第9話 絶対に譲りたくないもの


「ねぇ、お姉ちゃん、れーくん、知らない?」


 夜も更けた頃、声を掛けてきたのはリナだった。

 部屋の扉を開けて、声を掛けてきた妹にリゼは振り返る。


「……部屋にいるんじゃないの?」


 少し尖った声で返事をしてしまったのはついさっき、その玲斗と言い合いになってしまったからだ。


『本当にそれでいいのかよ』


 そう問われた時、なぜか自分の心臓が大きく跳ねた。

 だけど自分でもその理由は分からず、ぶっきらぼうな返事をすることしかできなかった。


「いない、よ。家のどこにも」

「じゃあ散歩にでも出たんじゃない?」


 そうは言うが、時計を確認してみれば時刻は夜の10時をすでに回っている。

 夜遊びが好きなタイプと言うわけでもないし、確かに妙ではあった。


「……さっき、れーくんと、話してた、よね」

「聞いてたの!?」

「聞こえた、だけ」


 リナは何でもない風に短く答えるが、リゼは頭を鈍器で殴られたような思いだった。

 あれを、聞かれた?


『リナとの約束は適当に思い出したとでも言っておけばいいじゃない』


 いつまでたってもリナと付き合おうとしない玲斗の態度にいら立っていたのは確かだ。

 だからこそあんな言い合いになってしまったのだが―――


「あ、あれは……」

「お姉ちゃん、約束。正々堂々、勝負、言った」

「っ!」


 正面からのぞき込んでくるリナの目に、底知れぬ怖さを感じて後退る。


「ボク、は、譲られても、嬉しく、ない」


 冷たい目で見据えられ、身動きが取れなくなる。

 金縛りのような状態になる中で、呼吸だけが早まって何か言わなければと思うものの言葉が出てこない。


「もう、やめて、ね」


 そう言って、部屋を出ようとする。

 視線が途切れたことでようやくリゼは動けるようになった。


「リナっ」

「お姉ちゃん」


 背中を向けたリナに向けて手を伸ばしたリゼだったが、その動きをリナの声が遮って止める。


「れーくんに、言われたこと、ちゃんと、考えて、みて、欲しい」

「え?」


 玲斗に言われたこと……?

 それを考えている間にリナは部屋を出て扉を閉めてしまう。

 後には手を伸ばしたままのリゼだけが取り残された。


  ◇


 夜天に大きな丸い月が昇っている。

 陽が落ちてなお未だに高めな湿度と気温に夏の訪れを感じながら、玲斗は公園に来ていた。ついこの前リナと一緒にやって来た公園だ。

 あの時とは違って、園内には人気は全くない。ところどころに設置された街灯があちこちを照らすものの、公園内にわだかまる闇を駆逐するには不足だ。

 誰もいない小さなグラウンドに、何となく足もとから這いよる寂しさを感じながら玲斗はこの前と同じ、ブランコを目指す。

 遊具の置いてあるエリアもまた、誰一人としておらず何となく自分だけが取り残されてしまったような物悲しさを感じて立ち止まる。

 そのままブランコには向かわず、ブランコを取り囲む鉄の柵に腰かけた。

 誰も座っていないブランコを見つめながら深く、息を吐く。

 なんとなく、一人で考え事がしたい気分で公園まで来てしまった。

 家にいると、どうしても一緒に家にいる二人のことを想像してしまいそうだったからだ。


「自分の家だってのに、何やってるんだ俺……」


 頭を抱えて呻く。

 どうしてこうなった……!

