新堂雪歩(1)

 ちょっと羽目を外してみようと思っただけだった。春休みだし、気分がよかったし、皆がやっているように少し楽しんでみたかった、それだけだったのだ。

 

 細い路地の奥から覗いているのは二つの眼だと分かった。それが薄闇に溶けるように消えて、しばらくすると少し遠くのほうでまた光る。眼の持ち主はたぶん黒猫で、じっとこちらを見つめたかと思えばぱっと身をひるがえして逃げてゆくのだ。

 新堂雪歩はその光を追いかけていた。なんでもいいから非現実的な、馬鹿みたいなことをしてみたいという欲求が、胸のなかで強さを増す一方だった。

 耳の奥がまだじんじんしている。さっきまでは小さなライヴハウスにいて、ロックバンドの演奏を間近に見ていた。今までの自分なら考えられなかったことだ。行き先を言わないと外出させてもらえない、門限は六時、あれは駄目、これも駄目……。

 大学への進学とひとり暮らしが決まって、ようやく状況が変わった。両親の心配性は相変わらずだったが、それでも以前とは比べ物にならないほどの自由が得られるようになった。これまでの鬱憤を少しでも晴らしたくて、雪歩は新しい街を歩き回った。

 自分と同年代であろう都会の若者たちは、誰もかれも年上に見えた。深夜まで大騒ぎをしていたり、高そうな服やアクセサリーで煌びやかに飾り立てていたり、自分などでは知るべくもなかった青春の楽しみを、他の皆は当たり前のように満喫している、と雪歩は感じていた。

 そんな彼女にとっては、ロックのライヴを見に行くことも黒猫を追いかけることも、信じられないような冒険であり逸脱だった。ライヴハウスの狭い階段を闇に向かって降りていくとき、小さな光を追って薄汚れた路地のあいだを歩いていくとき、雪歩の胸は確かに高鳴っていたのだ。

 遠くに白い明かりが見えた。表に出られるようだ。雪歩が目を凝らすと、黒猫のシルエットがさっと外へ向かって駆けていくのが分かった。

「……どういうことだよ。わけわかんねえよ」

 唐突に外から男の声がして、雪歩は身を固くした。路地のあいだに潜んだまま、すり足で移動して、そっと様子をうかがってみる。何人かの男たちが、別の一人の男を取り囲んでいた。

「おまえ、ふざけんじゃねえぞ。なんで……」

 言葉は途切れ途切れだが、一人のほうの男が責められているのは明らかだった。囲んでいる側はみな酔っているらしく、ときどきふらついたり、滅茶苦茶に怒鳴ったりしている。

 雪歩は息をのんだ。飛び出していって止める勇気など、あるわけがなかった。だから余計なことはしないほうがよかったんだ、という両親の口癖が耳に甦ってくるようだった。ただその場に凍り付いているしかなかった。

 馬鹿野郎、と誰かが吐き捨てるように発したのが、おそらくきっかけだった。男たちが団子のように固まって、あっという間に喧嘩が始まった。この野郎、畜生、などという怒号と、人のもみ合う鈍い音が聞こえてきた。雪歩は思わず顔をそむけ、ぎゅっと目をつぶった。そのままよろよろとへたり込んだ。

 どのくらいか時間がたって、あたりは静かになった。ゆっくりと顔を上げて覗くと、男がひとり、倒れているのが見えた。ほかの人たちは、どこかへ行ってしまったらしい。

 雪歩はそろそろと表へ出て行った。知らないふりをして逃げ出したいという思いと、このまま放っておいたら大変なことになるかもしれないという思いとがまぜこぜになって、彼女の頭のなかに渦巻いていた。

