シェリー・レッド

須藤未森

***


 ねえ? せっかくだしさ、今日のやつ。つけてみてよ?

 ほとほと、と滴る生クリームみたいな甘い声で千冬は言った。私がシャワーから出てきて間もない、髪を乾かし始めたばかりのタイミングで。

「メイク落としたばっかだってのに、またつけろっていうの?」

「せっかくの私のプレゼントだよー? それだけつけてくれたらいいから、ね。ね?」

「なんでよ」

「なんでも」


 彼女に私は結局またほだされてしまった。胸のやわらかく膨らんだラインをなぞり、鎖骨の間に口づける。あったかくて、しめっぽくて、ちょっと獣っぽさのある匂いがする。体温の匂い。ベッドサイドの繊細な光に、浮いた肋骨や腰骨の影、胸の尖った先端がやんわりと照らし出されている。よくあることだ。いつもこの人は視覚から私の心をどろどろと掻き回す。

「まだ……?」

 ねだるのもよくわかるけれど、今日の私はとびきり意地悪なんだからね。

 千冬のちいさな頭を抱き抱えて、耳に軽いキスをする。

「もう少しだけいい子にできる?」

 こくっとうなずいたのを見て、ご褒美とばかりにもう一度同じ場所にキス。なにか言いたいな、と思ったけどなにも声にならない。これが優しいフィクションの世界ならきっと、大好き、とか、愛してる、とか簡単に言葉にできるんだろう。ありふれた考え方で漠然とそう思った。漂白されたような、ぼうっとした虚ろな気だるさが背中にのしかかるのを私は感じた。

 震えた息が無意識に漏れて、千冬がびくりと肩を揺らす。

「いいって言うまで、おさえられるもんね? 千冬」

 バスタオルを従順にくわえ直す彼女。うん。君はいつも私に甘いよね。身体のあちこちには、うすい紅色の水滴のようなものが微かに浮かんでいる。その数は私が唇を落とすたびに増していく。なるほど、実際につけるキスマークほど荒々しくなくて、そのぶん確かに艶かしい。

 それこそ彼女が私にくれたプレゼントだった。誕生日だからと選んでくれた、鮮やかな赤のグロス。


 思えば、すべてがおかしくなりだしたとき、私はこれとよく似たグロスを塗っていた。――ただし色合いはもう少し控えめだったはずだけど。

「さみしくて、どうしようもなくね。苦しくなることってあるよね」

 同窓会の日、ほろ酔いになった彼女は照れ笑いするみたいにぼそっと告げた。場所は二人きりになった化粧室の大きな鏡の前だった。媚びるようにフレームが金色に飾られてる、まばゆい鏡。そこにお互い化粧を直して、二次会へいくために武装しきった女二人が映し出されていた。ほんの数秒前までは。みるみるうちに千冬は顔をゆがめ、幼い子供が甘えるみたくしゃべり方を変えた。

「なんでだろ、今日もいろんな子の話きいたりしてるとぎゅーって心臓にぎりつぶされてるみたいで。へんなの、私。いなくなりたいくらい」

 高校時代にも聞いたことのないような声音と内容だったから、私はびっくりした。それから、べたべたした雰囲気にすぐ嫌気がさした。

「……最近フラれたの?」

「ううん。それ、もう二年も前」

「いじめられたり、とか?」

「全然」

「……」

「よく、わからないの。ごめんなさい」

 そのとき、にぎやかな話し声――しかもよく知っている人の――がドアの向こうから近づいてくるのが聞こえた。もし見つかったら? でもそうしたとして何になる?

 なんとなく、後はない、と思った。とっさにトイレの個室へ強引につれこんだ彼女をその壁に押し付け、しーっと耳打ちした。身じろぐ彼女は声まで震えていた。

「理代ちゃん?」

「うん」

 黒いレースブラウス、お酒のせいか赤くそまった肌としっかり塗られた唇。それらに不釣り合いな、はかなげな眼差し。私はなぜか胸の底が加速度をましてむかついていくのを感じた。と同時に、昔あれだけ隣にいたはずの同級生がとてもとても綺麗なことに気づいて、つい息を吐いた。

