第二章 1 『もう見捨てたくないモノ』
高層都市を照らす太陽が傾いてきたのだろう。防壁に囲まれた都市の内部も夕焼けの色が濃くなりつつある。ツカサは疲れ果てた体を引きずるように家路を急いだ。急いで帰らないとすぐに夜になってしまう。
高層都市はカルマの侵入を防ぐために内外が完全に隔絶されているが、光ファイバーを通して外光が取り込まれている。スラム街では発電設備が脆弱であり、夜は街のほとんどが闇に包まれるため、おのずと人は生活を太陽の動きに合わせることになっていた。
ツカサが自宅の前まで帰ってきたとき、細い路地の奥で小さな人影を見つけた。ソラに違いない。大人のサイズの服をダブついたまま着ているので遠くから見てもよくわかる。
ソラは今年で十二歳になるのだが、《富士》で暮らしていた頃から身長は伸びないままだ。栄養不足が続くスラム街の生活では成長に支障が出ているのだろう。サイズの合う子供用の服も手に入れることができず、いつも大人用の服を身に着けていた。
呼びかけるとソラは嬉しそうに走り寄ってきた。手にはズタ袋を持っており、その袋の口からは錆びた金属片や薄汚れた機械が覗いている。ゴミあさりから戻ってきたところのようだ。
「……ソラ。せっかく熱が下がったんだ。無理してゴミ拾い行かなくていいよ……。」
「兄さんが頑張ってるのに、僕だけ寝てるわけにいかないじゃない……。」
ツカサが仕事をしているとはいえ、決して生活が安定しているわけではない。少しでも家計の補助になればと、ソラは病気がちなのにしょっちゅうゴミあさりに行っていた。
スラム街ではまともな収入源が非常に少ない。ほとんどの人々は上層階にある《上の街》から捨てられるゴミをあさり、再利用可能な素材を売ったり、直して使うことで日々の暮らしを維持している。資源も土地も、まともな設備すらないスラム街では、人々は上の街からのおこぼれに頼ってかろうじて生きているのだった。
「早く家に入ろう。」
せき込むソラの手をツカサはそっと握りしめた。
家とは言っても、廃材を集めて作った粗末で狭いものである。スラム街では住民それぞれが無計画に家を作っているため、街はさながら迷路のような状態と化していた。火事や地震のたびに補修を加えるため、街並み自体も容易く変わってしまうのだ。
家の中も薄暗く、まともな家具と言えば作業用の机とイスぐらいしかない。
ツカサが廃油を固めた自家製のろうそくに灯をともすと、部屋の隅に置かれている食卓代わりの木箱の上には三組の食器が朝出かけた時のままの状態で重ねられている様子が見えた。
「ユイは帰ってないのか?」
「わかんない。僕も帰ったばかりだし……。」
ユイは故郷である高層都市 《富士》から脱出する際に出会った少女だ。共にこの高層都市 《天城》に逃げ延び、その時の縁でずっと共に暮らしていた。
「そうそう。臨時収入があったから、奮発してパンと肉を買ったんだぞ!」
ツカサはカバンから食材を出した。ケイジにもらったお金で買ったものだ。
「お肉!」
「ああ。市場で鶏が飼われているだろ? いつか食べてみたいと思ってたんだよな。」
「やった! じゃあね、サンドイッチがいいな。……昔、母さんが作ってくれた感じの!」
ソラは満面の笑みを浮かべる。母さんという言葉に胸が痛むが、ソラが喜んでくれるならこの上なくうれしいことだ。
その時ソラも何かを思い出したようにズタ袋の中をまさぐり始めた。
「僕も兄さんにお土産があるんだよ。」
ソラは袋から数冊の本を取り出す。物理学や数学の専門書。ついでに古い小説もいくつか混ざっていた。いずれも新刊だと《上の街》でなければ手に入らない代物だ。
「ゴミ山で見つけたんだ。汚れてるけど、兄さんの書庫に並ぶなら、本もきっと喜ぶよ。」
「……すごいな、この本は探してたやつだよ。すげえうれしい。」
ツカサの本好きは技師組合の中でも有名だった。スラムに移り住んでからは学校に行くことのできなくなったツカサ達にとって、本は夢と知識を与えてくれる大事なものだ。仕事柄ということもあって学術書の方が多くなってきたが、小説や漫画も随分と増えた。少しずつ集めた本で、ツカサが自宅に作った書庫も今ではちょっとした図書室ぐらいになってきたのだった。
「今日も勉強を教えてもらっていい?」ソラが目を輝かさせてツカサにせがむ。「僕も、早く兄さんみたいに街を守る仕事がしたいんだ!」
「もちろんさ。」
ツカサは応えたものの、立ちくらみのような気分の悪さを感じた。
