白百合

黒木露火

第1話

 良い酒が手に入ったと聞き、アルバイトが終わると友人の住むアパートに向かった。

 大学近くの彼のアパートは便利がよく、何かというと泊まらせてもらったものだ。持ち物は少ないくせに、本だけはやたらとある古い部屋は、不思議と自分の部屋よりも落ち着き、居心地がよかった。

 深夜の静まり返った交差点で信号が変わるのを待ちながら、こんな寒い夜に遠い家まで原付で帰らなくて良かったと、白い息を吐きつつ思ったことを今も憶えている。

 塗り替えても錆の凹凸が残る階段を上がるとき、足元の悪さに闇夜だと気づいた。同時に、聞いたばかりの噂話を思い出す。

「闇夜になると、教養棟に自殺した女の子の霊が出るんだって。屋上から落ちてくるらしいよ」

「ああ、その噂なら知ってる。国文科の女の子だろう?」

 友人が白い陶器の酒瓶から酒を二つのぐい飲みに注ぎながら言った。

「なんだ。知ってたのか。でも今は国文という学科はなかったよね」

「昔はあったんだろう」

 畳の上に置かれた盆からぐい飲みを取った友人は、ゆっくりと干した。私も杯をとる。飲んだあとに、腹の底から香気が流れ出してくるような、上品でうまい酒だった。

 私にとって友人は、物知りで面白い男だったが、親しくなる前は無口で取っつきにくい印象があったことを覚えている。他に親しい人間もいないようだったが、本人はそれを気にする風ではなかった。

 私が土産に持参したコンビニのおでんも食べ尽くし、酒もほろ酔い加減に回ってきたところで彼が立ち上がった。寝転がった私の視界の片隅に神棚が映る。

 はじめてこの部屋に遊びに来たとき、古い室内にそこだけ新しい白木の板の上に祀られた神棚には少し驚いた。しかしそれも、彼の実家が神社と聞けば納得し、そういうものかと思っていた。

 彼はどこからか白い紙を探して来ると、その神棚にぺたりと張り付けて言った。

「じゃあ、その幽霊を見に行こうか。今夜は闇夜だろう」

 そうだった。今夜は闇夜だ。そして、私は酔っていた。

「いいね。行こう。実は、幽霊って見たことがなくてね」

 暖房の効いた室内から外に出ても、さほど寒さは感じなかったが、息は変わらず凍るように白かった。闇夜だからか、星がきれいに見えていた。

 五分も歩かないうちに、夜の校舎が見えてきた。まだところどころに明かりのついている工学部を後にして、図書館を過ぎると、くだんの教養棟が黒々とそびえていた。夜は誰もいないから真っ暗だ。

「どこなんだろうな、出るのは」

 連れ立って人気のない教養棟をぐるりと一周したところで、少し酔いが醒めてきた私がコートのポケットに手を突っ込んで辺りを見回していると、急に立ち止まった友人が上を見上げ、「下がって」と鋭い声をあげた。

 ドンという衝撃音とぐしゃりと柔らかいものが潰れる音が、すぐ目の前で混ざって聞こえ、そこにはうつ伏せの人のようなものが転がっている。手足をいろんな方向にねじったり押し曲げたりして、おもちゃ箱に乱暴に突っ込まれた人形のようだった。

 乱れた長い黒髪、黒いスカートから付け根近くまで白く覗く脚は奔放に折れ曲がり、ぱっくり割れた傷口からは白い肌より白いものも見える。喪服のように黒づくめの体を中心に、じわり赤い液体が冷たい地面に広がる。そこからほのかに湯気が上がり、熱は拡散していく。

