第五章 5 『カルマの少女』
ツカサの胸の中で少女の指が心臓を握りしめる。
体の中身が焼け焦げながら溶けていく快感が全身に響き渡り、そして次の瞬間に少女の瞳が大きく見開かれた。
少女の体は身震いするようにのけぞり、その小さな唇から恍惚とした声が漏れる。
同時に凄まじい力の奔流が少女の体からあふれ出し、周囲を膨大な白い粒子が包み込んでいった。
それはまるで粉雪の舞う冬の日のようであった。
雪景色の中心で人形の少女は立ち上がると、昂ぶりで惚けた表情を隠すように背を向ける。
「驚くであろう……? 唐突に心臓を与えられる身になってみろ。」
その仕草に人間を見るような親近感を抱きながら、ツカサはかすれ行く意識の中で呟いた。
「……それで足りるか?」
「…………無論だ。……釣りがくる。」
振り向かずに答える少女の言葉には力が満ちていた。
漆黒と純白……二つの存在が吹雪の中で対峙する。
そこから先の展開は正に一方的であった。
少女が自らの指の隙間から糸を噴出させると、その糸の末端が固まり小さな人形になる。それはどうやらこの洞窟の大広間までツカサを導いてきた人形のようだ。
少女がさらに力を込めると白い粒子が人形に纏わりつき、みるみると見上げるほどの巨大な体躯へと変貌していった。
丸い腹と太い四肢を持った石造りの人形。
妙に丸くて愛嬌のあるその姿は雪を丸めて作った雪だるまのようだ。
ただ一つひときわ異質に見えたのは、その人形たちが禍々しい牙の生えそろった口を持っていたことだ。
巨大な人形は少女の指から伸びた糸に繋がれており、リードのついた猟犬のように少女の周囲で鎮座している。
「………行け。」
凛と響いた少女の一声と共に、一斉に猟犬は放たれた。
巨体の群れはその口を裂けんばかりに広げると、漆黒のカルマに襲い掛かるや強引にかじり取っていく。
斬っても叩いても効果のなかったヘドロのような体は呆気なく削り取られていった。
人形がひとかじりする度に少女の体に刻まれた亀裂は修復され、少女と繋がっているツカサの体も同様に回復してゆく。
少女の目には恍惚とした笑みが漏れていた。
異形と化したツカサを前にして、ケイジは驚きを隠せないでいた。
漆黒のカルマと化したはずのツカサの体は突如内部から沸騰するように泡立ち、膨張した皮膚が破れると、そこからは膨大な白い糸が噴出した。
白い糸はそのままの勢いで黒く濡れた皮膚を覆いつくし、糸で編み上げた人形のような姿になった瞬間、はじけ飛ぶように破裂してしまった。
もうもうと舞う粉雪の中心にケイジは目を奪われる。
「これは……二つのカルマがせめぎ合った結果? あの黒いカルマに打ち勝ったのか……?」
そこにはツカサの姿があった。
全身に亀裂のような白い痕が刻まれ、左腕すべてと胸の中心は完全に白磁のように変化してしまっているものの、紛れもなく人の形を取り戻していた。
これは精神世界での勝利がもたらした結果なのだと確信せざるを得ない。
その光景を見つめながらケイジは自嘲気味に笑った。
「……カルマ憑きを助けるなんて、俺は何を考えているんだ。」
あたりにはすでに黒い瘴気もヘドロも残っていない。ツカサの表情は安らかであり、目を瞑っている様は少年の頃のままのようだ。
「そうだ。あくまでも黒い奴が増えないようにしただけだ。……俺は間違ってない。」
ケイジは虚空を見つめ、つぶやいた。
獰猛に漆黒のカルマの体を喰らい尽くした雪だるまたちは、ツカサの体に入り込んだ瘴気を残らず飲み干すと何事もなかったかのように制止した。
人形の少女が腕を下すと、巨大な雪だるまの体を構成していた白い粒子がはじけ飛び、糸と共に霧散する。
嵐のような対決が白いカルマの勝利で終わった後、その空間に満ちていたのは鍾乳洞全体が崩壊してゆく不気味な振動だった。
ツカサは亀裂の入ったままの世界を見渡す。
「………これは……大丈夫なのか?」
「……ふむ。思いのほか損傷が深刻だな。この場に留まれば我らは消えてしまう。」
尋常ではない一言にツカサが息を飲むと、少女はうろたえる様子もなく腕の先端に噴き出した糸を収れんさせ、一振りの刀を作り上げる。
「交代してもらうぞ。」
「えっ………?」
ツカサが身動きする暇もなく、次の瞬間には刀は振り下ろされていた。
ツカサの体が袈裟切りに切り裂かれ、その亀裂から光の粒が舞い上がる。
「カハッ……ハ……………。」
「案ずるな。貴様と私は繋がった一つの魂。互いの手では殺すことはできん。」
そんなことを言われても、ツカサには何が何だかわからない。
体に開いた巨大な亀裂が広がり、内側からめくりあがるように内外が逆転していく。
世界の色が反転し、ツカサは声のかぎりに叫び続けた。
「ええい、煩い! ……痛みはないはずだ。いつまでもわめかず目を開けてみせよ。」
少女の言葉を受け、ツカサは恐る恐る目を開ける。
鍾乳洞のような景色はどこにもなく、目の前に広がっているのは非常に見覚えのある空間だった。
「……うちの書庫じゃないか………。」
ツカサが作った本棚。窓や壁も上の街から捨てられた資材で作った、この世に二つとないツカサの居場所がそこにあった。
しかしここが現実の書庫ではないことはすぐにわかる。
空間自体が陽炎のように揺らめき、仄かに光を帯びている。
何よりもあれだけ熱心に集めた本が一冊も棚に入っていない。
すがすがしくなるほどに空っぽの本棚が並んでいるだけだった。
気が付くと少女の姿が見当たらない。
声が聞こえたので間違いなくいるはずだと思ったツカサは周囲を見渡した。
書庫の間取りは知り尽くしている。逃げ場があるほど広くはなく、隠れているなら部屋の中央を占領する本棚の向こうに違いない。
ツカサがふと本棚の向こう側に顔を出した時、そこには一糸まとわぬ人形の素体だけになった少女が立ち尽くしている姿が見えた。
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