「理代ちゃんごめん」

「そんな余裕のない顔であやまるな」

「だって」

「まったく――」


 それから私たちはこっそりと二次会組から離れて、ちいさなバーで二人きり飲み直した。正直、何を話したかよく覚えていない。相当酔いがまわっていたのだろうか。以来、折りをみては飲みにでかけ、遊びにでかけ、いつのまにか半同棲の生活をしていた。なんでもないときにふっと我に返ると、会いたくて仕方がなくなって、どちらともなく連絡を出すのが、ここ数か月で悪い手癖みたいに身についてしまった。ついでに身体をまさぐりあうことも。

「そういえば」

「ん?」

「冷蔵庫に卵ってまだあったっけ」

「あったと思うけど……? あっ、ちょっと」

「うんうん。ならよかった」

「や、待っ」

「いやだ」

 暴れそうになっている手首をつかんでシーツに縫い留める。もう片方の手は容赦なく彼女を探り出し、なかに埋める。一本の指で強弱をつけて腹側の浅い部分を撫でまわす。急いで真っ白のタオルに噛みつく千冬の口もとから、浅い呼吸が漏れる。非難するような視線を無視して、探し当てた場所を強く突くとぎゅっと瞼が閉じられた。指を押し流さんとばかりに圧迫が強まる。私は一人の女の子を犯しているんだ。ぶるっと背筋にいやな刺激がはしった。彼女の脚のあいだへ押しつけている手のひらに、とろりとした液体がゆっくり伝う。中指を軽く引き、にいと笑ってやる。

「今日、興奮するようなことあった?」

「な、んで……」

「うん?」

「なんでこう、もっと色気ってものがないのかな」

「ええー、いまさら言われても」

 眉が寄せられたおでこに、こつんとこちらもおでこをあてる。えへへっ、と笑うと、仕方ないこれで許してあげる、とばかりに今日何度目かのキスをせがまれた。

「で、なんで卵なの理代ちゃん」

「ああ。明日、オムレツ食べたいなぁと思って」

「朝ごはん?」

「そうそう。バター多めのふわっふわのやつ」

「……つくってあげるから、もうちょっと集中して」

「んんー、集中してないわけじゃないよ」

 やさしく千冬の唇をまたさらう。すでに私のグロスはすっかり彼女の全身に移しこまれていて、いまは作りこみのないシンプルな感触が頭のなかを満たした。そのまま舌をちろりと差し入れ、ちゅぷちゅぷと彼女の舌先と触れ合う。

「千冬、かわいい」

「はいはい」

「さっきのはごめんって」

「別に。ムードがないのよくあるのことだし理代ちゃん」

「そんなにあったっけ」

「あった、というかこの間もそうだった」

「ごめん……」

「怒ってるわけじゃないよ。オムレツだってそのくらいは簡単だし」

「ふうん」

 それは確かにそうかもしれない。私好みのオムレツくらい、千冬はやすやすとつくる。料理、に限らず手先が器用な女の子はいいなぁ。でも先にいただくものがある。

「じゃあ、とりあえず今夜は好き放題していいよね」

 思い切りほくそ笑むように唇をつりあげたら、千冬は目をまるくして固まった。その隙をついて、つぷんとまた指を侵入させる。粘着質な音をうまく引き出しながら、手前のざらざらとしたところを執拗にかき混ぜる。甘酸っぱい女の匂いがふわふわしはじめているのに私は気づいた。

「んっ……、ぁ!」

 差し出すようにのけぞった白い喉にかぶりつき、耳まで一息に舐め上げると私は彼女を抑制していたバスタオルを引きはがす。

「もうちょい我慢させようかなって思ったけどやーめた」

「ふえ?」

「うん」

 私は千冬の脚をひらかせ、その合間に鼻先をうずめる。一舐めすると酸っぱくて苦くてしょっぱい、変な味がする。これと同じものが私の下着を濡らしていると思うと、ちょっと幻滅するけど。指の代わりに舌を突き入れ、彼女の溶け落ちた声に聞き入る。頬がほてって仕方がない。

 いくつもいくつもある夜のなかの一つ、それを無数にみじん切りしたなかの一欠片の時間を私はむさぼるように食べている。そんなイメージがわいた。連綿とつづく時間をどう味付けするか、は自由だから、とびっきり砂糖をまぶして、彼女に砂糖をまぶして、バリバリと食べている。おいしい。甘ったるくて胸やけがする。何も考えられない、にほとんど限りなく近い時間。

