菫橋

 田無駅からとぼとぼと家路を歩く。急ぐことはない。寝に帰るだけで待つ人もない。暗い部屋に電気を灯すだけだ。

 駅前を抜けてしまえば商店らしい賑わいもなく、どこにでもある住宅地になる。鉄道高架線の向こうは深夜にかかわらずビルに電気が点り、眠らない人々が蠢いている。

 別に彼らのせいではないが、明るすぎる都会では夜空を見上げても余程恵まれた星以外は月くらいしか見えない。人が死んで星になるのなら僕は東京の空では見えない星のひとつだ。

 毎日が同じように過ぎ、すべてが白々しく、慢性的に疲れている。

 行きも帰りも同じことを思い続ける。仕事になんか行きたくはない。辞められるのなら直ぐにでも。しかし辞めた後の当てもなければ、資格も学歴もない僕にはうまく再就職する自信もない。その後が画期的に変わるという保証もない。

 僕はどぶ川に沿って毎日を繰り返す。趣味でも持てば変えられるのかと思うが、何を趣味にして良いのかわからないし、趣味とは自然にそうなっているものであって自覚して身に着けるものではないだろう。第一、時間がとれない、を僕は建前にとる。わかってる。時間の問題ではない。僕が気力にかけているのだ。それらを誤魔化すために、他人に向かって効果的で、スタイリッシュな言葉を見つけてはさりげなさを装って口にする。探してきたフレーズを自動的に口にだしているだけなのに、賛同する(ふりをする)人々が集まってきてグループを作る。その中にいないと自分がぐらついてしまい、所在をなくす不安にかられる。どこかに分類されていないと存在を認められていないような気がする。

 見栄えの良い、説得力がありそうな言葉を探すことに始終躍起になっている。馬鹿々々しいと内心は感じている。Twitterも、lineも、ブログも、リアルの自分を隠して、誰かに自分を認めてもらいたいがためにやっているだけで、現実のだらしない自分を少しでも大きく見せようと、仮の言葉で脚色しているにすぎない。

 僕は僕に関心をもってもらいたい、僕と言う存在を認めてもらいたい。誰かにきちんと僕という個人を見てもらいたいだけなのに。嘘で、嘘で、嘘で、嘘ばかりで。止めたい、辞めたい、止めたい、辞めたい、止めたい、辞めたい、止めたい、辞めたい・・・・・何かも。

 蹴った小石が金属に当たって跳ね返る音がした。

 その方を見ると、小さな橋の欄干にスミレの絵が描かれたプレートがいつの間にか掛けられていた。菫橋という名前をそれで初めて知った。毎日繰り返し渡っているのに名前があることにも気づくことなく、ただ通り抜けている。日常の道なんてそんなものだ。

 誰がつけたのか、この川辺がスミレの名所でもあるならともかく、垂直のコンクリートの壁に固められ花が咲く土もない。橋の近くにある公園にもそれらしい場所はない。まったく咲かないというわけではないだろうが、橋の名にするほどでもないだろう。機会を見て探してみようかとも思う。それも建前。

 引越そうかと考えたが、物件の下見に要する時間、必要となる敷金礼金だの、家財運搬等の出費のことを思えば現状からして合理的じゃないし、移り住む根拠に乏しい。住居に不満があるのではなく、居住地の条件が労働を基準にしているところに精神的疲労を増す原因がある。

 公園を左にみて反対側の路地を曲がる。豪勢な名前のついた集合住宅が立ち並ぶ。僕はそれらに囲まれた平凡な名前のアパートに戻る。シリンダー錠に鍵を差し込むと、カチャンとガラスが割れるような音を伴いドアが開く。僕のなかで、毎日、ドアを開け閉めする度に、こうして何かが壊れているのだ。

 食事を摂ることもなく、シャワーを細目にして水音を立てないように気遣い、パジャマに着替えたら万年床に潜り込む。睡眠のために導入剤を飲み、灯りを消して、微かに聞こえる程度に音楽を流す。眠りに落ちるまでの約一時間が僕の時間。


 「すみません。風邪をひいていまったようで。・・・ええ・・熱が38度ちかくあります。・・・・はい、・・・わかりました。病院には行ってきます。・・・申し訳ありません。今日は休ませて下さい。・・・はい、急ぐような案件はありません。報告書は昨日提出してあります。もしクライアントから緊急がはいりましたら、lineでも、電話でもいいので連絡を下さい。・・・ええ、これから病院に行って診てもらってきます。本当にすみません。宜しくお願いします。」

 朝、目覚めたら頭がふらふらし、体温計を入れて見たら微熱があった。会社には病状を三割増しにして欠勤連絡を入れ、歯を磨き、顔を洗って、いつもと違うカジュアルな服に着替え、近所の個人医院に向かった。後日、受診の証明を持ってこいと言われたら面倒なので念のため用意をしておく。それと薬は貰える時に貰っておいたほうがいい。市販薬より効き目があるし、安い。

