第三章 3 『帰りたい場所』

 ユイから事のあらましを聞いたソラは静かに驚いていたが、常にカルマの危険と隣り合わせの毎日だったせいか、取り乱すことなく状況を理解していた。


「持って行きたい物なんてないよ。だって必ずこの家に戻ってくるんだもん。」


 逃げる際の持ち物を尋ねたときのソラの答えが印象的だった。本当にそう信じているのだ。ツカサとユイが必ず街を直すんだと、そう思っているに違いなかった。


「……そうだな。必ず帰れるよ。」


 ツカサはソラの手を握りながら遠ざかる家を見送る。

 継ぎはぎだらけの壁。

 居間よりもしっかり作った書庫。

 山ほどに集めた自慢の本たち。

 自分がいなくなっても、これだけの知識を残せたならスラムでの日々も無意味ではなかったとツカサは思った。




 家から視線を放して進もうとした時、ツカサの横から突然布が被さってきた。

 驚いて傍らを見ると、上半身が薄いタンクトップだけになったユイが頬を膨らませている。ツカサの左肩を覆っている布はユイが着ていた上着のようだ。


「自分の腕を見て!」


 ツカサの左腕は人形のような硬質化した皮膚でできている。ツカサは自分の腕を見つめながら、はっと気が付いた。


「そうか、この腕は見られるわけにいかないもんな。」

「うん。それなのに、ツカサの服は破れてボロボロで隠せないから………。」


 ユイは自分の上着をツカサの左腕に縛り付けて覆い隠す。そのせいでユイ自身はほとんど下着と言っても差し支えない姿だ。さっきからチラチラと見える胸元のせいでツカサは話に集中できず、目のやり場に困ってしまう。ユイは他人の事は指摘するくせに、自分の見た目にはいつも無頓着なのだ。ソラも顔を赤らめている。


「………目立つのはどっちだよ。」

「え? なんのこと?」


 ユイはまるで自覚がないように、脱いだ勢いでめくれたタンクトップの裾を直す。


「……なんでもない。」


 ツカサは諦めたようにため息をついた。


「ん? 家は暗かったからわからなかったけど、体中についてた白いアザ、消えたみたいだね。」


 ユイの指摘でツカサも初めて気が付いたが、あの禍々しいローブをむしり取った時にできていた白いアザが消えていた。体中にヒビが入ったような模様は不気味だったため、消えたのは悪いことではない。しかしユイはツカサの体を念入りに触る。


「なんで消えたのか理由が分らないのも気になるなあ……。帰ったらちゃんと診察させてね。」

「………帰ったら?」

「そう、帰ったら。今は逃げなきゃいけないけど、でもここは私たちの家がある場所なんだから、いつか絶対に帰るの。だからしっかり生き残ろうね。」


 ユイは歯を見せながら力いっぱいに笑う。まるでツカサの決意を見すかしているようで、ツカサはばつが悪そうに笑うのだった。





「帰れねえよ。」


 不意に背後から言葉を投げかけられ、とっさに三人は振り返った。

 バラック小屋が立ち並ぶ狭い路地で一人の男が壁にもたれかかっている。


「ケイジ……。」

「こんな人のいなくなった場所でおしゃべりしてるんだ。見つけてほしかったのか?」


 ケイジの姿を見た途端、ユイはとっさに身構えて猛然と襲い掛かった。ケイジがあの特殊な力を使う隙すら与えないつもりのようだ。姿勢を低く保ち、強く地面を蹴る。

 しかしユイの体は突然縛り付けられた様に空中で停止し、地面に叩きつけられた。

 ツカサやソラも押さえつけてくるような力に抵抗できずに膝をつく。ケイジは微動だにしていないにも関わらず、その空間に現れた光の領域はあの《霊殻》の力のようだった。


「俺に気を取られすぎだ。」


 ケイジの言葉と共に、反対側の路地裏から数人の男たちが出てくる。その中の一人にツカサの目は釘付けになった。全身を鎧のような筋肉で包み込んだ長身で初老の男。それは鰐塚の護衛をしていたはずの飛弾だった。

 飛弾の歩みと共に霊殻の光が進む。ツカサ達を拘束している力は飛弾のもののようだ。飛弾の鋭い視線が三人に向けられる。


「カルマ憑きとエンジニアの娘。……確かにそろってるな。ところでケイジ。その子供は誰だ?」

「ツカサの……そこのカルマ憑きになった奴の弟です。」

「………そうか、かわいそうにな。…………兄弟を亡くすのはつらい物だ。」


 ソラは彼らのやり取りを聞き、息をのんだ。


「ケイジさん……。……まさか、ホノカちゃんと同じように兄さんを…………?」


 ケイジは沈黙を守るが、その冷たいままの表情は彼らの目的を雄弁に物語っているようだ。


「……嫌だ……嫌だよケイジさん。……兄さんは兄さんのままなんだ。だから……。」

「ソラ。」


 ケイジは無感情に幼い顔を見下ろす。


「ツカサがツカサのままかどうかなんて、もう関係ないんだ。引っ込んでろ。」

「ケイジの言う通りだ。……ソラとユイは彼らを刺激しないでくれ。」


 ツカサは飛弾から視線をそらさずにそう告げた。

 飛弾は元軍人だ。街からスラム街に降りてきた経緯は分らないが、ギャングの武装集団を束ねる長としての力は本物だった。いくらユイが格闘技に長けていたとしても敵うはずがない。そして霊殻の力も別格のはずなのだ。

