第三章 1 『君を喰べたい』

 密集するバラック小屋にオレンジ色の閃光が広がり、簡素に組み立てられた柱や壁の残骸が大きく吹き飛ばされた。その衝撃の中心部では新たな地獄の蓋が開き、白煙と共に異形の群れがあふれ出てくる。

 穴から這い出たカルマは人を求めて徘徊し、自らが纏う《力の領域》に入り込んだ人間を喰らう。それはさながら、蜘蛛が自らの巣を広げながら獲物を求めてさまよっているようなものだ。人はその蜘蛛の巣にからめ取られるまでカルマを認識することができない。罠が潜んでいても気づくことができないまま、ただ恐れ、逃げ惑った。

 スラム街の住民にカルマが次々と憑りついていく様を眺めながら漆黒のカルマは笑う。

 化け物が溢れて人の世界を蹂躙する……。それは四年前に高層都市 《富士》を崩壊させた事件の再現のようだった。




 カルマが溢れているという情報が錯綜し、膨大な人間を詰め込んでいた街は混乱に陥る。恐怖に我を忘れた人々が逃げ惑う中で、ユイに支えられながら進んでいたツカサは突然怯えるように歯を鳴らしながら座り込んでしまった。


「ツカサ! ツカサ、しっかりして!」


 ツカサは呼吸を荒げながらも、なぜか頬が紅潮している。不気味な違和感を覚えたユイがツカサの顔を覗き込むと、怯えるような視線はツカサの左腕に注がれていた。


「その腕…………!」


 ボロボロに引きちぎれた左腕の袖の隙間から明らかな異常が見えた。ツカサの左腕がみるみると人形のような腕に浸食されていく。


「ユイ……怖い。腕が……喰われる……。なのに……なぜか気持ちいいんだよ………。」


 ツカサは恐怖に震えながらつぶやく。白く硬質化した陶器のような皮膚と人間の皮膚の境がうごめき、無数の小さな歯が現れては、ツカサの正常な肉を喰らいながら領域を広げている。

 ツカサの左腕ははじめ、指先から肘の下までが変質していた。しかしすでに変質の境目は肘を越えて上腕部に達している。その変化はツカサに憑りついたカルマが体を乗っ取っていくことを物語っているようだった。腕が削られているのに快感が脳をくすぐり続ける。


「止ま……れ……。」


 ツカサが声を絞り出すようにつぶやくものの、浸食は止まらない。


「ど……どうすれば……。」


 ユイはおろおろしながらも、ツカサの異常が人目に触れないようにとっさにツカサの左腕に覆いかぶさる。




 そんなユイに視線を移した時、ツカサは自分の目を疑った。

 ユイの体が透き通って輝いて見える。皮膚の下をさらさらと優しい光が流れているのだ。ケイジたちがあの特殊な力を使う時に放出していた光によく似ているが、それよりももっと……、そう、まるで陽光を受けた水面のようにきらめく美しい光だ。

 ユイにも特別な力があるのかと錯覚したが、それは違うとツカサは思った。変わったのは自分の目の方だ。街路の隅を走るネズミやそこらに生えた植物も、ツカサが目を凝らすとかすかに光を帯びているように見える。