 二人とは、約束を思い出して。

 約束した方としばらく付き合ってそれでバイバイするつもりだった。

 だというのに気が付けば自分の方がわざわざ家から出て考え事をしている。


「なんなんだ、この状況は……!?」


 少し冷静になって考えて見よう。

 そう思って深呼吸をする。

 そもそもの約束は、結局二人ともとしていたわけで。


「昔の俺、クズかよ……」


 いや、落ち着こう。子供ならありうる話だろう。当時は小学一年生だったわけだから。そう、おかしくはない。俺はおかしくない……。

 そう自分に暗示を掛けながら、また深呼吸をする。

 結局、約束は二人としていたとして、じゃあこれからどうしたらいいんだ。

 元々は約束した方と付き合う約束だったわけだが。


「さすがに二股ってわけにはいかないよな」



 自分のクズ過ぎる発言に身震いする。

 リゼに出会った時にかまされた回し蹴りを思い出したのだ。

 あれをもう一度食らうつもりはない……。

 髪をショートにしたリゼの事を思い浮かべる。

 友達を作るのが上手くて、妹のことが大好きな奴だ。

 でもホラーが苦手で、料理も上手くない。

「あいつは、妹のことを選べって言った」


 長髪の、妹の方を思い浮かべる。

 最初から、好感度マックスなのか。リナはそう疑いたくなるほどスキンシップ多めだった。

 姉に比べると胸が大きくて、ゲームが上手くて一緒にいると楽しい奴だ。

 人と話すのが苦手で、友達もほとんどいない。

 それでも、リナは玲斗の事を好きだと言った。

 でも、そこにはリゼと交わした『約束』がある。

 その約束が、きっとリナが玲斗に固執する理由なのだろう。


「れーくん」


 暗闇の中から、不意に声が掛けられる。

 足音で、誰かが近づいてきていたことは知っていた。

 でもそれが、リナだとは思っていなかった。

 振り返れば、闇の中ジャージ姿のリナがそこにいた。


「リナ、どうしてここに」

「急に、いなくなるから、探した、よ」

「悪い。ちょっと散歩したかったんだ。もう戻るよ」


 そう言って立ち上がった玲斗だったが、リナは反対にブランコへと座った。この前ここでデートした時の様に。


「ねぇ、れーくん」

「何だ?」

「お姉ちゃんは、何でも、出来る人、だったの」

「?」


 きぃ、と音を立ててブランコを漕ぐ。

 街灯のほか近隣の家の明かりが遠い今、音はかなり寂しく聞こえた。


「ボク達、れーくんと会ったころ、ほとんど同じ、だった」

「ああ、入れ替われるほど、だったんだよな」

「そう。でも、れーくんに、会ってから、変わった」

「変わった? 好みが分かれ始めたって話か? それって成長しただけだろ」

「違う、よ」


 リナの眼が、街灯の光を反射している。


「お姉ちゃん、は何でもできる。そうなった。ボク、頑張った。努力、した。でもいつもお姉ちゃん、には勝てなかった」


 リナの視線が空を見上げるが、急に垂れ込め始めた厚い雲がかかって月は見えない。


「どんどん、引き離された。この前、まで全部同じだった、のに」


 唇を強く噛みしめて、短く区切りながら話すその姿からは、痛々しいまでの気持ちがつ溜まって来た。


「悔しかったのか」

「ううん、怖かった」

「怖い?」


 リナの言葉が理解できずに聞き返す。


「れーくん、もし、同じデザインの、ボールペンが二本あって、片方のインクだけが綺麗に出るなら、どっちを使う?」

「……それ、お前達の事例えてるつもりなら怒るぞ」

「うん、ありがと」


 玲斗の本気の怒気を感じながら、リナは綺麗に笑った。


「でも、ボク、はずっとそう思ってた。代替が出来るなら、ボクは、いらない子だって」

「そんなことっ!」


 思わず大きな声を出してリナの言葉を遮る。

 そんな悲しいこと、認めたくない。


「その考えが、ぬぐえなかった。それでも、ボクが今まで生きてこれた、のはれーくん、のおかげ」

「俺……?」

「ここで、れーくんは、言ってくれた、よ」


 小さく漕いでいたブランコを止めて、リナはまっすぐ玲斗を見ていった。


「何を、言ったんだ?」

「それは、秘密、だよ。ボクだけ、の宝物、だから」


 笑って言う姿からは本当に大切なものを思いだしているようなきれいな笑顔だった。


「でも、だから、ボクはお姉ちゃんに、れーくんを渡したく、ない」

「……」


 綺麗な笑顔で、けれど貪欲に自分の望みを口にする。


「ボクの、一番大切な思い出、だから。これからも、そんな思い出を、作っていきたい、から」

「リナ……」

「お風呂でのこと、ごめん、ね。れーくんが望まないこと、までするつもりなかった、けど。どうしても、お姉ちゃんに、負けたくなかった、から」


 ブランコから立ち上がる。


「ボクは、勝って、選ばれて、証明したい、から」


 すぐ目の前まで歩いてくると、すっと鼻先まで顔を近づけてくる。

 ふわりとシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。

 どきり、と心臓が跳ね上がった。


「ボクも、お姉ちゃんと、対等なんだ、って」


 それだけ言うと、体を引き離す。

 すれ違うようにして離れていくリナの背を、硬直したまま玲斗は見ていた。


「先に帰ってる、ね」


 身動きできずに、見送っていた。

 すぐにリナの姿は見えなくなった。

 湿った空気が満ち始めた公園で一人、硬直が解けた体で地面にしゃがみこむ。

 リナには、確かに姉へとの対抗心があった。

 姉に勝ちたいという思い。

 でも同時に、玲斗を好きだという気持ちも本気だと感じた。

 なぜだろう、今日の告白が一番心にしみた。

 今まで話していなかった心の内を話してくれたからだろうか。

 そんな風に言ってくれるリナのことが、玲斗はいとおしくてたまらなくなる瞬間があることに今さら気が付いた。

 人と話すことが苦手なくせに、素直で。

 まっすぐで。


「……帰ろう」


 ぼんやりとしていた玲斗だったが、立ち上がり足を家へと向ける。

 自分の中で大きくなり始めたリナへの想いを胸に抱えながら。

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