帰鳥舎人

文巻橋

 文巻橋の下は荒廃していた。

 枯草と朽木とゴミとが散乱し、鼻を衝く異臭が立ち込め、主桁は鉄錆びて、塗装は陽に焼かれ変色して褪せ、橋床の裏側は剥がれかけた苔なのか泥だかがボロボロの鱗のように張り付いていた。

 僕はただ歩いていた。

 どこから川に降りて、この河畔を歩き始めたのかも覚えていない。

 いつの間にかここを歩いている。

 それは意識的な運動などではなく、夢遊病者のように意識を抑え込み、水が低きへ流れるように漠然と移動してゆく、単なる現象に過ぎないものだった。

 ここまで来て、橋が何らかの意識を働かせて僕を現実に引き戻したのかも知れない。

 僕はそこが文巻橋であることを知っていた。

 橋脚の影に残照が射し込み何かを輝かせていた。それはモノクロに近い無関心な景色のなかで異様な注意を惹き、僕は確かめるために近づいた。

 樹脂製の人形だった。

 無残な姿に変わり果てているが、よく名の知られた人形であった。

 十一歳の少女と言う設定で作られたこの人形は性的にも肉体的にも、もう少し成熟しているように思え、毛髪の半分は抜き取られ、頭部の埋め込みの穴が露出し、汚物が入り込んでいる。丸裸にされ、右足はもぎ取られ、股間には性器を示す落書きがあり、その中心には細い釘で刺したような小さな穴が開いていた。

 全体に炭色の汚れが付着しているなかで、胸部だけが撫でまわされ磨かれたように肌色が生き生きとし、少女らしい固い丸みを保っていた。その白さは僕の遠い昔に感じた性への憧憬を軽く呼び覚ました。

 彼女は腐敗しない死体そのものの有り様で、眼は明るく見開かれたまま虚空を見詰めている。

 「君の眼には何が映っているんだろうね。」

 僕は屈みこんで人形を観察した。

 「私の眼は何も映さないわ。玩具を扱う人の喜ぶ表情しか教えられていないの。」

 人形は答えた。

 「そんな様になっても人が喜ぶ表情しか覚えていないなんて馬鹿々々しくはないかい?」

 「私だって最初は大切にされていたのよ。」

 凌辱され尽くした人形は焦点の合わない誇りに満ちた眼で僕に言った。

 僕は彼女を清潔な水で洗ってあげたくなった。

 「水と洗剤でどれほど丁寧に洗っても、その時の君に戻すことはできないだろうね。」

  些か嗜虐を込めて僕が言う。

 「憐れんでくれているのかしら?」

 「少しは、ね。」

 ゴソリと彼女が身を捩った。

 括れた腰の下から大きなヤスデが二匹姿を現した。ヤスデは不審な観察者には目もくれず、細かい櫂のような足を動かして、絡み合ってS字を描きながら近くに埋まりこんでいる空き缶の切り口に潜りこんで行った。

 人形は見た目に分からないほど位置を変えた気がした。

 「君はこんな風にして少しずつ移動しているんだね。朽ちることもせず、微妙に。」

 僕は微笑ましく言葉をかけた。

 「違うわ。私、一昨日までは橋脚の外側に居たのよ。男の子が蹴ってここへ飛ばしたの。」

 僕は彼女の言う橋脚の外側にあたりをつけて眺めた。

 「その男の子はどうしたの?」

 「蹴り上げた瞬間、私の体のなかに溜まっていた水が顔にかかって、それが目に入ったみたいでね、汚い、汚いって喚いて逃げて行ったわ。」

 固定された笑顔が少し動いたように見えたのは夕陽が角度を変えたせいであったろう。それとも僕が見ている位置を変えたのか。

 汚水を浴びた見知らぬ少年の眼が腫れあがり、顔にポッポッと吹き出物が現れ、次第に拡がり、丁度、この人形の右目から鼻、唇にかけてついた黒墨のように、どろどろと溶けて行くような妄想が浮かんだ。眼だけではなく、唾液に紛れて喉を伝い臓腑をも腐らせて行く、吐息は既に腐敗臭がしているだろう。それは僕の知り得ない現実であるかもしれない。

 「君は恨んでいるのかな?」

 彼女は何も映らない瞳を広げたまま、暫く沈黙を守っていた。

 鴉が二度三度声を上げた。

 自分よりも小さい鳥を遊び半分で追い回しているのだろう。追い回される方は命がけで逃げ回り、その寿命の幾許かを縮めていると言うのに。

 「私は誰も恨みはしないわ。そう言う感情を持ち合わせていないの。私は玩具として生まれ、玩具のための感情しか持たされていないのよ。私は人形遊びのなかで喜怒哀楽を示す単語の使い方を覚えたの。遊んでいる子供たちがその感情を私に映し、私はその通りに動かされて、感情を動作として理解したの。」