 転職して2年目、初めての有休だったし、そもそも休むこと自体が初めてだった。休みなしの665日間。働き者でもない僕がどういう冗談だ。

 診断は上気道炎。二日くらいは休む口実に使えそうだった。二日休んだら三日目からは会社に行かないかもしれないな。笑いが込み上げてきた。

 どこかへ出かけてみようか。が、不用意に電車で移動するのはまずい。こんな日に限って具合の悪い偶然は起こりやすい。では、車か。タクシーは問題外。レンタカーを借りるか?それも面倒だし、事故でも起こせば元も子もない。徒歩以外の移動手段はない。従って遠出はできない。結果、自室に引きこもるしかない。せっかくの休みも役に立たない。どこまでも煮え切らない自分が情けない。

 (ない)の無限乗。ああ、そうか、0はいくら掛けても0か。X≠ 0であれば、Xの0乗= 1 なのに、どこか納得がいかない気がした。Xがそもそも存在しないのと、存在しているものを掛け合わせるのとは根本が異なるというわけか。

 僕はなんなのだろう。しかし、0÷0=1でもあったか。そう、その答えは何でも良い。2でも5でも良い。そしてそれは0を0で割ってはいけないとういう数学的自制でもある。つまり0は数学上、自殺できない。不滅の性質は、0にとって幸か不幸か。

 と、そこまで考えて、感情を持たない概念的なものを擬人化するなど、それこそ無駄だ、馬鹿みたいだと自嘲する。僕はつくづくやることがないらしい。

 気づくとアパートを通り越し、菫橋まで来ていた。顔をあげると川を覗き込んでいる女の子の姿が目に入った。小学校中学年くらいか。

 小学校は休みなのか、と疑問に思ったが、考えてみれば今日は土曜日。曜日の感覚がなくなってきている。

 「何かおとしたのかい?」

 僕が尋ねると女の子は指で川底の泥が盛り上がっている部分を指した。

 疎らな雑草の上に髪飾りのようなものが落ちていた。

 「君が落としたの?」

 彼女は小さく頷いた。

 (取れないよ。諦めなさい)と言うのは簡単だったし、それほど高価なものにも思えなかった。けれど彼女を放っておくと柵を乗り越えかねない気がした。

 僕は落ちている場所と状況を確かめた。

 棒を探してきて吊り上げるとか、網をもってきて掬いあげるとか、当たり前のことを考えたが現実的ではない。降りておりられない高さではないが、躊躇われた。上がれなくなったら笑いものになる。川底が固い保証もない。泥に嵌まりでもしたら見っともない。方法が思いつかないまま、同じ場所を見回した。

 この子からしたら頼りにならない大人としか思われていないんだろうな。

 女の子が案の定、上ろうとして足をあげた。

 僕はそれを押しとどめて、腹をくくった。

 道路側の手すりを乗り越え、橋に沿って渡してあるスラブに足をかけた。下をみると意外に高さがある、と感じたが、それは自分が立ち上がって見下ろしているからだと気が付いた。用心しながら腰を屈め、赤錆びたスラブとコンクリートの縁に手をかけながら静かに下がった。爪先が川底の泥に届いた。思い切ってパッと手を放した。ぐちゃっとした気持ちの悪い感触がし、靴の中に水が入り込んできた。深さはそれほどない。僕は一度汚れたら同じことと、転ばないように歩を進め、髪飾りを拾いあげた。

 予想通り、上る方が苦労を極めた。スラブの錆で手がすべるし、そこから先の手掛かりがない。さだめしビンに落とされた竈馬のようだった。

 汗だくになり、ズボンの膝あたりまでを泥だらけにしながら、飛びついては落ちを繰り返し、やっとの思いで這い上がって来たときには、これ以上の運動をしたという記憶がないほど汗まみれであった。他に通行人がなかったのは僕にとって幸いだった。

 女の子に髪飾りを渡した。それはプラスティック製のカラーストーンで彩られた四葉のクローバーであった。

 「汚れちゃったけど、洗えば綺麗になるよ。」

 女の子はニコニコと満面の笑みを浮かべて頭を何度も下げた。

 僕はそこで漸く気づくことになる。

 この子は口がきけないのだ。

 僕が通りかかるまで、この子はどれほどの時間、落としてしまった髪飾りを見守っていたのだろうか。なぜ、あんなところに落としたのだろうか。落とすにしても不自然だった。誰かに捨てられたのだろうか。意地悪でもされたのか。

 僕は女の子を呼ぶようにして公園の水道のある場所へ先に歩いた。そこで自分の手と、靴底の泥を流すように軽く洗った。それから先ほどの髪飾りを洗うように女の子に言葉と身振りで示した。

 彼女は大事そうに水にあててゆっくりと洗った。隙間に入り込んだ泥を小さな爪で落とすように。

 僕はそれをハンカチで拭いてあげ「うん、綺麗になったね。四つの葉の色は全部違っていたんだね。僕はこのピンクが好きだな」と話しかけた。

 彼女は突然に抱き着いてきた。どうやら感謝の証らしかった。僕は彼女の頭を数回撫でた。

 女の子は何度も振り返り、何度も手を振って別れていった。家へ帰るのだろうか。

 日差しは午後の長閑さを地上に届け、僕は水道の後ろの日陰に、小さな野菫の花を見つけた。


 

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