第一章 2 『ヒトの持つ刃』

 ツカサが向かったのは市場だった。

 配管の断裂があるというので溶接の機材一式も技師組合から貸し出しを受けている。


 市場と言っても、《上の街》から廃棄されたわずかな食糧や物資を取り扱っている場というだけであり、決して活気があるわけでも物であふれているわけでもない。市場の通りは人があふれるほどに多いのだが、それはスラム街に逃げ込まざるを得なかった人間が多いだけだ。食料を買う金にも困窮している人々の表情は一様に重く、ギャングが気まぐれにばらまくおこぼれに期待して集まっているだけだ。

市場は排水路が詰まって汚水が通りに垂れ流しとなっており、虫があちこちにたかっている。不衛生な場所でも構わず座り込む人々の顔は痩せこけていて立ち上がる活力もないようだ。排水管清掃も必要だなと考えながらツカサは通りを進んでいく。


 市場に並ぶ店々は盗難を防ぐために商品は金網の向こうに並べられ、小さな格子窓を通して客と店主がやり取りしている。ときおり聞こえる鳴き声は商店の奥で飼われている鶏の声なのだろうが、肉なんてものはギャングぐらいしか口にできない高級品だ。ツカサが買えるような食材と言えば保存用に干された野菜くずや穀物らしき粉、豆類の缶詰、得体のしれない茶色いものが入った瓶詰などがせいぜいだ。

 その昔、人間が地面の上で暮らしていた時代には豊かな食材に囲まれていたようだが、海も大地も奪われた現在ではそんなものは望むべくもない。機械が汲み上げる地下水や鉱物資源を除けば、スラム街に出回る物は《上の街》からの廃棄物が大半であった。


「鰐塚が幹部になってからだ。こんなにもひどくなったのは……。」


 市場の隅で座り込む者たちがギャングたちに聞こえないような小さな声で話し込んでいる。

 鰐塚とはこのスラム街を支配するギャングの幹部だ。彼はかねてから軍とのパイプを持っているようで、鰐塚のグループは大量の武器を仕入れてスラム街を暴力で支配するようになっていた。鰐塚はこの四年ほどの間に急速に頭角を現し、ギャングのボスの座を狙っているのではないかと囁かれている。


「……ギャングの妙な薬……か。」


 ミツルが言っていた言葉が引っかかる。カルマから街を守る防壁を作り上げた軍であればカルマへの対抗手段を持っていてもおかしくない。そしてその軍とつながっている鰐塚。何がギャングに流れていてもおかしくはなかった。




 ツカサが考え事をしながら歩いていた時、唐突にツカサの体が突き飛ばされた。よろけるツカサは遠ざかっていく人影の手にツカサのカバンがあるのを見る。ツカサの仕事道具と給料が入ったカバンがひったくられてしまったのだ。


「くそ、全部持っていかれた!」


 ツカサが追いかけようとしたとき、さらに背後から別の人影がツカサの頭部を蹴り飛ばす。頭が外れてしまうかと思うほどの勢いでツカサは汚水まみれの地面に転がった。


「ハハッ! ぼーっとしてんじゃねーよ、マヌケ!」


 銃口をツカサに向けたまま、笑って走り去る少年たち。ツカサはぐらつく視界の中で姿を覚えようとにらみつけるが、すでに彼らは市場の奥へと走り去ってしまった後だった。

 通行人が誰も手を貸してくれないまま、ツカサはふらつきながら立ち上がる。追いかけないわけにはいかない。仕事道具がすべて盗られたのだ。特に携帯用の溶接機材は非常に高価なもので、失ったとあれば大変なことになってしまう。ツカサは青ざめた。



 ひったくり犯が逃げて行った方向は一本道で、しばらくするとゴミの集積場が見えてきた。

 《上の街》からの廃棄物が無造作に流れ込む集積場はスラム街にもいくつか存在しているが、この先にある《三区の集積場》は今のツカサにとって忌まわしい近づきたくもない場所だった。

 あそこのゴミ山の下にはほとんどの人に知られていない廃屋が埋もれている。その廃屋はかつてツカサやケイジが孤児仲間と共に隠れ住んでいた場所であり、今はギャングに奪われて奴らの根城となっている。暴力によって平穏が奪われた記憶はまだ風化していない。

