ある晩のこと
camel
ある晩のこと
「もう先がないと思うんや」
深夜、知らない番号から、聞き覚えのある声がした。
軽自動車に乗って、朝日が上る前に実家に着いた。母は玄関の鍵を開けたままにしていた。薄暗い廊下の先、台所を抜けて、階段を上ると母と私の部屋がある。ぎぃぎぃと床が鳴るのに眉を潜めながら、私は静かに襖を開けた。すると、寝息が聞こえ、私は安堵した。古い家のにおいがした。
階段を降りようとすると、母は声をかけた。
「顔ぐらい、見せぇや」
「こんな暗いのに、見えへんやろ」
封じていたはずの西の言葉が自然と吐き出された。自分ではないように思えた。
「体、悪いん?」
「そら、あんたより悪いわ」
掛布団を被り、くぐもった声がする。母の顔は見えない。白髪の増えた頭が少しだけ覗いている。
「死ぬん?」
「いつか、やな」
五日後とちゃうで、と母は自分で笑っている。
「あんな電話はもうやめてよ」
「怒ったか?」
「呆れてるのよ」
標準語に戻った自分にも驚いた。
「堪忍な」
それが母と私の最後の思い出だ。
経を読む坊主は白髪混じりで、あの日の母を思い起こさせた。
「おばあちゃんはどんな人だったの?」
「人騒がせな人かしらね」
「じゃあ、ママと同じね」
虚を衝かれて、目を見開く。
「似てへんわ」
あの日のように、私も娘に電話する日が来るのだろうか。私は小さな手を握り、もう一度口にした。
「似てないわ」
ある晩のこと camel @rkdkwz
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