 「じゃあ、諦めも、恐怖も君自身にはないわけだね。」

 「多分、そういう感情は生産ラインには含まれていなかったと思うわ。」

 「それは幸せだったね。何よりだよ。唯一、惜しまれるのは、人は死を覚悟するとね、急に自分の世界を取り巻く自分以外のすべてが生命の輝きに包まれて見えるんだよ。まるで自分を除外した美しい映画を見ているようにね。純粋な観客になるんだ。素敵なことだと思わないかい?日常は舞台と客席とが混在して、あまりにも曖昧で、そのくせ孤立感を増幅させるだけで、とても疲れてしまうからね。死を自ら迎えようとするとね、孤立とは懸け離れた傍観者として主人公になれるんだ。勝手に動いている人々がたまらなく切なくて、胸の裡が温かくなるんだよ。君にはそれがわからないんだね。」

 「あなたはまるで経験したみたいなことを言うのね。でも、それも私にはわからないわ。どんな扱いをされても笑顔しか知らないもの。それが私の知る、人間に関する無二の表情なの。私がひとつの表情しか持ち合わせていないように。」

 僕は彼女にある種の愛しさを感じ、彼女の胸の固い膨らみに誰も触れさせてはならないと思った。

 「僕たちは肉体を失くして暗い森を彷徨うエコーのように自分自身を持ち合わせず、ただ長い間に刷り込まれたものを生活のために繰り返しているんだ。言葉も感情も。オリジナルを持たない世界で自己を維持しようとすることは拷問か苦行と同じなんだよ。僕たちは群個体なんだ。群れで一個の存在。『人』という種であって、大衆以外の何物にもなれない。大きくはみ出すことも叶わない。だから群れの中にいても自分がつかめなくて孤立させられている気が常にしているんだ。その滑稽な悲しみを君がわかってくれるとうれしいんだけどね。」

 「聞いてあげることはできるし、言葉として理解もできます。それをあなたが求める『わかる』というのと同質であれば、『わかります』って答えてあげることはできるわ。」

 人形のように誠実であれたら、生きて行く苦しみの大部分は無くなるだろう。それはアルカイックスマイルに包まれた幸福な狂気の世界。閉じこもるには最良の楽園。

 不意に、心安らぐ甘い花の匂いがした。エデンの森の香りだと僕は直感した。

 僕は彼女を汚泥から抱き起した。彼女の下には数匹の丸まった団子虫と地中に急ぎ身を隠そうとする蚯蚓の尻尾が見えた。

 拾い上げた拍子に彼女の体液が掌から手首を伝い、ワイシャツの袖口を汚した。

 拭き取ったあとを嗅ぐと生乾きの干物のような嫌な臭いが染み着いていた。

 僕は鞄にあるだけのポケットティッシュを取り出し、ミイラのように幾重にも彼女を包んだ。解けないように、柔らかな死体袋のように。

 それは人形の繭でもあった。

 塊となった人形を胸の前に捧げ、大切に橋上に運んだ。

 僕は光の届かなくなった彼女の顔を西に向けた。

 「君の映らない瞳にこの風景がわかるだろうか。僕たちは大地に身を隠そうとする太陽に向かって立っているんだよ。夕陽に雲が染まり、それが川に反射して、家路を急ぐ鳥たちも、山々や木々も単なるシルエットとなって、所々燈りが点りはじめた家々を抱き込む柔和な遠景は、生活のない壮大なジオラマのようだ。僕たちはその小さな家のなかにある不幸を無理に想像する必要もない。誰もが幸せだと思っていていいんだ。とても綺麗だよ。この世界は本当に美しいね。」

 そして大きく振りかぶって、繭となった彼女を川に投げ入れた。

 クルクルと回転する黒影となって彼女は流れのなかへ落下した。

 彼女を受け入れても小貝川は平静さを失わず、飛沫をあげたのかも僕にはわからなかった。

 焼けるような赤銅色の空は漸次その色を鎮めて複雑に混濁し安定した夜闇へと変わって行くだろう。

 橋上には歩行者は見えず、車だけがひっきりなしに行き交っていた。

 僕は残照に人形の体液で汚れた手を翳し、まだ浮いているであろう彼女に贈るように呟いた。

 「大丈夫、明日は晴れるよ。」

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