第8話 過去と現在


 両親が家を空けるようになったのは、中学に上がる直前だった。

 元々、仕事がかなり忙しかったようだが無理をして玲斗といる時間を作っている状態だったことは、玲斗自身も理解していた。

 だから母親が海外へ。続いて父親が日本各地を転々として週の半分くらいは家にいなくなった時も仕方ない、と笑って受け入れた。

 心の中に空いた、なぜだか懐かしい空虚な穴を感じながら。

 その時は分からなかったのだ。

 なぜ、その喪失感が懐かしいと感じたのか。

 今ならわかる。

 もっと昔。

 リゼとリナがある日急にいなくなったことを心のどこかでは覚えていたのだ。

 だからこうして今、二人が戻ってきて。

 まるで家族の様に一緒に生活できていることが、とても嬉しい。

 不覚にも引っ越したその日、リナに言われた通り「幸せ」と感じる日々だった。

 だから玲斗は未だに答えを出せずにいる。

 どちらかを選んだら、もう今の生活はなくなってしまうだろうから。

 リゼは言った。

「リナを選んで欲しい」と。

 リナは言った。

「私を選んで欲しい」と。

 だが二人の心にある気持ちはそれだけじゃない。

 短い同棲生活で、それははっきりと理解できたと思う。

 自分はどっちを好きなのか。自分の心だというのに、未だに理解できない。

 かつての自分がどちらと「約束」したのか。

 彼女はどっちなのだろう。


   ◇


「そろそろはっきりしなさいよ」


 部屋の中に立つリゼが眦を吊り上げて睨んでくる。

 夕食後、部屋で漫画を読んでいた玲斗の元へやって来たリゼはそう言った。


「あの子は……正直生活能力は皆無だと思うけどあなたのことを本気で好きよ。趣味だって合わないわけじゃないでしょ?」


 そう言って机の上のパソコンに視線を送る。

 あれから時々一緒にネトゲをやっていることを言っているのだろう。

 玲斗の方は頻度こそ多くはないものの、一緒に遊ぶ時間はとても楽しい。


「まぁ、な」

「……煮え切らない反応ね。何が不満なのよ」

「不満なんか、ねぇよ」

「じゃあどうして!」

「……」


 リゼの剣幕に押し黙る。

 どうやら本気ではっきりさせるつもりのようだ。


「まだ、どっちと約束したか思い出せてないんだよ」

「それは私とだって言ったでしょ。リナとの約束は適当に思い出したとでも言っておけばいいじゃない」


 言い訳がましく返事をした玲斗にリゼが早口でまくしたてる。

 何がそんなにリゼを焦らせているのか。

 それについて玲斗はよくわからなかったが、答えを出しかねている原因の一つが目の前で玲斗を糾弾するかのように立つこの少女であることは確かだ。

 だから玲斗声は少しいらだちを含んだものになる。


「……お前はどうなんだよ」

「は?」

「本当にそれでいいのかよ」


 この前、一緒に寝た時のことを思い出す。


『れーくん、好きぃ……』


 単なる寝言だ。

 だが思い当たる節はいくつもある。

 二日目の朝、ご飯を作ってくれた時リナは言っていた。


『練習、した』


 玲斗と三人で暮らすことになるからそのために練習したのだと思っていたが、あれは玲斗に食べさせるためだったのではないか。

 そもそも嫌っているような相手と一緒に寝ようなどとは思うはずもない。


「何のことを言っているのかよくわからないわね」


 それでもリゼは姉としての顔だけでふるまう。


「……そうかよ」


 本心を引きずり出すことが出来ず、玲斗は立ち上がる。


「どこに行くのよ」

「風呂」

「ちょっと、まだ話は終わってないわよ?」


 そっけなく返すと、怒りのにじんだ声が帰って来る。


「そんなに話したきゃ風呂まで来いよ。家の風呂は広いからな」

「んなっ!?」


 玲斗の挑発に、想像したのだろうリゼが羞恥で頭のてっぺんまで真っ赤にする。


「行くわけないでしょうが、この変態!」


 叫ぶリゼを置いて玲斗は部屋のドアを閉めた。

 別に本気で言ったわけではない。

 ああ言えばリゼが顔を真っ赤にして起こることは予想できた。

 同時に恥ずかしがって追ってなど来ないことも。

 玲斗は部屋から持ってきた着替えを手に風呂場へと向かう。

 そう言えば、最初にリナと再会したのもここだった。

 脱衣所で洗濯物を入れる籠に服を突っ込みながらふと思い出す。

 あの時はリナの美しさに見とれて身動きが取れなくなったんだっけ。

 そう思いながら風呂場のドアを開ける。

 さっきはああ言ったが、特別風呂は大きいわけではない。

 家を建てた時、両親の道楽で湯船は少し大きめで、高校生の玲斗が足を延ばして入れるくらいには大きいものの二人でゆったり浸かれるようなものでは当然ない。

 今頃そのことに気が付いてリゼがまた怒っているのではないかと思うと少し憂鬱だ。

