第2話 神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)と4人のお后

ウィーンのアウグスティーナ教会から程近いところに、カプツィーナ聖堂と呼ばれる小さな教会がある。地下には納骨堂があり、ハプスブルク家の人々138人が埋葬されている。中はいくつかの部屋に分かれており、今回の主人公たち─神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世、後のオーストリア皇帝フランツ1世の4人の妻たち─は、"Franz crypt"という小部屋で、フランツ1世の棺の周囲を取り巻く形にそれぞれの棺が置かれている。王や皇帝で次々と后を取り替えたというと、ヘンリー8世やイワン雷帝が思い浮かぶ。しかし彼らはそのためにかなり理不尽な方法を取ったが、フランツ1世の場合、4回の結婚は全て前妻の早逝の為であり、不思議と家族運に恵まれなかった感がある。






1.エリーザベト・フォン・ヴュルテンベルク(1767 - 1790)


フランツ2世の最初の妻。パーヴェル1世皇后マリア・フョードロヴナの妹。1788年、フランツ大公の妻となる。義理の伯父のヨーゼフ2世から実の娘のように可愛がられた。しかし病床のヨーゼフ2世を懸命に看護するものの、彼女は産褥の床でそのはかない命を落とした。それを知らされたヨーゼフ2世は生きる希望を失い、その2日後に崩御した。フランツ2世が皇帝になる前の妻なので、皇后の称号は与えられなかった。






2.マリア・テレジア・フォン・ナポリ=シシリア(1772-1807)


ナポリ王女。母はナポレオンの侵略に強硬に戦ったマリア・カロリーネ王妃(マリー・アントワネットのすぐ上の姉)。フランツ大公には従妹に当たる。1790年に結婚、1792年夫フランツの皇帝即位に伴い皇后となった。夫との仲は睦まじく、12人の子を授かり11人が成長。内1人は皇帝(皇帝フェルディナンド1世)、2人は皇后(フランス皇后マリー・ルイーズ、ブラジル皇后マリー・レオポルディーネ)となる。しかし、近親婚の悪影響が子供たちに及んだ。長男フェルディナンド1世は病弱でてんかんの発作に苦しみ、末娘のマリア・アンナは重度の精神障害と顔面変形という障害に生涯悩まされた。彼女はホーフブルク内の座敷牢に閉じ込められ一生を終えた。






1826年、フランツ1世とその家族の肖像画が描かれた。牧歌的でくつろいだ幸せな家族の姿が見て取れる。しかしこの絵の中にマリア・アンナは登場しない。






フランツ1世とその家族


左から、カロリーネ・アウグスタ皇后、フランツ1世、ライヒシュタット公(ナポレオン2世)、マリー・ルイーズ、ゾフィー大公妃、フェルディナント皇太子、フランツ・カール大公




1805年11月4日、迫り来るナポレオン軍に怯えた皇帝一家はウィーンを抜け出し、ハンガリーやモラヴィアへ脱出。長女マリー・ルイーズにとっては生涯続く旅の人生の始まりになった。1807年、前妻同様産褥で死去。フランツ1世は余りの悲嘆に耐えかねて葬礼の場を欠席、3週間ハンガリーで過ごし、亡き妻を偲んだ。子供たちに対しては愛情と思いやりを持って接したが、反面厳格で、気のおける母親だったともいう。






3.マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステ(1787-1816)


ハプスブルク家の分家であるエステ家出身。1797年、ナポレオンのイタリア遠征によってエステ家一族は領地のモデナを追われ、ウィーンへと亡命してきた。Wikipedia英語版では、この時彼女が皇帝に見初められたとある。生年を計算すると、この時のマリア・ルドヴィカ、わずか9歳……。




前妻マリア・テレジアの死後、娘のマリー・ルイーズが同世代の(マリア・ルドヴィカより4歳年下だった)マリア・ルドヴィカと親密な交流を持つようになった。その陰で皇帝と彼女との愛がひそかに育っていった。




※尚、フランツ1世長女マリー・ルイーズの本名も、ドイツ語で発音すると「マリア・ルドヴィカ」となる。この時代、ハプスブルク家にあってもフランス語が幅を利かせていたので、彼女は実家でも「ルイーズ」と呼ばれていた。






1808年1月6日に2人は結婚した。




マリア・ルドヴィカは痩せて眼が大きく快活な美少女で、政治にも非常に関心があった。特に故郷を奪ったナポレオンに対しては激しい憎しみを抱いていた。しかし現実には彼女も前皇后とその子供たちのようにナポレオンから逃れるためにウィーンを脱出する羽目になる。腺病質な彼女の身体には堪えた。早くから彼女は結核を病むようになる。




ウィーンの宮廷では反ナポレオン派の筆頭であり、ナポレオンとマリー・ルイーズとの縁談には強硬に反対した。しかしいざ2人の婚約が整うと、彼女は義娘に対し、奇妙な嫉妬を抱くようになる。当時、まだ"ファースト・レディ"という概念は存在しなかったが、ナポレオンの伴侶であるフランス皇后は、事実上全ての后妃の中で最も身分が高いという見方が存在したのかもしれない。




1814年のナポレオンの退位後、ウィーンに戻ってきたマリー・ルイーズ親子をマリア・ルドヴィカは暖かく出迎えた。ウィーン会議のホステス役もそつなくこなし、ナポレオンがエルバ島を脱出して再び旗揚げをした折には自らが主催する反ナポレオン必勝祈願会にマリー・ルイーズをも引っ張り出そうとし、フランツ1世にたしなめられる一幕もあった。1816年、ヴェローナに滞在中、肺結核にて(乳がんとも言われる)死去。わずか28歳だった。






4.カロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルン(1792 - 1873)


バイエルン王国の王女。ロイヒテンベルク公ウジェーヌ・ド・ボーアルネの妃アウグステは同母姉、ハプスブルク家のゾフィー大公妃(フランツ・ヨーゼフ1世の母)は異母妹にあたる。年齢はマリールイーズより2ヶ月若かった。




最初にヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世に嫁ぐが、夫から見向きもされなかった彼女は6年後正式に離婚を認められ、バイエルンに戻っていた。前妻マリア・ルドヴィカの死後、わずか約半年を経て、フランツ1世の4人目の皇后に迎えられた。美貌とは言いがたかったようだが、気立てが良く暖かい性格で、結婚式でも幼いナポレオン2世をすっかり気に入り、膝に抱き上げた。慈善活動にも打ち込み、国民から愛された。


晩年は、シシィことエリザベート皇后(カロリーネ皇后には姪に当たる)と、その姑のゾフィー大公妃との嫁姑問題に対しても橋渡しを務めた。




参考文献:


「ナポレオン もう一人の皇妃」(アラン・パーマー、中央公論新社、2003)


「マリー・ルイーゼ ナポレオンの皇妃からパルマ公国女王へ」(塚本哲也、文春文庫、2009)


"The Imperial Vaults of the PP Capuchins in Vienna(Capuchin Crypt)" (Gigi Beutler,2003)

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