仕方がないことだ。今日という日は、ここしばらくの中でもとびきりに異常な事件に巻き込まれた日なのだから。カビに包まれた世界、虫に内部から食い尽くされるギャングたち。我が家に戻ってこれたという安心感が、これまで押さえつけていた疲労感を一度に吐き出させているに違いなかった。
「……兄さん。その左手、どうしたの?」
ソラがツカサの左手をいぶかしげに見つめている。
何の自覚もなかったツカサがふと自分の左手を見てみると、広い面積にうっすらと一直線の白いアザができていた。それも何本ものスジが伸びており、まるで腕にひびが入っているようにも感じさせる。左手と言えば、ケイジを助けようとしたときに激痛が走ったことが引っかかる。しかしあの時はアザなんてなかったはずだ。
「今朝出かけたときはなかったと思うんだけど、今日何かあったの?」
「な、なんだろうな。………薬品がこぼれた時があったから、もしかするとその時かもな。」
ツカサはとっさに嘘をついた。説明するとなるとカルマと遭遇した事件に触れざるを得ない。あのカルマはケイジたちの手で殲滅できたのだから、無用な不安をあおりたくなかった。
「痛みとか違和感は全然ないからさ。大丈夫だよ。」
ツカサは精一杯の笑顔をつくるが、ソラの不安そうな表情は消えない。
「勉強は一人でできることをやるよ……。兄さんは着替えて休んだ方がいいと思う。」
確かにツカサの体はほこりと汗のほかに、汚水でひどく汚れている。汚水まみれの市場でひったくり犯に蹴られて床に突っ伏したせいだろう。
「あ、悪い。臭かったよな。水でも浴びてくるよ。……ソラも久しぶりに一緒に行くか?」
「い、いいよ! 体が冷えちゃうし。……あ、あと兄さんのこと臭いなんて思うわけないよ。」
頬を紅潮させて懸命に否定するソラの頭をツカサは撫でた。
「はは。分ってるよ。……でも臭いのは事実だしな。……ちょっと水場に行ってくる。」
水浴び場は高層都市を支えるいくつかの巨大な柱のたもとに作られている。すべての家に上下水道を整備するなんてことは不可能なので、共同の水場として使われているのだ。支柱の内部には地下水をくみ上げる配管が存在するので、無断で穴を開けて水を盗んでいるわけだ。
水場と言ってもきちんと整備されているわけではなく、張り巡らされた配管の隙間にフェンスが置かれ、炊事用の空間と水浴び場に分けられている。水浴び場の空間自体はそこそこ広いが、設備は配管に穴を開けて蛇口とシャワーヘッドを取り付けただけの簡易なものなのだ。
せめて暖かな湯を浴びることができれば最高なのだが、そんな贅沢は言っていられない。日が暮れる前の暖かい時間でなければ、冷たい水で風邪をひいてしまう。冬にでもなれば水浴びは苦行でしかないので、今が夏であることは幸いだった。
ツカサは鉄格子のように入り組んでいる水道管の隙間を通り抜けると、後付けされたフェンスについているダイヤル錠をつまみ、地域ごとに教えられている暗証番号に合わせて扉を開ける。水浴び場ではどうしても無防備になってしまうため、防犯用に取り付けられているものだ。
水浴び場の札が《使用中》でないことを確認したツカサが扉を開いた時、目に飛び込んできたのは黒髪の少女の一糸まとわぬ後姿だった。水浴び場の天井の隙間からは外の光が入り込んでおり、黄金色の陽光に照らされる白い肌は水滴をきらめかせている。
振り返った少女の青い宝石のような目がツカサに向けられる。
ユイだった。
「あ、ツカサ。おかえりなさい。」
ユイは落ち着いた様子で微笑む。
「ご……ごめん!」
気まずくなってツカサはとっさに扉を閉めたが、すぐに扉が開いてユイが裸の上半身を外に突き出してきた。
「……あ、やっぱりだ! ごめんね、札を変えるの忘れてたみたい。」
ユイは入口に掛けられている札をひっくり返して《入浴中》に変える。ツカサとユイの顔は密着するほど近く、長い髪を伝い落ちる雫がツカサの頬を濡らした。
「水浴びに来たんでしょ? すぐに代わるから待って……て……。」
言いかけたユイの視線がツカサの左手に止まる。
「どうしたの、そのアザ……。それに顔色も悪い。」
「なんでもないよ! 仕事中に薬品を浴びてしまってさ………。」
とっさに手を隠そうとするが、ユイはツカサの左手を握って観察する。
「皮膚がなんか硬くなってる……。白斑でもなさそうだし、薬品というのも嘘でしょう?」
ユイの青い目がツカサの心を見すかすように突き刺さる。実際のところ、勘のいいユイに対して下手な嘘をつくことは逆効果にしかならない。勘がいいだけではなく、ユイは本当に様々なことに詳しい。ツカサのエンジニアとしての技術を高めてくれたのは技師組合の職人よりもユイのおかげである部分が大きいし、ツカサの自慢の書庫も実のところは大半がユイが集めてきた本で埋まっている。医学的な知識には何度も助けられたことがあった。
