第三章 2 『腹を満たす罪』

 ツカサは一人きりで歩き続けていた。


 左腕の感覚は全くない。自分の意志では動かせず、体が徐々に欠けていく実感がある。それでも歩みを止め、目を閉じてしまえば、もう人間ではいられなくなってしまう予感があった。

 故郷を滅ぼしたカルマという存在について知りたかった。……だけど、それはこんな形でカルマのことを知りたいわけではなかった。


 今どこを歩いているかが分からない。視界からは色彩が失われ、形が歪み、目に見えているはずの物の輪郭がうまくとらえられない。道端の脇に立つ小さな光は植物だろうか。足元を横切るゴミのような光は虫だろうか。いずれにしても、この小さな光がツカサの体が欲するものでないことだけは感覚的にわかる。どんなに空腹だとしても土や本を喰わないのと一緒だ。


 空腹感が止まらない。


 もっと大きな、温かく、香しい光が欲しい。


 ……ツカサの精神が極限まで追い詰められていた時、目の前に突如として光が現れた。

 光の塊が何か音を出しているが、よく聞き取れない。


 あふれる唾液が止められない。


 すでに朦朧としていたツカサは震える指で光をつかみ、不意にかぶりつく。

 口内に広がる甘味が雷鳴のように背筋を走り抜け、全身の細胞がざわめくように活気づく。

 たまらずもう噛みと大きく口を広げた時、囁くような声がツカサの耳元を撫でた。


「兄さん……。」


 ツカサは全身を硬直させ、ゆっくりと頭を上げた。体内に注ぎ込まれた光によって次第に視界が開けてきたとき、その目に飛び込んできたのは呆気にとられている幼い弟の姿だった。

 首筋を真っ赤に濡らしている。


「ソラ…………いつから、そこに…………。」


 途端に口の中の甘さが消え、鉄のような臭いがツカサの鼻孔を抜ける。

 その瞬間にツカサは状況を理解した。

 ここは自分の家の中だ。朦朧とした意識は自然と慣れ親しんだ場所へツカサを導いていた。

 そしてツカサが口に含んだ物は……ソラの血液だったのだ。


「なんてことを……俺は………。」


 ユイの元を離れたばかりだというのに、ツカサは人を襲いたくなる衝動を全く抑えることが出来ていなかった。口を血まみれにしたツカサは自分の鼻の奥がしびれるほどに熱くなるのを感じた。唇が小さく震え、視界がゆがみ、頬が熱く濡れる。


「ソラ……急にこんなこと言ってごめんな。俺、化け物になったみたいだ…………。」


 順序立てて説明したくても思考が働かない。ソラを混乱させ、おびえさせるだけなのはわかっている。それでも今はソラから離れなければならないとツカサは後ずさった。

 しかしソラはその小さな手でツカサの服をつかんで離さない。


「やめろ! ……ケイジの言う通りだったんだ。俺に関わると死んでしまう。……人が食い物に見えるんだ。人を喰えって、俺の中の何かが囁くんだ。」


 そして最後の言葉が、つっかえるように喉から零れ落ちる。


「……ソラを、ソラの命を、美味しいって思ってしまったんだ。」

「落ち着いて。僕は大丈夫だから! 欲しければ飲んでいいから!」

「そんなわけあるか……! 血が……血が……。」

「……兄さんがカルマ憑きになったことは……その腕を見ればわかるよ……。」

「……だったらなおさら……。俺が怖く……ないのか……?」

「怖いわけないよ。ホノカちゃんの時、兄さんはホノカちゃんを怖がらなかった。……治る方法を探そうとした。………だから僕が怖がるなんて、できるはずないよ。」


 ソラはケイジの妹と仲が良かった。ちょうど同年代だったからかも知れないが、傍目に見てもお互いに好意を抱いていたのが分かり、とても微笑ましかった。いくらカルマ憑きになったとはいえ、人を襲うことなく衰弱していった少女を怖がるなんて、できるはずもなかった。

 しかし当時のツカサはカルマ憑きの飢えがこんなにも苦しいなんて知らなかった。うまそうな餌にうろつかれながら飢えに耐え続けるだなんて、どんなに残酷な日々だったのだろう。


「………昔の俺はなんて酷いことをしたんだ。変に勇気づけて、守ろうとして。……結局治る方法なんてわかるわけなくて、無駄に期待させながら死なせてしまった。……ケイジもカルマ憑きをかくまったせいで罪を問われ、ギャングにその身を捧げるしかなくなった。」