 雪歩はそっと男のそばに屈んだ。うつ伏せになっている男の肩を軽く叩く。

「あの、大丈夫ですか」

 うーん、と呻き声がして、男が体を起こした。その顔を初めて目の当たりにして、雪歩の心臓は跳ね上がった。時間が止まってしまったかのように思った。

「……トーマ」

 唇の端から、自然とその名前が洩れた。トーマ。雪歩が勇気を奮い起こしてライブハウスに行ったのは、彼を生で見たかったからだったのだ。

 ……自分は、いつからトーマのファンになったのだろう。

 たしか中学三年のとき、本当にたまたま、彼がギター一本を抱えて歌っている映像を観た。インターネットの動画投稿サイトで、再生数もそれほど多くなかったように記憶している。当時の彼はまだCDもまだ出しておらず、小規模なライヴを中心に活動していたのだ。派手な衣装とメイクで身を飾ってステージに立っていたトーマの姿。華美な外見とは裏腹な、驚くほど繊細で内省的なパフォーマンス――音楽のための音楽とでも称すべき演奏に、雪歩は惹かれるものを感じたのだった。観客たちが一斉に立ち上がって黄色い声をあげているのが彼女には不思議だった。ただ黙って聴いていたい音楽だと思った。ただじっと耳を傾けて、聴き終えたら盛大な拍手をすればいいのだ、と。

 それから何度となくトーマの動画を観たり、少数プレスながら発売されたCDを買って聴き込んだりした結果、かつての自分が抱いた印象は強化されるばかりだと分かった。彼がエレキギターをかき鳴らしていても、マイクスタンドを振り回して叫んでいても、そのいっさいが切なく、感傷的な呟きであるように雪歩には思えた。同時にチェックするようになった彼のブログにも、ロックンローラーらしからぬ静かに整った文章が綴られていて、雪歩は自分の思いが裏付けられたかのような気がしていたのだった。

 この街でひとり暮らしを始めた矢先に、「今月のライヴ告知」の文字をブログに見つけた。歩いて行ける距離にある、小さなライヴハウスが会場だった。

 自分の眼前に立ったトーマが、ライトに照らしだされて、マイクに顔を近づけて、繰り返し聴いたあのメロディを歌いはじめたとき、雪歩の背筋は震えた。自分の知っているものと同じ曲のはずなのにどこか違う、夢の一場面のように掴みどころがなく、それでいて確かな高揚感を纏って耳に飛び込んでくる歌声――。憧れのミュージシャンが手の届きそうなほど近くにいるのに、やはり相手は遠い人なのだ、ひとときの幻の世界の住人なのだと思わされてしまうような、嬉しさのなかに淋しさの混じった邂逅だった……。

 そのトーマがいる。衣装もメイクもないからか、ステージ上の彼とは少し印象が違って見えたけれど、確かについ数時間前、自分の目の前で歌っていた人だった。

「ええと、あの」

 どういう言葉を口にしてよいのか分からずおろおろしていると、トーマは小さく笑って、

「わざわざ助けてくれたんだね。ありがとう。なんかえらいとこ見せちゃったみたいで、ごめんね」

 穏やかな声だった。やはりこちらの、物憂げな青年こそが彼の本質なのだろうかなどと、雪歩は考えた。

「そんなことないです。それより、大丈夫でしたか」

「平気。大したことないから」

 よかった、と雪歩は息を吐いた。目立った怪我はしていないようだし、もう意識もはっきりしているようだし、たぶん本当に大丈夫なのだろうという気がした。安堵のあまり泣き出しそうになり、そうして唐突に、自分が長らく言いたかった科白を思い出した。

「あの、わたし、ずっとファンだったんです」

 びっくりしたような顔をされた。思えば、喧嘩で殴られて昏倒し、息を吹き返してみたら見知らぬ小娘がいて、そいつにいきなり「ファンでした」などと告白されたら誰だって驚くだろう。いま言うべきことか、と呆れられたのかもしれない。やめておけばよかったと雪歩は思った。

「トーマの?」

 問われて、雪歩は頷いた。するとまた彼は笑った。今度はどこか悲しげな笑みだった。

「ありがとう。でも俺は、トーマじゃないんだ。嘘っぱちで幻で、偽物なんだよ」

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