 軽くお湯で体を流してから、湯船に浸かる。

 暖かいお湯に、疲れが流れ出していくようだった。

 はぁ、と一つ大きめのため息をつく。


「ダメ、だよ。ため息、幸運が、逃げる、から」

「そうは言ってもな―――って、何してる!?」


 思わず返事を仕掛けた玲斗だったが、声に振り向いてぎょっとする。

 一瞬さっきの挑発を真に受けてリゼが来たのかと思ったが違う。

 風呂の扉を開けているのは一糸まとわぬ姿のリナだ。

 同時にこちらも一切何も身に着けていないことを思い出し、湯船に肩まで沈んで隠れようとする。

 だがリナは、そんな様子の玲斗を一切気にすることなく風呂へと入って来た。

 そのままシャワーでお湯を出すと体を流し始める。

 真っ白な背中から目を離せずにいた玲斗だったが、すぐにでも風呂場を出るべきだと思い出す。


「ちょ、ちょっと待て! す、すぐに出るから!」

「大丈夫、だよ」

「何が!? いいからちょっとあっち向いてて―――」

「よい、しょっと」

「!?」


 シャワーを止めたリナが立ち上がると、そのまま湯船に足を入れてくる。

 湯船の縁を越えた右足が、延ばした玲斗の両足を越え湯船の底に着く。そのまま体重を移動させ、もう片方の足も湯船に入れる。体をかがめるとお湯を溢れさせながらお湯につかり始める。

 その真っ白で柔らかそうなお尻が玲斗の顔の真ん前に来たところで、玲斗は目を瞑った。視界が暗くなる。感じるのは瞼越しの風呂場の明かりと、体の上にのしかかる重みのある柔らかな感触。


「ふぅ」


 玲斗の耳にそんなリナの吐息が聞こえる。

 リナの背中が玲斗の胸に預けられたのが感触でわかる。

 いい匂いがする。

 目を瞑っているので見えないが、リナの頭がすぐそばにあるのかもしれない。

 風呂に入るときには長い髪をヘアピンでアップにまとめていたようだが、シャンプーもしていないのに何でこんないい匂いがするのだろう。女の子は謎だ。


「ちょ、ちょちょちょ、おまっ!?」

「ん? どうした、の? れーくん」

「どうしたのじゃねぇよ!」


 目を瞑ったまま叫ぶ。

 足の上に座られているので立ち上がることが出来ない。


「お前がどうしたよ!? いくらなんでも襲ってくださいって言ってるようなもんだぞ!」

「じゃあ、いっそ、襲って、欲しい」


 目を瞑ったまま、聞こえてくる声は少し震えていた。


「もしかして、聞いてたのか?」

「……うん」


 声と共に頷く気配。

 先ほどの部屋での会話を聞かれていたらしい。

 リナを選ぶと言わなかったことで不安にさせたのか。


「俺はまだ、決められないんだよ。それに、思い出せてもいないし」

「お姉ちゃん、はああ言ってた、けど。本当に約束した、のは私」

「……そこに関してはどっちも譲らないのな」

「だって、今でも、思い出すんだよ」


 少しうっとりした声で言う。


「小さい自分に、れーくんが『大きくなったら、結婚、しよう』って言ってくれるの」


 その声に偽りは感じられない。

 きっとほんとに目に浮かんでいるのだろう。

 しかしそこで、若干声の雰囲気を変えてリナは言う。


「ねぇ、ボク、怒ってるん、だよ」

「何に対して?」

「お姉ちゃん、ボクを選べって、れーくんに、迫ってた」


 本当に最初から聞いてたらしい。


「お姉ちゃん、約束、したのに。正々堂々、れーくんを奪い合う、って」

「それが『約束』か」


 なんとなく、予想はしていた。

 だとしたらやっぱりリナは―――


「ボク、はれーくんのことが、好き」

「……」

「お姉ちゃんに、奪われる、くらいなら、なんでも、する。れーくんに、いやらしい子だ、って思われて、いい」


 体の上に乗った感触が、位置を変える。


「ねぇ、れーくん。キス、しよ?」


 顔の真ん前でささやかれた声に、目を、開く。

 風呂場の柔らかな光の中、目尻に涙を浮かべたリナの顔が真正面にある。

 ほんの少し、顔を突き出すだけで唇同士は重なってしまうだろう。

 それぐらいの距離だ。

 動かない玲斗へと、リナは本当に僅かずつ距離を詰める。

 あと少しで唇がぶつかるだろう。

 その直前で、玲斗は口を開いた。


「なぁリナ」

「……なに?」


 動きを止めて答えるリナ。


「お前は本当に、俺のことが好きなのか?」

「当たり前、だよ。何度も、言ったじゃない?」

「そこに、リゼへの当てつけっていう気持ちは、ないのか?」

「……」


 押し黙るリナ。

 それこそが玲斗がずっと考えていたことだ。

 何故かはわからない。

 だが、リナがこうして積極的に迫ってくる理由がほかに思い浮かばなかった。性格的に、リナはもっとゆっくりアピールしたかったはずだ。現にさっきから、肩に置かれたリナの手は微かにだが震えていた。


