1-02

 朝はやってくる。昨日を置き去りにして。今日が始まる。


 レースカーテンの隙間から伸びる光の帯に、わずかに舞った埃がキラキラ輝いている。寝転んだまま光の帯に向けて右手をかざす。埃が集まるイメージを念じてみる。だけど、やっぱりキラキラ輝くままで、集まることはなかった。


 力を抜く。手がだらりとベッドに落ちた。


 やっぱり魔法なんてないよ。心の裡で呟く。


 夢だったのかもしれない。だって魔法少女なんて、いまどき高校生がなるものでも憧れるものでないし。ここのところテスト勉強で夜更かしが続いていたから、夕食の頃には眠気がピークだった。実際八時には眠っていたのだ、歩きながら微睡んで夢を見ていてもおかしくはないはず。


 そう寝起き頭で納得して、身体を起こす。


 すると視線の先、ミニテーブルの上にクロがいた。


「やあ唯、おはよう。いい朝だね。昨日の続きを説明するから放課後、教室に残ってくれ。よろしく頼むよ」


 そして私の返答を聞かず、クロは溶けるように消えた。


 なんて自由なんだろう。無視してやろうか……考えて明日の朝、机の上に鎮座する黒歴史ノートを想像する。クロならやりかねない。まだ出会って半日ほどしか経ってないけれど、性格の悪さは透けて見える。


 それに、興味がないと言い切れない自分もいて、好奇心が憎たらしい。自分が嫌になる。


 いつまで経っても子供のまま。私は本当に、大人になれるのだろうか。



 ため息しか出てこなかった。



「おーい、ため息なんて吐いてどうしたの? 箸止まってるよ」


 ぼうっとしていたらしい、意識を現実に引き戻された。いつのまにか声の主、杏ちゃんの顔が視界を占有している。赤茶の虹彩が私の視線を釘付ける。文字通り目と鼻の先だ。中性的に整った顔立ちは、目を癒してくれる。あらイケメン。禁断の百合が咲きかける。


 と、脳内冗談で思考を戻す。いや、イケメンなのは本当だけど。きっと髪を伸ばしたら綺麗になるだろう。おっとまた脱線だ。


「今日も杏ちゃんは格好いいなぁって」


 おどけながら、お弁当箱からムラのない黄色の玉子焼きを一欠片摘み、中断していた食事を再開する。出汁の効いた甘味が口に広がり、いまいち回りの悪い頭にもエネルギーが供給されていく気がした。


 杏ちゃんの机の上には、惣菜パンの空き包装が二つ。焼きそばパンとチキンカツコッペ。焼きそばパンを食べていたのは憶えているけれど、チキンカツコッペのほうはいつ開けたのかわからない。周囲の状況をそれとなく窺うと、どうやらクラスメイトたちの大半は食べ終えている様子。私のお弁当箱はまだ半分ほど残っている。五分程度意識を飛ばしていたようだった。


 考えるのは放課後にしよう。これ以上はどうしようもない。


 目の前の杏ちゃんに意識のチャンネルを合わせる。よく見るとめちゃくちゃ不満気だった。


「あのねぇ、私も女子なんだけど」


「女子の格好良さ、だよ。ほら、私は背低いし丸顔だし」


「それこそ女子らしくていーじゃん。私は一七五センチになんてなりたくなかったよ」


 わざとらしくため息をつく杏ちゃん。その仕草が格好よくて見惚れる。


 杏ちゃんのモデルのようなすらっとしたスタイルの良さは、きっと女子なら一度は憧れるはずだ。私が隣に並ぶとまるで大人と子供のように差がある。杏ちゃんは女子らしいと言ってくれるけど、私の場合低身長も相まって子供っぽいと表現した方が正しいだろう。一度ぐらい、杏ちゃんみたいにショートヘアーにしてみたいものだ。ちんちくりんになるのが目に見えているので、絶対にやらないけれど。


「杏ちゃんも十分女の子らしいと思うけどね。それに私の場合、幼いっていうかさ」


「あぁ?」どすの効いた低音ボイスが飛びだす。杏ちゃんの瞳がギランと鋭く光った気がした。「それはあれだ、私に喧嘩売ってるんだ」


「な、なんの話かな」


「ほうシラを切るか。その胸のど、こ、に、幼さがあるんだ、えぇ? Dカップさんよ!」


 探偵ばりに指を向けてくる。それも、私のパーソナルなデータを大声で暴露しながら。周囲の男子の視線が胸に刺さる。どこから湧いてきたんだこいつら。


「ちょっと被害妄想はやめてよAカップ」


 仕返しはクリティカルダメージ。杏ちゃんはくはっと、苦悶の表情を浮かべ、キッとこちらを睨みつけてくる。舌を出して挑発する。こうなるのは見越せたはずなのに、向こう見ずと言うか、愚かと言うか。


 しかし、ただで起きないのが杏ちゃんだった。


「不毛な争いはよそう。赤点、取りたくないでしょ」


 脅しだった。クリティカルダメージだった。私の成績は安堂杏勉強会でギリギリ保っている状態だ、もし教えてもらえないとなると赤点は必至。私は頷くしかなかった。


「そうだね、平和が一番だね」


 空虚な笑い声が重なる。それからため息も重なった。私たちはなにをしているんだろう、そんな疑問が宙吊りになっている気がする。ええと、杏ちゃんが考えるように頭を掻いた。きっと本題を思い出そうとしているのだろう。