「……命……なのか? 命が光として見えている?」


 さらにツカサを強い飢えが襲う。

 抗えないほどの飢餓感。

 それと同時に感じられる暖かさと甘い匂い。

 ツカサはその匂いと熱の出所を探るが、それはとても容易いことだった。


 ユイだ。

 ユイの体を覆う光のぬくもりや香りを感じたツカサの口には唾液があふれる。

 本能が呼びかけてくるのがわかる。

 あの光を取り込めば満たされると。


「…………ツカサ?」


 戸惑うユイをとろけるような視線でツカサは見つめる。

 その青い瞳に吸い込まれるようにツカサはユイの手を引き寄せ、その滑らかな首筋に唇を触れさせた。


「あっ……。」


 ユイの体がかすかに震えたが、首筋に歯を押し当ててもユイは動かなかった。何かを察したように、ただそっとツカサの体に手をまわす。





 ユイの指が触れた瞬間、ツカサの中にかすかに残った理性が叫び、とっさにユイから自分の体を遠ざけさせる。


「お……お、俺は…………。」


 爆発しそうなぐらいに心臓が暴れ、朦朧とした意識の中でユイを見つめる。ユイは恐怖など微塵も見せず、不安と心配が入り混じった目でツカサを見つめていた。

 その視線を受けとめるツカサは、自分が今やろうとしたことが信じられなかった。


『俺は……食べようとしたのか? ……ユイを。』


 襲い掛かる罪悪感。

 しかし止まらない欲求。


『死にたくない。苦しい。カルマが……俺の中にいる怪物が、喰えと言ってる。』

『ダメだ! そんなのダメだ!』

『喰いたい。ユイを喰いたい。』


 とりとめのない思考が頭を埋め尽くしていく。自分の鼻孔をくすぐる香りが現実なのかどうかも区別がつかない。あのユイの体を流れる光こそが救いなのだと内なる怪物が脳をくすぐる。


『なんでこんなことになってしまったんだ? 俺は悪いことをしたのか? ……ただ、みんなを助けられると思って保管容器をこじ開けただけだ。あの中に、どうしてカルマが入っていたんだ? なんでカルマなんてものがいるんだ? 本に書かれている昔の地球にはそんなものはいなかった。こいつらはなんなんだ?』


 剣先を向けるケイジの凍りついた目をツカサは思い出す。


「……もう、いやだ……。」

「ツカサ……落ち着いて……!」


 後ずさるツカサに向かって手を伸ばすユイ。その手をツカサは払いのけた。


「来るな!」


 立ち上がったツカサの頬に涙が伝う。小刻みに震える唇は懇願するように言葉を漏らした。


「……もう、助けないでくれ。」


 ツカサはそういい残し、酷い飢餓感に耐えながらひとり走り出した。







 居住区画にカルマが溢れ始めていた頃、巨大な防護扉の元にたどり着いた鰐塚達は困惑していた。この扉を抜ければ惨劇に見舞われた東塔のスラム街を脱出することが出来る。しかし防護扉は強固に閉じられ、何者も逃がさない巨大な鋼鉄の壁となって立ち塞がっていた。


「一体……ここで何があったんだ。」


 防護扉の開閉を管理する操作室の中で、鰐塚と飛弾は途方に暮れてあたりを見渡す。狭い床の上には胴体を握りつぶされた兵士が倒れているが、あたり中に飛び散っていてもおかしくない血液はただの一滴もこぼれていない。遺体の頭上では扉の制御装置の残骸がはらわたをむき出しにしたまま、放電の火花を散らしている。


「飛弾よう。……この死体はここで防護扉を管理してた奴のはずだよな?」

「ああ。俺らの言うことを聞くしか能のない下っ端の兵士だ。」


 この兵士は軍とつながりを持つ鰐塚にとっては手駒のようなものであり、本来であればこんな場所で足止めを喰らうことなく扉の向こうに逃げおおせていたはずだ。しかし扉は閉鎖されたまま制御装置が破壊され、兵士も死んでいるのだ。


