時雨橋

 秋の長雨と言うけれども、最近の雨は季節の機微を知らないというか、デリカシーのない降り方をしますね。ボルネオで見舞われた豪雨と変わりない気がします。

 特に、昔のことを思い出そうとすると、雨は抒情的な風情を強めるので、余計に不満が募ります。まあ、雨に怒っても仕方のないことです。そういう風にしてしまったのは僕を含めた人間なのでしょうから。

 君が今何をしているのか、僕には想像もつかないのですが、制服のスカートを少し跳ね上げるようにして、明るく小走りで橋を渡る姿が思い起こされます。学生鞄とフルートのケースを抱えて。

 毎週、金曜日になると、橋の中ほどでフルートの練習をしていましたね。

 ビゼーのメヌエットでしたでしょうか。

 ここに移り住んで間もなくのことでした。フルートの音色が不意に流れ込んできたので、どこから聞こえてくるのだろうかと窓を開けたら、君が居たのです。とても丁寧な音色でした。次の週も、その次の週も、金曜になると、きまって君のフルートが聞こえてきました。

 人間関係に押しつぶされそうになっていた僕にとって、それを聴くのが週末の楽しみになりました。君が来ない雨の日には酷く落胆したものです。

 そうして週を重ねて、梅雨前線が関東を離れ、夏が始まろうとした頃です。

 いつもひとりで居た君に、変化が生じました。

 やはり金曜でしたね。

 日が暮れようとするなか、ほんの少し雨の気配が漂っていました。

 君のとなりには同じ制服を着た女の子が立っていました。黙って聴いている様子で、君より髪が長く、背も高く、華奢な印象を受けました。

 僕はアパートの窓を開けて、君たちの邪魔をしないように窓際の壁に背をつけたまま、ふたりがそこを離れるまで聴いていました。繰り返されるメヌエットが終わるまで。

 僕はね、それを聴きながら、君たちが虫にさされないか、心配していたのです。夏に入ったばかりで、付近に藪のようなものはありませんでしたが、じっとしていると蚊が飛んで来ましたし、平久川はそれほど綺麗なものではありませんでしたから。

 そう工業廃水や家庭排水が紛れる川だからこそ余計に、僕には君の音色が清澄に感じられていたのかもしれません。無機質なコンクリートの町に反響して。

 ふたりの姿が見えなくなった火点し頃、雨が降り始めました。僕は傘もささずに君たちが居た場所に立ってみました。自分が濡れているのかどうかもわからない、風に軽く舞う雪のような雨でした。

 ここから川に沿って行けば、石浜橋、白妙橋、白鷺橋を越え、汐見、豊洲の両運河に合流しながら東京湾に流れ込みます。

 このあたりには海をうかがわせる橋の名前が多いのですが、鳥の名がついたものも結構あります。雲雀橋とか、雀橋とか、ちどり橋とかね。そう言うなかでこの橋の名前は特に心に残るものでした。

 恐らく、君にとって、ふたりにとって、どの橋を選ぶかは深刻な問題ではなかったのかもしれません。通学路の途中だったか、自宅の近所だったか、橋の名前が好きだったかくらいの理由でしょう。

 もし懸命に探していたのなら謝ります。僕にはふたりがあまりにも寛いで見えたので、そう思い込んでしまったのです。

 何より、僕があの頃、住む部屋を選んだ理由のひとつが、この橋の名前を気にいったからでした。

 僕が初めて君を見かけたのは夜勤明けで帰宅し、窓際で歯を磨いていた時のことでした。行儀が悪いと思われるでしょうが、一度やってみたかったのです。7時を5分ほど回っていた記憶があります。引っ越し後、何とか生活ができる部屋になってきた頃で、まだ桜が身繕いをしながら春に備えている肌寒い季節でした。

 君は鞄とフルートのケースを抱えて小鹿のような細い足で橋を駆け抜けて行きました。それが映画の一場面のようで、フィルムに記録できなかったことを心から悔みました。

 その君と、金曜のフルーティストの姿が重なるのに疑問は生じませんでした。

 僕は直ぐに、あの子だ、と確信したのです。

 一度だけ、持てる勇気のすべてを振り絞るようにして、君の傍を通ったことがあります。覚えていますか?

 同じ様に君がメヌエットを吹いている時で、いつもの友達も隣にいました。

 「こんにちは」と僕が声をかけると、君はフルートから唇を離し、「こんにちは」と応えてくれました。

 その声はフルートの音色よりも柔らかに僕の心に響きました。

 僕は部屋に戻ってから何度も君の声の記憶を呼び起こしました。忘れないように。

 或る土曜の午後。

 僕が橋を通りかかると警官や消防官が集まっていて、橋の下にはボートやダイバーも出ているようでした。

 何か事件でもあったのだろうかと、足を緩めながら通りすぎようとしたら、フルート・ケースと学生鞄が二つ、欄干に綺麗に並べて置かれていました。

 それだけで起ったことを知るには十分でした。

 ひとりは浜崎橋を過ぎた下流で見つかりましたが、もうひとりは見つからなかったそうです。どちらが君だったのか僕にはわかりません。

 それから二か月ほどして僕は部屋を離れました。今度は橋が見えない場所です。

 今でも、雨の気配が感じられる、秋のはじめの夕間暮れには、フルートを抱えた君と、隣にいた少女の姿が思い出されます。

 時雨橋という名前は、どこかに悲しい響きがありますね。

 

 

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帰鳥舎人 @kichosha-pen

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