 ツカサは躊躇しながらも、足を踏み出した。カバンを奪われたままではツカサだけではなく弟のソラまで路頭に迷ってしまう。それだけは絶対に避けたい未来だ。



 まさかこの直後に事件に巻き込まれるとは、この時のツカサには思いもよらないことだった。






 たくさんの悲鳴の波が押し寄せてくる中で、ツカサは愕然としながら立ち尽くしていた。

 三区のゴミ集積場からひどく怯えた表情でギャング達が逃げ出してくる。

その奥に見える廃屋の入り口付近には人らしき者が立っているのが見えた。姿かたちは人間のはずなのに、その体は虫食いのような穴だらけになっている。カルマだとツカサは直感した。こうして遠くからでも姿が認識できるということは、目の前にいる異形はまだカルマになりきっていない《カルマ憑き》の段階なのだろう。


「…………ありえない。だってこの区画はミツルが整備したばかりなんだろう?」


 防壁は整備を行っている限り、確実にカルマの侵入を防いでくれるはずだ。

 しかし確かにカルマ憑きはここにいる。しかもカルマ憑きは猛然とツカサの前まで迫り、穴の奥で蠢いているのが無数の虫であることがはっきり見えるほどになっていた。ツカサはカルマ憑きの力に包まれ、周囲がカビだらけの世界に見えるようになっている。


 ツカサの横で腰を抜かしたギャングがショットガンを撃ち続ける。散弾が肉をえぐりとっていくが、肉体に開いた穴は瞬く間に虫が集まって塞がってしまった。カルマに憑りつかれた体をいくら吹き飛ばそうともカルマ自身に効果はない。やがて完全にカルマに変化した時には、弾は当たることなくすり抜け、その姿も見えなくなってしまうに違いない。

 このギャングだって銃が効果ないことぐらいは知っているだろう。それでも恐怖を前にすれば撃たないではいられないのだ。


 カルマ憑きは突然身震いし、穴と言う穴から無数の虫を噴出させる。きっとこれに触れられれば喰われるか憑りつかれるか……、いずれにしても最期に違いない。


『やられる…………!』


 ツカサが身をこわばらせたその時、虫の動きが空中で停止した。

 そして耳をつんざく轟音と共に、目の前のカルマ憑きが粉々に粉砕されて消え失せていた。





「よう、ツカサ。間一髪だったな。」


 懐かしい声にツカサが顔を上げると、そこには鋭く尖ったまなざしの長身の男が立っていた。


「…………ケイジ!」

「一年ぶりぐらいか? 元気そうじゃないか。ツカサがここにいるのは珍しいな。」


 全身を黒いミリタリージャケットで包む声の主は、ツカサがこのスラム街に移り住んだ頃からよくつるんでいた親友ケイジだった。ケイジはツカサより一歳年上のスラム育ちであり、この過酷な世界をたくましく生きている様は頼もしい兄のように感じられていた。お互いにギャングの存在を疎ましく思っていたのだが、一年前のとある事件をきっかけにケイジはギャングの兵隊になっていた。


 ツカサが周囲を見渡すと、先ほどのカルマ憑きが作り出していたカビの世界はすでに消え失せていた。大きな鈍器でつぶされたように見えたが、ケイジは武器のような物は何も持っていない。ただ、ケイジを中心におぼろげに光る透明な球体のようなものが現れていた。その球体は少し離れた位置にいるツカサを包み込むほどに大きい。


「怖い思いをさせたな。……ただ、安心するのは早い。」


 ケイジは周囲を見渡すと、うずくまって震えているギャングに険しい視線を投げかけた。


「やはり外に漏れていたか……。」


 ケイジがうずくまるギャングに向かって手を突き出すと、ケイジの手の周囲に巨大な鉄塊のようなものが出現し、そのギャングに向かって勢いよく撃ち放たれる。


「ケイジ! 何をするんだ! ……仲間じゃないのか?」


 ツカサの叫びは時すでに遅く、ギャングの体の半分が鉄塊によって叩き潰されていた。


「こいつはもう人間じゃない。カルマに憑りつかれている。」


 ケイジの言葉通り、その体の断面からは血ではなく虫が零れ落ちていた。ケイジは無感情に鉄塊をもう一つ出現させ、残った半身を残らず叩き潰す。


「お前ら、通りも確認しとけ。」


 ケイジが手のしぐさで指示を送ると、扉の奥からケイジと同じような黒いミリタリージャケットを身に着けた男たちが現れ、ゴミの集積場周辺の通りを捜索し始める。たちまちあちこちで悲鳴が響き渡り、虫のカルマに体を奪われた人間が殺されていった。




