ファースト・フィナーレ

下村アンダーソン

佐倉秀平(1)

「奇蹟は待つものじゃない、自分の手で起こすものですよ」と誰かが言ったから、やってやろうと思った。青かった、と思うほかはない。今となっては。

 

 カーチェイスと撃ちあいと大爆発のあとで二人が交わす幸せなキスを眺めながら、佐倉秀平は冷えた弁当を口に運んでいた。たまには違う夕食をと思って、「新製品」のシールが貼ってあるものをわざわざ選んで買ってきたのに、いまひとつ旨くなかった。これならいつもの半額弁当のほうがよかったな、とため息をつき、古びた湯呑でお茶をすする。

 秀平はおんぼろの小型テレビにまた視線を移した。中盤あたりで死んだと思われていた仲間が、地平線の彼方から大声を上げて近づいてくるところだった。おーい、二人とも無事だったかあ。あれ、俺ってひょっとして邪魔だった? 顔を見合わせて笑う主人公とヒロイン。いや、そんなことはないよ。おまえが生きててよかった。

 こいつは奇蹟だ、と主人公が言う。映画だからな、と視聴者の八割くらいは突っ込んだことだろう、と秀平は考えた。そういうものなのだ。現実には起こりえないような奇天烈な事態が次々と生じ、登場人物は必死になって駆けずり回り、戦い、やがて勝利する。もはや誰もが見飽きた、夢と希望の大安売りだ。

 しかし画面のなかで二時間にわたって展開されてきた出来事は、奇蹟としか呼びようのないものであるはずだった。少なくともかつての自分は、そうでなければならないと思っていたのだ。すべての人に夢を見せること――それこそ自分の使命なのだという熱意が、胸のなかで燃え上がっていた頃もあった。

 映画を作る人になりたい、と思いはじめたのはいつのことだったろう。覚えていないくらい昔からの夢で、それは自分が死ぬまで続いていくはずだった。親の反対を押し切って果敢に映像の道へと踏み込んだこと、機材の扱い方を必死になって覚えたこと、先輩の技術すべてを盗んでやろうと目を爛々とさせていたこと、なんだかすべてが、遠い過去の出来事のような気がした。

 諦めたわけじゃない、と秀平は思う。夢を捨てたんじゃない。そう強がってはみても、映画で生きていくことは、彼にはできなかった。現実的な問題として、食べることがおぼつかなくなったからだった。

 餓死寸前まで踏みとどまった。自分は映画一本でやっていくのだと信じていた。それでも身体のほうが耐えかねて、退かざるを得なくなった。

 そしてアルバイトを始めた。暮らし向きはずっとましになったものの、馬鹿みたいな単純作業の繰り返しで生きている今の自分はいったいなんなのだろう、という虚しい思いを拭い去ることができずにいる。夢追い人だろうか。認められることもなく、それどころかまともに飯を食うことすらできず、弾き出されてきた男が。コンビニでちゃちな弁当を買うために遅くまで働いて、帰り道では黒猫に前を横切られるような男が。

 映画が終わった。エンドロールは適当に省略され、次回予告が始まった。そんなものだ。誰が作ったかなんて、どうだっていいのだ。自分のことだって、もう誰も覚えてはいないだろう。フィルムに焼き付けられた偽物の奇蹟など、どうせ日常生活の背景としてしか機能しない。映画をやっていた頃の自分は幻で、今こうして四畳半でコンビニ弁当をつついている冴えない男こそが真実なのだ――。

 そのとき、ポケットに収めていた携帯電話が急に振動しはじめた。どうせろくな話ではないだろうと思いながら、秀平はポケットに手を突っ込んだ。

「あ、もしもし。突然ですけど、神さまって信じてます?」

 耳朶を打ったのは久方ぶりに聞く牧島の声だった。高校の後輩である。住んでいる場所が近いだとかで、以前、ことに学生時代はよく顔を合わせたものだ。それなりに名の知れた私立大学の文学部を卒業し、確かいまは広告関連の仕事をしているはずだった。

「本当に突然だな。宗教なら間に合ってる」

「そういうんじゃありませんよ。変な勧誘とかじゃない。聞いてください、僕じつは、あることがきっかけで目覚めちゃったんです。信じることにしたんです」

「よかったな。どういう修行をした? 真理を悟るってのはそうそう簡単なことじゃないだろ」

 秀平は湯呑を引き寄せ、一口つけた。牧島のやつ、なにやらスピリチュアルな体験をしたらしい、と苦笑いする。

「それはもう。死にそうな思いをしましたよ。思い出すのも怖いくらい」

「ご苦労なことだ。質問の答えだが、あいにくだけど俺は信じてない。現実を見据えるのでいっぱいいっぱいなもんでな」

「いやでもね、そういうときこそ誰かに縋りたくなったりしません? ちょっと助けてほしいなあ、話だけでも聞いてほしいなあ、みたいな」

「それでどうなる? 本当に助けてくれるのか? けっきょく自分の力でどうにかしなきゃならないんじゃないか」

「そうかもしれない。神さまが助けてくれたのか、自分が頑張ったのかなんて、よく分かりませんよ。そのときは神が与えてくれた幸運だと感じてたのに、後になってみればあれはぜんぶ俺の努力の結果だったんだ、とか思ったりする。気持ちの問題じゃないですか。でもなにもかも一人でやったと思うより、誰かがそっと力添えしてくれたと考えるほうが、なんとなくほら、いい感じじゃないですか」

「その、なんとなくいい感じとやらが訪れれば、な。現に俺は今、不幸のどん底とまでは言わないが、晴れる兆しのない曇天、くらいの状況なんだよ」

「僕なんかこないだ大嵐に遭いましたよ。でも今は晴れ渡ってる。台風一過です。それで佐倉さん、ちょっとお話があるんですよ。言っておきますが妙な勧誘とかでは断じてありません。会ってもらえれば、僕の言うことを、一厘くらいは信じる気になるかもしれませんよ」

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