風戸橋

 「こんな橋だったかな。」

 武蔵と相模を分けて流れることから名前の付いた境川。高座川、片瀬川の別名を持ち、ずっと下って行ければ相模湾の江ノ島に注いでいる。

 風戸橋はその境川にかかる取るにたりない橋のひとつ。

 僕はほんの少しこの地で過ごしたことがある。

 今では幾つかの私立大学が誘致され、市立の小中一貫校などができたり、城山のほうでは公園などもかなり整備され、道幅も広げられたようで、こうして歩いていても当時の景色とあまり重なるような気がしない。僕が覚えていないだけなのかも知れない。それくらい短い期間しかここにはいなかった。友達もいなかったし、勿論、家族もいなかった。

 僕は日課としての登校を済ませたあとは、お世話になっている家へ帰ることを避けるように、ほぼ毎日散歩に明け暮れた。できる限り顔を合わせる時間を少なくしようとしていた。別に虐待されていたわけでも、その家の子と差別されていたわけでもない。寧ろ客人として丁寧に扱ってもらっていたと思う、僕にはそれが重荷だった。非常に我儘だけれど。

 ある日曜日の昼頃、風戸橋を通りかかると同じクラスの静川さんが立っていた。

 彼女は欄干に手をかけ川面を見詰めていた。

 「こんにちは。何か落とし物でもした?」

 僕が声をかけると静川さんはゆっくりと体の向きを変えた。

 「あそこの小さな渦を巻いているところにね、時々、虹色の魚が浮かんでくるの。クチボソかもしれないけど、光の加減なのかな、キラキラと光ってみえるのよ。」

 僕は暫くの間、並んで川面を観察していたけれど魚はどこにも見当たらなかった。

 「もうどこかに行っちゃったかな。」

 僕がそういうと彼女は微笑みながら、

 「最初からいなかったのかもしれないよね。ゴミかなんかかも知れないし。」

 それから彼女は、僕についてをあれこれ尋ねてきた。僕が前に住んでいた場所のことやあと三日で転校することとか。

 「こうして話をするのは初めてだったよね。学校だと話にくいし、話すきっかけもないしね。」

 お互いに笑った。

 「私ね、風戸橋って言う名前が好きなの。風の戸って言う表現が綺麗でしょう?ここにいるとね、或る日、不思議な扉が開いて、そこに風が入って行くの。それを見た人は風と一緒にその戸の向こう側の世界に連れ去られてしまう、なんて神隠し的な伝説があっても良いと思わない?風が出入りする扉がある橋なんてメルヘンチックでしょう。」

 「静川さんは童話でも書いているの?」

 「そうねぇ、童話作家になれたらいいけど、うちにはそんな余裕ないしね。高校へも行かれるかどうかわからないし。」

 僕は進路を聞くことができなかった。彼女はそれを察してか猶更明るく言った。

 「クラスじゃ有名なんだよ。静川の家は貧乏だって。」

 川の両側は現在フェンスが張られている。僕が静川さんと話をした当時はフェンスはなかった気がした。護岸も施されていなかった。

 彼女の家はこの川の上流の名前のない橋を渡り、緩やかな坂を上った先にあるのだと言う。自分の家ではなく、親戚の家の敷地に仮家を作ってもらい、そこに住んでいるのだと言った。両親と弟妹の5人家族。

 「姉さんがいたんだけど、今はどこにいるかわからないの。中学卒業して就職したけど、すぐに家出しちゃって。伯父さんはカンカン!せっかく紹介したのに恥をかいたってね。お父さんもお母さんも平謝りになって、お姉ちゃんのことを怒るばかりなのよ。誰も・・・。」

 そこで言葉が切れ、彼女は一緒に少し歩こうと言った。

 「ここらへんの地名、知ってる?鍛冶谷って言うのよ。水の傍に鍛冶屋さんが多く構えていて、鞴の音が一日中していたらしいの。風戸って言うのはその鞴の音を表しているんだと思う。」

 「それは史実?それとも、君の童話?」

 「さあ、どっちかしら?信じたいほうを信じればいいよ。嘘つきって言われてもかまわないし。」

 「じゃあ、僕はどちらも信じることにするよ。僕にはどちらが嘘か事実かわからないから、言われたら信じるほうがいいし、君の話は(素敵だ)」と言いかけて言葉を変えた。

 「君の話は説得力があったよ。さっきの虹色に光る魚も含めて。」

 「T君は恥ずかしがったり、かっこつけたりしないのね。嘘つきって言われた方が楽なこともあるのよ。私の話したことが全部嘘だとしたら、私の現実の全部が嘘だよって笑われてる気がするでしょう?そうしたら安心できるよね。ああ、嘘なんだって。」

 彼女の表情はどこまでも明るい。決して悲観しているわけではなかった。

 僕たちは下流の下馬の橋まで行き、それを渡った。

 橋を渡りながら、城攻めの時に武者が馬に水を与えるためにここで降りたことが名前の由来になっているのだと彼女は話した。

 僕はここに二週間しかいなかった。

 あの日の道のりを思い出しながら歩きたかったけれど、そんなにゆっくりもしていられない。僕には次の仕事が待っている。 

 風戸橋から下馬の橋まで、同じように歩いてみる。

 下馬の橋は新しく架け替えられてはいるが今でも細い橋で、渡った先に大きな団地ができている。

 当時、ここはどんな感じだったか、と足を止めて思い出そうとしたけれど印象が浮かばない。特徴のない雑木林だったかもしれない。

 河川整備の手を休めていた男性に声をかけてみた。

 「すみません。こちらに長くお住まいの方ですか?」

 「ああ、そうだよ。何か?」

 「ちょっとお尋ねしたいのですが、風戸橋ってありますよね。あの橋の名前の由来ってご存じでしょうか?」

 「ん?風戸橋?ああ、あれか。あれはね、風間と大戸をつないでいる橋だからそういう名前が付けられたんだよ。」

 「では、ひとつ上にある橋は何と言う名前なのでしょう?」

 「小橋だな。」

 「そうですか、有難うございました。大変参考になりました。」

 僕はお礼を言って立ち去ろうとしたが、もうひとつ訊いてみた。

 「下馬の橋って城攻めに関係していますか?」

 「豊臣秀吉の寄越した軍がここで馬を降りたって言われてるね。」

 「史実に関わりがあるんですね。せっかくのご休憩なのにお時間を頂き有難うございました。」

 僕は深く会釈し、彼に手を振った。

 静川さん、あなたの言ったことは半分嘘で、半分は本当だったよ。

 多分、君は知っていたんだろうね。

 君は「嘘つきって言われれば自分の現実が全部嘘だって思える」って言ったよね。

 なら、君の現実の半分は事実なんだよ。それに僕は君を「嘘つき」だと思ったことはないから、今でも、君は事実として、ここにいます。

 


 

 

 



 

 

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