須貝明輝(1)
空気が悪くて息苦しいから窓を閉め切ることにした。外界は風が強いし、寒いし、なにより辛辣で、ひとことで言うなら「生きづらい」。
外に出られないわけではなく単に出たくないのだ。だというのに、おまえの気持ちなど知ったことではないと言わんばかりに、世間は自分を引っ張り出そうと画策してくる。それでいて自分という個人を認めも好みもしてくれない。ただ「引っ込んでいるのは悪いことだ」という価値観を押し付けてくるにすぎないのだ。
あーあ、と須貝明輝は息を吐いた。自室のドアをしっかり施錠したことを確認してから、ベッドに寝転がる。
外出すると本当に疲れる、と明輝は思う。身体の末端まで疲労が染み込んでいるようだった。できることなら、なるべく表には行きたくないし他人とも関わりたくない。
しかし社会から脱落して親に泣かれるのはまっぴらだから、やることだけはやろうと決めていた。実際にやってきた。学校にだってちゃんと通っているし、試験勉強もするし、そこそこの成績を修めてきたつもりだ。
友達に声をかけられれば応じる。笑いもする。しかし本音を言えば面倒くさかった。どうして、彼らについていくために興味のないテレビ番組や芸能情報に触れなければならないのだろう。なぜ、数分後には忘れてしまうような馬鹿話に興じなければならないのだろう。みんな、虚しくないのだろうか。昔からそんなふうに、明輝は感じてきたのだった。
誰に迷惑をかけているわけでもないのだから好きにさせてくれないかな、と明輝はつねづね望んでいた。落伍者にならない程度に最低限度のことだけをこなせばいいじゃないか、と。
それにもかかわらず、周囲は明輝を放っておいてはくれなかった。あれやこれやと面倒事を持ち込んでは、彼を混乱させた。
嫌われているよりはいいのかもしれない。しかし、自分という人間が愛され、必要とされているのだという思いを、明輝は抱けずにいた。たまたまそこにいた、ちょうどいいやつ。自分みたいな立場の人間ならどこにだっているだろうし、替えは利くだろうし、たとえ自分がいなくなっても、世界は滞りなく回っていくだろうという気がした。
それなのになんで俺が、と明輝はまたため息をついた。いま彼を悩ませていたのは、鞄のなかに突っ込んであるプリントの束だった。
毎年恒例の春のイベント、実行委員。うっかりそんなものに任命されてしまい、企画を考える羽目になったのである。
去年はなにをやったのか、明輝は覚えていなかった。その場にいなかったのかもしれない。一昨年は? 素人のお笑いかなにかだったような気がする。なんにしろ、たいしたものではなかった。
やってられるか、と明輝は思った。それ以上頭を働かせるのが嫌になり、寝転がったまま眼を閉じた。
「放課後も、練習時間に充てたほうがいいと思うんだ。本番まであんまり時間がないし」
クラスメイトに向けて熱弁をふるっている少年は、かつての自分だと気づいた。あれはたしか、小学校四年か五年のころ、学芸会の直前のことだった。忘れかけていた思い出が甦ってくる。夢と分かってはいても、どうしようもなく切なくなる。
「めんどくせえよ」
「塾だってあるし」
「俺、帰るわ」
ちょっと待ってよ、と少年は声を張りあげるが、誰も耳を貸してはくれない。ひとりまたひとりと友人たちは去っていって、彼だけが教室に取り残されてしまう。
結局こうなるのか、と少年は失望した。それならもう、どうだっていい、と彼は思った。どうせ、自分ひとりが頑張ったってどうにもならないのだから。余計なことを言わずに、みんなと一緒に遊びに行ってしまえばよかったのだ。うるさがられて、憎まれて、なぜ自分だけが必死になる必要があったのだろう。始めからなにもしなければよかったのだ。自分がなにを言うと言うまいと、物事はなるようにしかならない。ならばおとなしく様子を見守って、調子を合わせているほうが得策ではないか。これからはそういうふうに賢く生きていこう……。
目が覚めると、しっとりと汗をかいていた。明輝は起き上がり、浴室へ行ってシャワーを浴びた。思い出したことをすっかり洗い流してしまいたかったが、記憶はしつこく頭の片隅に居座り続けている。
着替えて、玄関のドアを開けた。べつだん目的はなかった。誰に気兼ねすることもなく、自分の好きなように時間を過ごせるならどこでもいい。自分が嫌いなのは、全体では綺麗事を並べ立てるくせに個々人はなにも考えていない社会のあり方や、規模の大きな集団の有する特別な圧力なのだ、と明輝は考えた。
明輝の足は、自然と人通りの少ないほうへと向かっていた。誰にも邪魔されたくなかった。うっかり知り合いに見つかりでもしたら面倒だ。
しばらく歩いて、道の隅にふと、小さな黒い影を見つけた。それはするすると明輝の足元へ近づいてきた。黒猫だった。
野良猫かと思ったら、地味な茶色い首輪をしているのに気づいた。誰かの飼い猫だろうか。しかしよくよく眼を凝らすと、その首輪のサイズは明らかに小さかった。子猫のころにはめられて、そのまま捨てられたのだろう。首を締め付けているようだった。
明輝は黒猫を抱き上げた。やはりネームプレートの類はいっさい見当たらない。こいつは捨て猫なのだ、と明輝は判じた。
「かわいそうにな。それじゃあ、おまえも息苦しいだろ」
明輝は言って、首輪を外してやった。地面に下ろすと、黒猫は一度こちらを振り返り、それから音もなく駆けていった。黒猫が去ったあとの、なんの痕跡も残っていない凡庸な景色を、明輝はいつまでも眺めていた。
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