 ケイジはツカサの前にしゃがみこむと、観察するようにじろじろと嘗め回す。ツカサが言葉に詰まっていると、ケイジは安堵したようにつぶやいた。


「……ぱっと見る限り、ツカサはカルマ憑きじゃないみたいだな。よかったよ……。もし憑りつかれていたら、俺はツカサを殺さなければいけないところだ。」

「……防壁の中なのに、カルマが出たのか?」

「ああ。虫が群れたようなカルマが出現してな。……中にいた奴らはほとんどがやられたよ。中はもうダメだ……。ひとまずこの区画からカルマを出さないためにここまで来たところで、ツカサが襲われてるところに出くわしたわけだ。」


 ケイジは立ち上がると廃屋の入口を見張るように他の者に指示を出す。

 久しぶりに再会した親友の後姿を見上げながら、ツカサの中で疑問が膨らんでいた。ケイジはツカサが知る限り、こんな力は持っていなかったはずだ。少なくとも一年前の時点までは。


「……その力………薬のせいなのか?」

「へえ。…………どこで知った?」


 ケイジの眼が鋭く光った。ツカサが知っているのは不自然だとでも言いたいようだ。


「……お前が知る必要はない。ギャングに関わりたくはないだろう? ………それに、今は再会の感動を喜んでる暇なんてないんだ。」


 ケイジはそう言い残して廃屋の中に戻ろうとするが、ふとツカサの方を振り返った。


「……そうか、ツカサがいるなら都合がいいな。……再会のついでだ。一緒に来てくれないか? 《カルマ》の侵入を止めたいんだ。エンジニアとしてのお前に防壁の修理を頼みたい。」


 ケイジの申し出を前にしてツカサは動揺を隠せない。街の危機であれば駆けつけないわけにいかない。しかし簡単に割り切れるほど、ツカサにとってこの廃屋は気軽な場所ではなかった。


「……まあ、仕方がないか。俺たちのことは俺たちで何とかするよ。」


 ツカサが沈黙していると、ケイジは必要以上に迫ることなく背中を向けた。ケイジもツカサの心情を分かっているからだ。




 その遠ざかる背中をツカサは茫然と見つめていたが、気が付くと勝手に足が動いていた。


「ま、待ってくれ! 行く。行くよ。」

「無理しなくていいぞ。」

「私情を挟んでる場合じゃなかったよ。………街を守るのが俺の仕事だもんな。」


 ツカサが申し訳なさそうに苦笑すると、ケイジも穏やかに笑った。

 そしてツカサはいつもの癖でカバンを担ぎ直そうとしたが、肩が妙に軽いことを思い出す。


「あ。………そういえば仕事道具一式が盗まれたんだった!」


 仕事をすると言ってしまったものの、これでは力になることが出来ないではないか。ツカサが気まずい表情でケイジに視線を送ったところ、ケイジの方も何か思い当たる節があるように、建物の中に隠れていた一人の少年をツカサの前に突き出した。その少年はツカサからカバンを盗んだ少年たちであった。


「そのカバン、見覚えがあったからな。」

「す、すみませんでした! まさか隊長の知り合いだとは知らずに……。」


 慌てふためく少年の頭をケイジがひっぱたく。


「街を守ってくる大事な奴から盗むんじゃねえよ!」


 ケイジは少年からカバンを取り上げるとツカサの手に戻した。


「すまんな。うちのもんが迷惑をかけた。」

「……隊長?」

「ああ……。今はちょっと兵隊を預かってる身なんだ。まあ気にすんな。」


 そしてケイジはツカサの肩に腕を回した。


「じゃあ、行こうか。」

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