 鉄錆に似た血のにおいと、甘いような脂肪と生肉のにおいと、もっと濃厚でなまぐさいにおい、そこに排泄物のにおいが混じり、私は思わず顔を背けたが、すぐにはっとした。

「警察に電話……」

「これが幽霊だよ」

 慌てて携帯電話を取り出した私に、友人は無表情な横顔を見せて、その死体を見下ろしていた。

「幽霊なら……警察には届けなくてもいいのかな?」

 友人は間の抜けた私の言葉を笑うでもなく、視線を私に移すと、少しだけ表情を和らげた。

「何度も繰り返されてるんだ。放っておけばそのうち消える。これはただの、夢みたいなものだから」

 私はもう一度彼女を見て、今度は改めて恐怖で、目を背けた。

 微かな湯気をたてて命は暗闇に吸いとられ、彼女は落ちた直後とはまったく違うモノに変化してしまっていた。ついさっきまで、生きた人間に見えていた彼女は、今やただの物になっていた。

 祖父祖母を含めてまだ家族が健在だった私は、人の死を見たことがなく、その変化が恐ろしかった。こんな短い時間で、生きている人間がそうじゃないものに変わってしまうことが。

 彼女が幽霊という、いわば夢や幻のようなにせものだとしても、その恐ろしさはほんものだった。同時に、彼女を哀れにも思った。

 何度も再演されてきたであろう無惨なロードショーは、繰り返され過ぎて噂話になり、ときにはふざけた調子で語られるのだろう。私にその話を伝えてくれた級友がそうしていたように。

「念願の初幽霊も見れたことだし、帰ろうか」

 あくびをしながら提案する友人に、「ちょっとコンビニに行こう」と私は声をかけた。

「何を買うんだ?」

「ええと、線香とライターと、花……はないかな。じゃあ、せめて水とか」

「弔いでもするつもりか? そんなもんじゃ、あれは消えないぞ」

 友人は少しあきれたように私を見た。

「消えないのか……どうやったら成仏するんだろうな。霊能者とか頼めばいいんだろうか?」

 どのくらいお金があったら霊能者を頼めるのか、どうやって霊能者を探せばいいのか、私にはまったくあてはなく、困っていると、友人はしばらく黙った後、「どうして?」と言った。

「本当は、死って、すごく個人的でデリケートな体験というか、本当は、彼女ひとりだけのものなんじゃないかな。こんな風に好奇心でやってきた、知らない男二人の目に晒すべきじゃない気がして……」

「無駄だ。あれはそんなこと考えてないし、考えない」

 きっぱりと友人は言い切った。

「だとしても、このままでは彼女が可哀そうだ。裸で雑踏を歩いているみたいで……」

「あれは、好きで裸を晒してるんだ。放っておけ」

「だとしても、上着を貸す誰かがいてもいいだろう?」

 軽く肩をすくめた友人は、「じゃあ、待ってろ」と私に背を向け、彼女に近づいた。赤黒く血の染みたアスファルトに横たわった頭のあたりで膝をつく。

「百年、経ったぞ」

 ささやく声がした。

 その瞬間、彼女の姿は消えた。地面が割れ、巨大な緑が顔を出したかと思うと、早送りの動画のように伸びて植物の茎となり、あっという間に大きなつぼみをつけ、花開いた。

 白い百合の花だった。漂っていた血なまぐさいにおいは一蹴され、強い花の香りがあたりを満たす。

「帰ろうか」

 立ち上がった友人の履き古したジーンズには、当然のことだが血汚れはついていなかった。私は茫然と、しかし安堵しつつ、彼と並んで帰路についた。

 校舎の角を曲がるとき一度振り返ると、暗闇の中に白百合は咲いたままだった。

「なんで『百年経った』なんだ?」

 友人に促されるままに風呂と着替えを借り、こたつに横になったとき、聞いてみた。

「国文科だろ? 漱石くらい読んでるだろうなと思って」

 ほら、と投げ渡された古い文庫本を見ると「夢十夜」と書いてあった。

 見上げると、神棚に貼ってあった白い紙はなくなっていた。


 翌朝、授業の前に友人と、教養棟に寄ってみた。

 巨大な百合の花は跡形もなかったが、女子学生が二人、「なんかこのへん、いい匂いするね」と話しながら通り過ぎていった。

 ここには彼女はいない。

 もう、幽霊は出ないだろう。


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