 本当なら私も一緒に考えるふりをすふべきだけど、目に留まったそれが思考を逸らす。


「あれ、また怪我したの?」


 杏ちゃんの左腕には拳大の痣が青々と肌色に浮いている。


「バスケやってるとどうしてもねぇ。ほら、部のなかだと私デカいじゃん? どうしても攻撃の要になるし、そうするとマークがきつくて」


 一度応援に行った試合を思い出した。当時杏ちゃんは一年生ながらレギュラーで、八面六臂の活躍だった。さすがに相手も途中から杏ちゃんが只者ではないと思ったのかマークがふたりつくと、想像よりも激しく身体がぶつかりあっていた。杏ちゃんは名誉の負傷だ、なんて笑っていたけれど、腕にできた痣が痛々しかったのを記憶している。


 あれ以来、なんとなく応援には行けていない。応援する気持ちより心配が勝ってしまうから。本人が好きでやっているのだから応援するのが友達なのだろうけど、やっぱり心配なものは心配だ。なるべく見たくない。


「仕方ないのかもしれないけど、気をつけてね。あんまり無理しちゃダメだよ」


「それは相手に言って欲しいわ、杏ちゃんをいじめないでぇって、ね」


「……言ってもやめてくれないでしょ」


「そういうこと。言ってやめてくれるなら苦労しないって」


 聞く耳持たずの杏ちゃんは、ははっと笑った。たしかに言ってやめてくれるなら苦労はない、なんて目の前の杏ちゃんを眺めて思う。


 これ以上はお節介発言はやめてお弁当に集中する。ぱくぱく容器のスペースを増やしていき、最後の白米を飲み込む。ご馳走さまでした。杏ちゃんは私が食べ終わるのを見計らって、それでさ、と切り出してきた。残念ながら、本題を思い出したようだった。


「唯のほうはなんかあったわけ?」


「……ちょっと考えごとしてただけだよ」


 お弁当箱を片付けながら、なんでもないようにはぐらかす。言えないだろう。まさか得体の知れない存在が現れた、なんてお花畑認定されてしまう。


 ただ、杏ちゃんからしたら思わせぶりな態度に映ったらしい。首を傾げていた。


「まあ大したことはないんだけどね」


「妄想するのも良いけど、自分でもちゃんと勉強してよね。教えるにしても、どこがわからないかを理解していないと時間がかかるんだから」


「し、してるよ、ただちょっと気になることがあるだけだから」


「なに、また告白されたの?」


「え、噂になってるの?」


 一昨日の話だから、なってても不思議じゃない。ああ、また色んな人から質問責めにされるのか、考えると気が重くなる。


「……ほんと、モテるねぇ。まっいいや、それが原因じゃないんでしょ。そんな、状態で赤点取られても困るし、ほら悩み言ってみ」


 さすがに誤魔化せないか。


「魔法ってあるのかなぁって」


 杏ちゃんは一瞬の沈黙のち、長いため息を漏らしていた。視線が痛い。だから言いたくなかったのに。


「いや、ないでしょ」


「だよねぇ……」


「えっ、ほんとにそんなことで悩んでたの? あのさ、妄想力たくましいのはいいけど、最近物騒なんだから少しは危機感持ってよ」


 なんて本気で心配そうに言う杏ちゃん。世間で騒がられる事件のことを指しているのだろう。


 三日前の午後十時頃、繁華街の建設途中の高層ビル内部で一部が崩落した。さらに、忍び込んだと思われる高校生六人が巻き込まれた可能性が浮上。周辺の監視カメラに、高校生たちが逃げるように工事現場に入っていく姿が確認されているらしい。事故と事件の両方で捜査が進められているけど、ニュースではもっぱら事件という見解がなされていた。


「あれ、うちの生徒らしいんだよね」


「嘘!? まだ撤去作業終わってないんじゃないの」


 どうやら数フロアが崩落したらしく、建物内に重機が入れられないこともあって、未だ瓦礫の撤去が終わってないらしい。ただ、この高校から事件現場までは電車で二駅だ、遊びに訪れていたとしてもありえない話ではなかった。


「まああくまで噂だけど、用心に越したことはないでしょ。寄り道せずちゃんと真っ直ぐ帰りなよ」


 杏ちゃんの言うとおりだった。ただ、そうもいかないのが今日の予定だ。もちろん、説明はできないし、この流れで否定するのも不自然なので、そうだねと応えた。

 


 ホームルームを終えて、大半の生徒と同じく高校を後にする。


 学校を出てから、そそくさと近くの公園に足を運び三十分を潰した。


 杏ちゃんの言葉もあるけど、用もないのに放課後の教室に残るのは不自然だろう。忘れ物をした体で高校に戻る。教室に誰かいたら、一度荷物を置いてからトイレにでも行くふりをして様子を見よう。そんな計画を頭のなかで用意したが、幸い教室に人は誰もいなかった。


 いるのは影絵のように真っ黒な猫だけ。私を確認したクロは言う。


「待ってたよ、唯」


 不敵な笑みを浮かべているように見えるのは、私の妄想力がたくましいからなのだろうか。


「さあ、始めよう」


 クロの尻尾がピンと伸びて、そして、


 セピア色の世界が広がった。

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