「やだ、りよちゃ……」

「大丈夫だよ」

 彼女の花芯を何度か吸い上げていると、一瞬の緊張ののちに白い肢体がぐたっとベッドに沈んだ。よくできました、とばかりに私は乱れた髪を梳いてやる。

 ――いつまでこうしてられるかな。

 恍惚としては、なんだか怖くなり、また衝動的に彼女を味わって恍惚とする、を私はまたくり返す。もう一度彼女をシーツに押しつける。

だって、そもそもどうしてこんなに君の身体がほしくてたまらないのかわからない。愛おしいのなら、その言葉を告げるだけで十分なはずなのに。何度も思考はまっくろい渦巻に呑まれて、そのたびに私はどんどん盛りついた。そもそも同性である千冬が生物学的にはまったく意味のない性行為を許してくれる理由も、よくわかっていない。

 最初の最初はお遊びだった。指をわずかに沈めるだけで千冬は痛がったし、キスもうまくいかなかった。それでも私たちはちゃんと行為をしてみること、をあきらめなかった。不思議なことだ。

 湿ったシンプルなベッドの上で、私は決まってこの生活の原点、彼女の爆弾のような言葉を思い出す。

「さみしくて、どうしようもなくね。苦しくなることってあるよね」


 指の数を二つにして、そろそろと彼女の最奥へ侵入し、抉るようになかを圧迫する。ぴんと力が足指に入ったのをみて、すぐさま優しい手つきに変えてみる。殺し損ねた声がぽたぽたと頭上に振ってくる。その間に舌で胸の輪郭をなぞり、おなかをくすぐり、ちょうど私の指が入っているあたりを上から撫でてやる。彼女の身体のいたるところに転がっている、真っ赤なグロスで作られたキスマークが私の嗜虐心をあおった。

「理代ちゃん……」

「なに」

「ちゃんとキスして」

「おねだりが上手だなぁ」

「しないなら、理代ちゃんのも触るよ」

「どこにそんな元気があるのかな」

 軽口をたたいたら、ほっぺたをつねられてしまった。

「理代ちゃん」

「うん」

「明日、うちにいるんだ。というか泊まっていくんだ。平日なのに」

「んー?」

「だって朝ごはんっていうから」

「ああ」

「いや。なんかすごくうれしいなって」

「うん」

 恋人でもないのにね、とうっかり言いかけてギリギリで私は口をつぐんだ。

「いるって言っても、まあ朝と夜だけなんだけどさ」

「十分すぎるくらいだよ。だって一緒に暮らしてる人がいるのは幸せだもん」

 ふふん、と邪気のない表情で千冬は微笑んだ。

「……そういうとこだよ」

 思ったことを全く語ることなく、私はまた彼女に覆いかぶさる。


 たとえば、千冬に仲のいい男の子ができたら。たとえば、どうしようもない理由でこの部屋に私が通えなくなったら。

 一緒に生活して気まぐれに身体を重ねるだけのこの関係は終わってしまうのだろう。たぶん。執着していてもしょうがないと私はわかっている。だいたい、余計なことを考えなければいいだけなのだ。これ以上望むものもないのだし。

 今でも彼女は、あの化粧室のワンシーンのときみたいに、私に泣きついてくることがある。予想しにくい発作のように、言葉をろくに伝えることもなく、いつのまにか負っている自分の傷の痛みに負けてしまう。そのたびに、また私は内心ぐちゃぐちゃに乱れた嫌悪の気持ちと綺麗だと思う気持ち、その両方で彼女を抱きとめる。異様なほど、この人と一緒にいたく、なる。

「あ、にゃっ」

「いま、にゃって」

「言ってな、い……」

 なかを執拗にほぐしながら胸の先を舌で上下左右にはじく。くびれのある細い腰が、不規則に揺れる。はあはあと絶え絶えになりつつある呼吸が、食べたいというこちらの欲求に輪をかける。

「りよちゃん」

 呼ばれるままに彼女の口を唇でふさごうとして、やめた。代わりに、濡れていないほうの指を、無理やり口腔にさしいれる。舌と喉をやわらかく蹂躙してやると、ぐっと瞼を閉じて頬を赤らめる。

「される、って感じの好きだもんね」

 ささやくと、わかりやすく膣が動いた。ついでに意地悪くそちらのずぶずぶになった指を抜いてやると、思い切り睨まれた。でも、優しくするだけじゃつまらない。涙とよだれがひとしきり伝ってから、彼女の口を解放してやった。