「……わかった。言う。言うから……待ってくれよ。」
ツカサはユイを直視するわけにはいかずに目を背ける。
「待つって、何を?」
「早く中に入ってくれ!」
「…………あ。」
ツカサの指摘によってユイはようやく自分が裸のままで外に出ていることに気づき、あわてて水浴び場の中に戻っていった。
気まずい沈黙が流れるが、ドア越しのくぐもった声がツカサを呼ぶ。
「……それで、どうしたの?」
「まあ、……うん。…………実は、カルマと戦闘になったんだ。」
「カルマと……。そっか、大変だったんだね。」
随分とあっさりした反応だと思った矢先、扉が再び開いて裸のままのユイが飛び出してきた。
「汚染層に降りたっていうこと?」
ゴミ集積場での事件やケイジと一年ぶりに再会したことを一通り説明すると、扉の向こうでユイが深くため息をついた。
「……で、ケイジを助けようとして、気が付いたら飛び出しちゃったんだね。そのアザはその時のことがきっかけだと思うの?」
中で服を着ているのだろう。ユイの声と共に布ずれの音が聞こえてくる。
「……うん、他に思い当たる節がないもんな。……痛かったのはあの瞬間だけで、もう大丈夫なんだけど。………ユイはこういう症状について知ってるか?」
ツカサの問いにしばらくの沈黙が続いたが、ユイは「わからない」とだけ答えた。
わからないのは仕方ない。このアザはあの《霊殻》とかいう特殊能力、もしくはカルマに関係している気がしていたが、正確に答えられるのはきっと軍の研究者ぐらいなものだろう。言い知れぬ不安がツカサの胸に湧きあがる。せめて、これがカルマに関係するものでないことを祈るばかりだ。
「…………ただ、ひとつだけはっきり分かったことがありました。」
「なんだ?」
「ツカサがまた、無茶しちゃったってことがわかりました。」
かしこまった雰囲気の声にツカサが振り向くと、着替え終わったユイがすでに水浴び場から出てきており、ツカサの背後にしゃがみこんでいた。
「自分がどうなるかをぜーんぶ棚上げにして飛び出しちゃったってことでしょう? ……無茶しないって………約束したはずなのになあ。」
そう言いながら、ユイはツカサの服をめくり上げる。そこにはまるで獣の爪で削られたような痛々しい傷跡が消えずに残っていた。
「ああ、この怪我のことか……。」
ツカサはスラム街に移住した直後、なりふり構わず誰かを助けようとする行動を度々とっていた。それは両親やソラを見捨ててしまった後悔の反動であり、正義感から来るものでないことを自分でも理解していたが、人助けの正しさによって自分の罪に蓋をしようとしていた。
この体の傷はその昔、カルマに憑りつかれてしまった少女を何とか助けようと軍事拠点に侵入し、手掛かりを探っていた時の傷だ。軍の能力者からとっさにユイを守ろうとして酷い傷を負ってしまった。
「この怪我の時も、結局最後は捕まっちゃったわけだしなぁ……。」
「そうだよ。そもそも軍の施設に侵入するところからして、ツカサは後先考えずに行動しすぎ。……むしろツカサって、無茶することで自分に罰を与えようとしてる節があるでしょ。」
思いがけぬ指摘にツカサは図星を指された気分になった。誰かを助けたいとは思っていたが、罰を与えるということまでは自覚していなかった。
「いやいやいや。さすがにそんな自分に酔った考えしてないって。」
「そう? ……むぅ。まあいいや。もう無茶はしちゃダメだよ? まずは自分を大切にしてね。」
そう言ってユイは不意に小指を差し出した。
「え、なんだ?」
「約束するときに、小指と小指を交差させて『ゆびきりげんまん』って言うのが昔の日本の風習なんだって。」
ツカサは首をかしげながら、ユイに言われた通りに指を結んで言葉を口ずさむ。そうするとユイが歯を見せるように満面の笑みを浮かべた。
「確かに約束したからね。……ちなみにこれは『約束を破ると指を切る』っていう意味で、『げんまん』は拳骨で一万回殴るよっていう意味だから。」
「こ、こええよ……。それにユイに殴られたら、俺……死んじゃうだろ……。」
ツカサが悲鳴を上げても、ユイはいつまでも笑い続ける。
いつの間にか日は傾き、あたりは夕闇に包まれる時刻になっていた。
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