第二章 5 『守りたい人』
漆黒のカルマが去った後の廃工場は静けさに包まれていた。
溢れだしたカルマ憑きの群れは漆黒のカルマに吸収され、ケイジたちは図らずも九死に一生を得ていた。
「なんでカルマ同士で共食いしてたんでしょうか……?」
ケイジの部下が不思議そうに漆黒のカルマが去った方向を見つめると、ケイジが答えた。
「カルマ憑きを喰う度に奴はデカくなっていた。……おそらく回復のためだったんだろう。全く攻撃が効いていないように思えたが、多少でも効果があったと信じたいところだな。」
「……隊長、猶予はないっすよ。今は汚染層の波が下がってるだけ。すぐに次の波が来ます。」
床に開いた大穴を観察していた部下がケイジの方を振り返る。その報告を受け取ったケイジは「ああ」と短くうなづいた後、地面に転がるツカサに目を落とした。
ツカサの体にはヘドロのようなカルマの残滓にまみれた白い繊維が纏わりついている。繊維は皮膚と一体化しており、左腕に至っては肘あたりから先が人形のような構造に変貌している。
「……ツカサ。残念だよ。……そうなってしまったからには、二度と人間に戻れない。」
その時、ケイジの部下の腕を振り払い、ユイがケイジの元に駆け寄った。
「やめろ、ユイ! 死ぬぞ!」
しかしケイジの制止など意に介すことなくユイは異形と化したツカサの体を抱きしめた。
ツカサの体を覆う繊維が意志を持っているかのようにざわめき、ユイに向かって逆立つ。次々とユイの体に突き刺さる棘。しかしユイはそれでも愛おしそうにツカサの頬に手を触れる。
「無茶しないでって……言ったじゃない…………。」
ユイの唇が震えている。
「自分を大切にしてって、言ったでしょう?」
純白の繊維の隙間から覗いているツカサの頬に水滴が落ちる。
「ユイ……。ごめんな……。」ツカサがつぶやく。「こんな姿、見たくなんてないよな……。」
意識を取り戻したツカサの目には徐々に光が戻っていく。
ツカサはかろうじて動かせる右手で自らの顔をつかみ、その指を皮膚と白い繊維の隙間に強引にねじ込ませた。皮膚と癒着した繊維を引きちぎると、皮膚にひび割れのような白いアザが広がる。それはツカサの左腕に生じたアザと同じものだ。ツカサの顔が苦痛に歪む。
「あ……あ……だめ!」
「すぐに……元に戻すから……。」
痛みなんて構わないとでも言うかのように、ツカサは全身を覆う布状のカルマの体をはぎ取っていく。ひび割れるようなきしむ音が響く。
「し、死んじゃうよ。」
それでもツカサは止まろうとしない。
「俺は戻るんだ、人間に。…………こんなもの、いらないんだ!」
ツカサは雄たけびと共に一気にはぎ取り、純白の繊維は弾けるように霧散する。
全身にひび割れのようなアザが浮かんだツカサは、それでも人の形を取り戻していた。ただ一つ、人形のように変化した左腕はそのままに残して。
「……無茶をしたんなら、最後までやりきらなきゃダメだよな…………。」
「ばか……。そういうことじゃ……ないよ……。」
涙目で紅潮したユイを見てツカサは申し訳なさそうに微笑む。
しかしそんなツカサの行為をケイジは呆れるように見下ろしたままだ。
「そんなことをしただけで、人間に戻れたなんて思ってないだろうな。カルマ憑きを治すことはできない。……今がたとえヒトの形に戻っているとしても、それは見せかけだ。」
ケイジは空中に生成した剣をツカサに向ける。
「俺を……殺すのか?」
「当然だ。……カルマ憑きは不幸をまき散らすだけ。時間もない。ひと思いに楽にしてやる。」
ツカサは眼前に浮遊する切っ先に確かな殺気を感じた。ケイジの力は間近で見て知っている。至近距離から撃ちだされる強大な一撃を前にすれば、人であろうとカルマであろうと、待っているのは死のみであろう。
脅威は排除されるのが当然だろう。しかしカルマ憑きになってもツカサは生きたかった。全く抗うことなく死を受け入れられるほど達観してなんていない。そこに理屈はない。生きるという本能が強く強く心を突き動かしていた。
一瞬の静寂のあと、ケイジが怒声と共に剣を撃ち出した。
ツカサはケイジに勝てるなんて考えていない。ただ逃げることだけに集中する。射出される大剣の軌道を読んだツカサはとっさに横にすり抜け、ユイの手を取って走り去ろうとした。
しかしユイに延ばしたツカサの手は届くことなく、まるで岩がのしかかってきたかのようにツカサは地面に押しつぶされてしまった。何もないはずなのに圧倒的な重量がツカサを襲う。