「この、へんたい」

「はーい」

 言うのと同時に、ようやく下腹部への刺激を躊躇なく再開する。崩れに崩れているのを把握しながらも、挿しいれては探り、いったん指を引き抜き、もう一度じわじわとやさしく挿しこむ、を何度も重ねる。もう一度、もう一度。きちんと彼女が感じる奥のほうの一点を、丁寧に強くこすりながら。

「は、うう……、やっ」

「うん、いいよ」

「やだ……」

 そんなに濡れそぼった声で言われても困る。私は、ぐうっととどめを刺した。同時に手のひらで敏感になった花芯をちゃんと押しつぶす。彼女の腰が心地よさを求めてびくびく前後に跳ねた。

「んっ、やあ! ぁ……!」

 心臓がうるさいくらいに鳴った。指を引きちぎられそうなくらい身体の奥に持っていかれる。あつい。どこもかしこも熱くて焼け焦げてしまう。彼女が感じているのと同じ下腹の部分がきゅうと疼き、あまりに甘美な衝撃にブレーキをかけるよう、私はしなやかな肢体を抱きしめて深く息を吐いた。

「……ごちそーさま」

 頬に、瞼に、耳に、首筋に静かに口づける。二つの指を抜き去ったときには、彼女はぐったりとして声もあげなかった。自分にまとわりついてきた透明な液体を舐めとりながら、千冬のためにティッシュを探す。知らぬ間に準備よくベッドサイドのテーブルに置かれているのを見つけ、ありがと、と呟く。台詞と裏腹に私は洒落たデザインのあのグロスを手に取った。千冬が選んでくれた色。四角柱の蓋をくるくる回す。きゅ、と音を立てて真っ赤な液体に濡れた細いブラシがあらわれる。

「千冬」

「ん……」

「こっち」

「へ?」

 薄目をあける彼女。まだ肌に興奮した血の気が透けているのが一目でわかった。有無を言わさず、私は千冬のあごを手に取り、慎重にブラシを唇にのせた。薄いやわな花びらに、水飴を重ねづけるように。

「私だけじゃもったいないなと思って」

「そんなことないのに」

「まー、独占欲? みたいなもんでしょ、たぶん」

「たぶんって」

 呆れたように千冬は目をぱちりとさせた。その仕草が、上品な赤の口紅に不似合いで、なんだか幼いのが強調されて見えた。大人のかたちをしているのに、狡猾なところがなくて泣き虫で、そのくせ強かによく笑うあなた。

「ねえ理代ちゃん」

「なに」

「どういうこと考えてるの、襲うとき」

「え?」

「変態だし、なんだかぼんやりしてるし」

 耳まで赤くして、彼女はうつむいた。ちょっとだけ泣いているようにもみえたけれど、泣いているときよりずっと恥ずかし気で素直な雰囲気だった。

「かわいいなぁって」

「ほんと、そればっかり」

 千冬が寂しそうに目を細めた。きょういちばんに色気のある表情だと思った。私は唇にそっとキスをする。ぺたぺたとグロスのなめらかさが伝染した。彼女の唇がまだらな赤になっていた。きっと私も。

もう一度、今度は彼女のほうから唇を重ねてきた。グロスがまたすこし乱れて、色が薄まっていく。最初に千冬の肩や腿につけたキスマークのそれのほうがずっと濃ゆいくらい。

「ねえ、なんで千冬、赤選んだんだっけ」

「なんでって強い女っていったら赤でしょ。前にそんな話、したから……」

「ああ」

 私はくすくす笑った。そんな単純な理由だったっけ。私につられて千冬もくすくすと笑いだし、しまいにはぎゅっと抱き合いながらまたベッドに倒れこんだ。

「理代ちゃん誕生日おめでと。明日の朝はオムレツね」

「ありがとう」

「うん」

 また私は彼女の鎖骨やおなか、脚にキスを落とす。丸みをおびた身体に赤の濃淡がきざまれていく。血の雨に降られたみたいだ。そうじゃなかったら、誰かを殺した返り血かなにか。思い浮かんだイメージに、私はちょっと嬉しくなった。この人になら、殺されても嫌じゃない。胸の合間に頭を寄せると、千冬はあやすようによしよしと撫でてくれた。ミルクのようなまろやかで芳醇な香りが、私と彼女の距離をむせ返りそうなほど埋めている。

「シャワー浴びるけど、一緒に来る?」

「うん!」

 しずかに、まだ熱い指と指が絡まった。

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