「これでどうやって脱出しろっていうんだ。組合の連中がいない日だったのが裏目に出たな。」


 苛立ちを隠せない鰐塚を横にして、飛弾は険しい顔つきで遺体の眼に触れている。


「……どうした? 工場に現れた奴の仕業か?」

「あの黒い奴の仕業に間違いはないだろうな。……だが鰐塚よ。奴が現れてから一時間もたっていないはずだよな。」

「……ああ、ついさっきのことだからな。何かおかしい点でもあったのか?」

「この死体の目、白く濁ってるのはわかるか?」


 飛弾が示した死体の目は確かに白く濁っていた。


「こういう状態になるには死後六~七時間……仮に目が開いたまま状態でも一時間はかかるはずなんだ。そして二時間前の時点では防護扉に異常がなかったことは分っている。」

「………なるほど。つまり俺たちが保管容器を開けようとする前に、すでにここは襲われていたっていうことだ。しかし、だとすると防護扉の周辺で他に被害が出てないのはおかしくないか? ……俺たちがここに来たとき、すでに人だかりができてたのに扉が開かなくて困惑してるだけって面だった。」

「あの黒い奴はあらかじめ扉を封鎖した後、《何もせずに》遠く離れた工場まで来たってことだろうな。……食欲で動くカルマとは明らかに異なる。随分と人間臭いカルマとは思わねえか?」


 その言葉に鰐塚の目が見開いた。


「カルマ憑き……。あの黒い奴の正体が人間モドキっていうことか!」


 鰐塚は顔を紅潮させ、壁を何度も蹴り続ける。


「クソが! 人間様をなめんじゃねえよ! 俺の計画を知ってた奴の中に裏切りモンがいるって話だろ? 誰だ。技師組合の連中か? 全員の身ぐるみ剥いで調べてやろうか。」

「鰐塚。……あまり声高に言うもんじゃない。身体検査をするのはいいだろう。……しかし見つからなかったらどうする。《イレギュラー》が存在する可能性を住民に知られてしまうのはまずいという話だっただろう。」

「イレギュラー……。まさかその線を疑っているのか?」


 飛弾の指摘を受けて鰐塚の勢いが止まる。


「そうだ。あの黒い奴がカルマ憑きだとすれば、奴はこの事件よりも前から街の中に潜んでいた可能性がある。身体検査をスルーできた可能性もな。………住民はお手軽な身体検査でカルマ憑きを見つけられると信じているから、もし例外があるとわかればパニックになる。」


 鰐塚はあご髭を触りながら操作室の外に目をやった。そこには不安な顔つきで顔を見合わせている住民たちがたむろしている。もしかするとすでにその中に漆黒のカルマが潜んでいるとも限らない。完全に人間に化けているとなれば、何食わぬ顔でこの地を離れる可能性もある。


「ふうむ………。じゃあ優先順位を決めて秘密裏に調べればいいだろう。ひとまず組合には今日やってるっていう集会の参加者名簿を提出させるとしようか。いない奴が怪しいわけだ。」

「組合を疑うのは前提なんだな。ボスのことはいいのか?」

「あんなに手際よく防壁に穴を開けられる連中、組合の連中の他にそうそういてたまるかよ。………それに、なんにせよクソジジイを殺すのは決めてるんだ。ひとまず今は目の前の火の粉を振り払わねえとな。……調査には精神介入が可能な奴を当たらせろ。……飛弾もそろそろ身に付けたらどうだ?」


 飛弾は肩をすくめながら困った表情で壁にもたれかかった。


「何事にも得手不得手はあるもんだ。うちの組だとケイジが適任だろうな。………しかしアレは取り返しがつかんぞ。どうやっても精神が壊れるし、十中八九死ぬ。組合を敵に回すぞ?」


 鰐塚はそんな飛弾の懸念を一笑に付した。


「スラムのエンジニアなんぞ何人いなくなろうが構いやしねえよ。本物の天才様は軍にいるわけだからな。……ひとまず一番の容疑者は鍵開けのガキ共だ。カルマ憑きだったんなら何ができてもおかしくはない。」





 その時操作室の戸口に一人のギャングの男が現れた。


「鰐塚さん、飛弾さん、……お話が………。」

「おちつけ。……お前、ケイジの下にいた奴か。どうした?」


 息を切らせながら、ケイジの部下は緊迫した表情で二人を見つめる。その様子はただ事ではないことを物語っていた。

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