 彼らの目的はおそらく自分の抹殺だろうとツカサは考えた。飛弾まで連れてきたのだから、確実にこの場で仕留めるつもりなのだろう。

 ツカサは少し思案した後に、真剣なまなざしで口を開いた。


「……ケイジ。お前が用があるのは俺だけのはずだ。……せめてユイとソラだけでも逃がしてほしい。……護衛があるなら、二人を安全に逃がすことができるはずだろう?」

「初めからそのつもりだ。ユイにはユイでやってもらうことがある。」

「そうか……。話が早くて助かったよ。」


 ツカサとケイジは視線を交差させる。その時ユイが話に割って入ってきた。


「ツカサ! 一人で残るなんてダメ!」


 悲痛な叫びをあげるユイを見てツカサは困り果てた。こんな時にユイが聞き分け良く立ち去ってくれるはずがない。家族や仲間のことを第一に考えるユイは大暴れしてでもここに残ろうとするだろう。ツカサに無茶するなと言いながら、ユイこそ簡単に無茶しようとするのだ。しかし飛弾という男を前にしてそんな児戯が通じるわけもない。

 考え込んだ挙句にツカサの口から出たのは笑いだった。ツカサはにやけた顔でユイを見る。


「ごめんな。助けてくれてうれしかったよ。……でも、その……目のやり場に困って仕方ないんだよ、その恰好。先に行ってくれると俺も助かるかな。」

「…………。……え?」

「いや、だからさ………。そんな下着みたいな恰好でうろつかれると困るんだよ。……それに俺、人食いの化物になったみたいだろ? そういう意味でも困るんだよな。おいしそうな人間が近くにいるのは……。」


 ツカサは大げさに困ったような顔をする。ユイは頬を赤らめるが、身動きができないのでタンクトップの大きく開いた胸元が隠せない。


「ちょ、ちょっと待って。ツカサ、そういうこと、今まで言ったことなかったのに!」


 そのやり取りを目の前にして、飛弾は深くため息をついた。


「……おいおい。おじさんの前でイチャイチャするのはやめてくれないか。独り身には刺激が強すぎるだろ?」

「あ……はい。……すみません……。」


 ツカサは予想外にくだけた物言いをする強面の男に拍子抜けしてしまった。


「お嬢ちゃんも許してやんな。彼もあんたを危険な目に合わせたくないだけなんだ。突き放そうとして慣れない言い訳を考えたんだろう。……なあ、少年?」

「え…………。ええ、まあ……。」

「だいたいお嬢ちゃんもそんな薄着で男の前にいるのは考えもんだ。今は避難でそれどころじゃないのもわかるが、早く上着ぐらい着ろよ。」

「飛弾さん、そろそろいいですか。」


 ツカサとユイがぽかんと口を開けて話を聞いていると、ケイジは平然とした表情で飛弾に話しかけた。どうやらいつもこんな感じのやり取りをしているらしい。


「おお、ケイジ。すまんな。一言言いたくて……つい、な。」


 飛弾は豪快に笑ったかと思うと、一転して身に纏った空気が変わった。


「お嬢ちゃんと弟君は防護扉に向かってもらう。詳しくは道中にでも俺の部下に説明させよう。そして……カルマ憑きの少年。君にはここに残ってもらおうか。」

「嫌だ! ……僕もここに残る!」


 飛弾の言葉を聞いた瞬間にソラはすがりつく様に叫んだ。

 しかし即座にケイジが銃口をソラの額に押し当てる。


「……引っ込んでろって、言ったよな。ソラ。……お前が感情にまかせて動けばこの引き金を引かなきゃならない。……ツカサがそれを望んでるのか、よく考えてみろ。」

「ユイ、ソラ。……彼らの言うことに従ってくれ。………頼むよ。」


 ツカサは二人の目を見つめる。ここに残れば自分が無事でいられないことは分かっている。しかし抵抗すればソラに危険が及ぶ。ギャングたちにとってユイには利用価値があるようだが、ソラはそうではない。邪魔をすればソラは容易く殺されてしまう。

 ユイはツカサの想いを受け取り、ゆっくりとうなづいた。

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