんまり似合わないと思うんだよね、喧嘩とか」
ふうん、といったんは引いたあと、亜希奈が「いや、でも」とまた身を乗り出す。
「分かんないよ、そういうのって見た目にはよらないし。穏やかそうな人でも、内心はめちゃくちゃ凶悪ってこともありえるでしょ」
「ありえないことはないだろうけど、でも違うと思う」
半ば意地になって否定したのは、脳裡に焼きついている音楽の幻を壊したくなかったからだろう。しかし仮に、あのときの青年が亜希奈の言うとおりの人間だったとしても、自分のなかにいるトーマが揺らぐことはなかろうとも、雪歩は考えた。音楽は音楽で、人は人、と常に割り切ってしまうのが自分である。親しい相手であろうともお世辞を言うのは苦痛だし、また死刑囚が独房の壁に描いた絵が見事だったなら素直に感動してしまうだろうとも思う。昔からそういう質なのだ。
だとすればあの青年に対して自分が抱いている感情の正体はなんなのか、雪歩にはよく分からなかった。
嘘っぱちの偽物だ、という彼の言葉を思い出す。トーマという存在が、音楽を奏でるときにのみ現れる幻であるという意味ならば、それは事実だろう。しかし、彼ははっきりと言ったのだ。「俺はトーマじゃない」と。
「じゃああなたは誰なんですか」と問うことはできなかった。雪歩にとって、あの日ステージで歌っていた青年はトーマだった、間違いなく。
けっきょくなんの答えも出せないまま、雪歩は友人たちと別れて帰路についた。「なにか進展があったら教えてね」としつこく言われたが、進展はおろか、もう二度と彼に会えないような気さえしていた。
「俺はトーマじゃない」。あれは永遠の別れを意味していたのではないか。トーマではないから音楽をやめる――そういう意思表明ではなかっただろうか。突如として去来した思いを、雪歩は捨て去ることができなかった。
部屋に帰ってから、もう一度トーマのライヴ映像を観た。数日前の体験と重ね合わせようとしたが、どうにも上手くいかない。画面越しに眺めるのと直に触れ合うのとでは大きな隔たりもあろうし、肝心の記憶そのものがふわふわと夢のようで捉えどころがない。音源と声を比べようと思いついたけれど、これもすぐさま失敗に終わった。録音された歌声と、殴られた直後に発されたかすれ声とでは、むろん比較になどならなかった。
あのあと、「じゃあ、ありがとう」と遠ざかっていった青年を、雪歩は黙って見送ったのだった。引き止める術などあろうはずがなかった。
彼はもう、自分のことなどすっかり忘れていることだろう。しょせん、ステージの上から誰某がこっちを見ていた、目があった、と騒ぐ程度の勘違いでしかなかったのだと、雪歩は思い込もうとした。
無意識に、トーマのブログを開いていた。更新は、あの日の前日――「明日はライヴ」という記事を最後に絶えていた。
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