 自分自身の言葉にツカサはハッとした。


「そうか。……これは罰なんだな。カルマ憑きになって死ねっていう。」


 そう、無知なままに禁忌に触れた罪。それに対する罰なのだとツカサは思った。


「罰なんかじゃない! ……兄さんはあの時言ってたじゃない。《上の街》なら方法は見つかるかもしれないって。」

「《上の街》に行ったんだよ! ………でも行くだけじゃ何もわからなかった。助けてくれる人なんているわけなくて、自分では何もできなくて…………。」

「だからって、諦めちゃだめだよ………。」


 ソラの声はだんだんと涙交じりになり、小さな肩が震えている。


「……ホノカちゃんはね、笑ってたんだよ。兄さんが励ましてくれるから頑張れるって……。だから僕も同じように言いたいだけなんだ。きっと道はあるって……。………兄さんのためなら僕は頑張る。なんだってする。…………だから、死ぬなんて言わないで……。」


 ただただまっすぐな想いをぶつける弟を前にして、ツカサはもう何も言えなくなっていた。





 その時背後で扉の開く音がした。


「ソラ君にここまで言わせたんだもん。……腹をくくるしかないと思うよ。」


 柔らかく澄んだ声。ツカサが涙でぐしゃぐしゃになった顔で振り返ると、ユイが立っていた。


「………やっぱり家に戻ってたんだね。」

「ユイ姉……。おかえりなさい。」

「うん、ただいま。」


 柔らかな表情でユイはソラに歩み寄り、首筋を染める鮮血をふき取ると家に常備していた包帯代わりの端切れで止血を行う。冷静で手際のいいユイのしぐさを眺めながら、ツカサは恐る恐る口を開いた。


「…………全部、聞いてたのか?」

「違うよ。……そんな盗み聞きのような真似、するわけないでしょう? 最後がちょこっと聞こえちゃっただけ。……ただまあ、状況を見ればなんとなく察しはついたよ。」


 ソラの手当てがひと段落したユイは、次にツカサの顔をまじまじと見る。


「……ん? なんだろう。……ちょっと顔色が良くなってる?」

「そ……そうか? ……どうだろう。確かにちょっと……楽、かな?」


 ユイの瞳に見つめられて動揺していると、ソラもツカサの顔を覗き込んできた。


「僕の血を飲んだ……から?」

「血……。血かぁ……。ツカサ、吸血鬼になっちゃったのかな? もしそうだったなら、ちょっとは安心かもしれない。輸血とかでもいいかもしれないし、いざとなれば私の血でも………。」




「来るな!」


 ツカサはあまりに近い二人の顔から目を背け、後ずさった。動揺して心臓が激しく高鳴る。


「違うんだ……。血じゃないんだ。血を見ても何も感じない。……それはきっとただの物質だから。……俺の中の化物が囁くんだ。《魂を喰え》って。……それはきっと、その体に満ちる光のことだと思うんだ……。」


 ツカサの目には二人の体を流れる美しい光が見えている。


「《魂》っていうものが何なのかわからない。でも、それはきっと、絶対に奪っちゃダメなものなんだ。……この左腕、人間の腕じゃなくなってるだろ? 魂をカルマに食われれば、きっとこんな風になってしまうんだよ。」


 それでもかまわずユイはツカサに触れた。


「いいよ! ツカサが正気を保てるなら、腕の一本や二本、おかしくなってもいいよ!」

「勢いにまかせてそういうこと言うな!」


 ツカサはユイを力いっぱい突き飛ばした。唇を震わせながら、ツカサは首を振る。


「なんで二人とも、揃いも揃って同じこと言うんだ。だいたい、ユイにそこまでする義理はないだろう? ユイは同じ街で暮らしていただけの他人なんだ。俺を助ける義理なんてない。」


 ツカサは涙交じりに吐き捨てるように言った。


「わかんないよ…………。なんでそんなこと言っちゃうんだよ。」


 その言葉を受けたユイは顔を紅潮させながらツカサの胸を叩いた。叩き続けた。


「他人なんて、言わないで、バカ! 私は……。……………。私は家族だと思ってたよ!」


 ユイはまっすぐな目でツカサを見つめる。


「……故郷を失って、この街でも酷い目にあって、それでもずっと支え合ってきた。今の私が家族って言えるのは、ツカサとソラしかいないんだから……。」

「そうだよ、兄さん。こんな街でも耐えてこれたのは三人一緒だったからなんだ。……だから兄さんのためならなんだってできる。」


 そう言いきった二人を前にして、ツカサはもう溢れ出る感情に耐えられなくなっていた。膝をつき、ユイとソラのぬくもりに顔をうずめ、嗚咽を漏らす。想いは言葉にできないまま雫となってとめどなく瞼から溢れ出る。



『弱い心はここに置いて行こう……。』


『ソラとユイを守り切ろう……。』


『この体はそう長くは持たない。だったらせめて、二人を防護扉の向こうに送るまで……。』

 ツカサはひっそりと決意を固めた。

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