「霊殻の力が目に見える武器だけだと勘違いしてないか? 《霊殻》は自分のテリトリーの中を支配する力だ。この俺の身に纏っている光の領域すべてがお前を縛る力なんだよ。」
ケイジが力を込めると光の粒子が凝縮し、新たな剣が幾振りも現れる。
その時ツカサの体の周囲に一瞬だけ黒煙のようなものが揺らめいたのをケイジは見逃さなかった。黒煙はたちどころに消え、ツカサ自身も気が付いていなかったようだ。
「……これは……まさか、奴も中に…………?」
目の前の異常に意識をとらわれるケイジ。そのわずかな隙が生じた時、ケイジの背後からすさまじい速度で拳が振り下ろされた。
鈍い音と共にケイジが力なく膝をつく。
目に見えないほどの早業でケイジを打ちのめしたのはユイだった。
「ツカサは死なせない!」
青い目が血走ったように怒りをにじませている。
あっけにとられていたギャングたちは、我に帰るや銃を構える。
しかしユイは周囲の動きがすべて把握できているかのように、流れる動きで的確にギャングたちの膝を蹴り、みぞおちを叩き、銃を奪い去っていく。それはまるで舞のようだった。
「くそ!」
「この女、強いぞ!」
ギャングたちはとっさにナイフを抜くものの、それさえも瞬く間に蹴り上げられてしまう。急所を的確に殴打されたギャングたちは地面に伏し、牽制として放たれる銃弾を前にして動きが取れなくなってしまった。
ユイは銃口をギャングたちに向け、眼光を光らせる。
「……当然だ。ユイは軍隊格闘術の使い手だ。……どこの流派か知らんがな。」
ケイジは血の混じった唾を吐き、立ち上がる。
「ユイ、こんなことをしている場合か! すぐにまたカルマがやってくる。その前にツカサを楽にしてやるんだ! それがこいつのためだ!」
「ツカサは私が守る!」
「狂犬か、お前は!」
ケイジはとっさにユイに向かって手をかざすが、光の領域が出ない。ケイジの表情に明らかな焦りが浮かんだ。ケイジは慌てて腰のカバンに手を滑り込ませる。
ユイはその隙を見逃すことなく、ケイジに詰め寄るとその手を激しく殴打した。痛みに顔をゆがめたケイジの手からは赤い溶剤の入った注射器が零れ落ちる。
「その薬、このタイミングで使おうとするっていうことは能力の元なんだよね? 力が切れたっていうことでいいのかな。」
ユイは注射器を踏みつぶす。周囲のギャングがとっさにユイに向かって手を向けるが、ユイは動じなかった。
「……あなた達も力は使えない。力があるなら最初から銃なんて使おうとしないでしょう?」
ユイの戦いに見惚れていたツカサは、その言葉を耳にして自分の体にのしかかる圧力が消えていることを自覚した。よろけるように立ち上がろうとしたとき、ユイがその手を握る。
「走れる?」
「……ああ。」
ユイは床に転がるギャングたちに銃口を向けたまま後ずさる。
「カルマの群れが近いんだよね。……足止め、よろしくね。」
「逃がすか……!」
ケイジは叫ぶものの、カルマの接近を前にして倒れる部下を放置できない。拳を握りしめながら二人の背中を見送ることしかできなかった。
「………クソったれ……!」
ケイジは音がするほどに歯を噛みしめながら廃工場の中を見渡す。
そこには破壊されてしまった床面防壁と、無残に転がるギャングたちの死体。そして蓋が開かれたままの保管容器が静かに佇んでいる。
なぜこの保管容器にカルマが入っていたのか。容器を開けようとした今日この日に漆黒のカルマが襲撃してきたのは偶然なのか。数々の疑問が浮かぶものの、考えていても仕方がない。今は何よりも、このスラム街に発生した未曽有の危機をどうにかしなければならなかった。
高層都市はカルマの侵入を阻む絶対の防壁で守られている。しかし防壁を壊すことのできるカルマの出現によってその前提は失われてしまった。
「……行こう。俺たちには防壁を直せない。できることと言えば、カルマを殺すことだけだ。」
ケイジは生き残った部下たちと共に漆黒のカルマが逃げ去っていった方角を見据える。
「でも隊長、どうやって? あの黒い奴が防壁を壊せるなら、この高層都市は破れた網のような物。どうやって捕まえればいいんです……。」
「…………。きっとまだ……手はあるさ。」
そう言って、ケイジは廃工場に放置されたままの保管容器を見つめた。
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