「どうして」


 ぽたり、と水面に水滴が落ちる。


「どうして、分かっちゃうのかなぁ」


 リナの両目から、涙があふれていた。


「ボク、結構、頑張ったんだけど、なぁ」

「だから俺は、二人とも大切になったんだよ」


 くしゃりと顔をゆがめたリナが、顔をそむけた。

 そして少し自嘲気味な笑みを浮かべる。


「あんなこと、言うくせに、お姉ちゃん、も相当れーくんに、ぞっこん、だもん、ね」

「やっぱ、そうだよな」

「気づいてないの、お姉ちゃん、だけ」


 涙の残る笑顔。

 それを真剣なものに変えると口を開く。


「それでも、ボクを、選んで欲しい」

「……もう少しだけ、時間をくれ」

「わかった、よ」


 そう言うと、リナは湯船から立ち上がる。

 そのまま風呂場を出て行った。

 少しの間、脱衣所で着替える音がしたがすぐにその気配もなくなる。

 玲斗は湯船の中でぐにゃりと体を弛緩させた。

 情けない返事しかできなかった自分が、嫌になる。


「本当に、どっちと約束したんだよ。昔の俺……」


 のぼせそうになる頭で考えても答えは出ない。

 でも、もうそろそろ決めなければならない。

 思い出せないならそれはそれで仕方ない。

 それでも、そんな『約束』を大事に覚えていてここまでしてくる二人に報いてやるべきだと自分の中の何かが訴えている気がした。


   ◇


 風呂から上がった玲斗は、一階の奥にある洋間へと足を運んだ。

 ここには以前、リゼたち二人の部屋にあったガラクタを押し込んである。

 それらと一緒に、おそらくあれもあるはず。

 幾つも積んである段ボールの山をかき分けて、せっかく洗った体を埃にまみれさせながら探す。


「あった……」


 古びた段ボールの中から取り出したのはアルバム。

 ページを開けばまだ幼稚園の頃の玲斗の写真が幾つもある。

 短い間とは言え、幼い頃にあれだけ一緒に遊んでいたのだ。写真の一枚くらいは残っていてもおかしくはない。

 そう思ってページを捲る。

 両親は写真を撮るのが好きだったようだ。

 小さい玲斗と一緒に写った写真は何枚もある。小学校に上がる前までの写真だけでアルバムの半分を過ぎてしまったほどだ。

 そして小学校入学式、と書かれた看板と一緒に写った写真を見つける。

 そこから数ページとんだところにその写真はあった。


「これ……」


 長い髪の、女の子。

 髪色は若干茶色で、目がぱっちりしていて可愛らしい。

 そして女の子は、二人いた。

 間に挟まった玲斗は、なぜだか困惑したような顔をしている。


「二人と、本当に会ってたんだな……」


 写真に写る二人は、玲斗の腕を左右からしっかり握っており、ぴったりとくっついている。

 他のページもめくってみるが、二人と写っているのはこの一枚のみの様だった。

 そこでふと、疑問を覚える。


「この写真、誰が撮ったんだ?」


 今まで見てきた写真は、父親と写っている物が多かった。だとすれば、写真を撮っていたのは一人しか考えられなかった。


「母さん……」


 ポケットからスマホを取り出す。

 高校に上がってからはほとんど帰ってきていない母親。

 この番号にかけたことも一度もない。

 コールボタンを、押す。

 父親に聞いたときにはロシアにいるようだったが、つながるかどうかは運次第と言ったところか。

 数回のコール音の後、通話がつながる。

 そのことにまずはっと息を呑み、


「玲斗? どうしたのよ。こっちにかけてくるなんて珍しいじゃない」

「母さん」


 聞こえてきた声は、間違いなく母親の物。

 もう40くらいのはずだが、声からはかなり若々しく聞こえる。


「ちょっと、聞きたいことがあってさ」

「何を聞きたいの? ちなみに今母さんはマーシャル諸島で短いバカンス中よ? お父さんも一緒にね」

「いや、それはどうでもいい」

「じゃあ、リゼちゃんたちの事かしら?」

「!?」

「図星みたいね。もうちょっと早く聞いてくるかと思ってたけど」


 そう言って電話の向こうで笑う。


「写真、見つけたんだけど。母さんもリゼたちの事知ってたんだな」

「当たり前よ。玲斗を連れて公園に行ってたの私よ?」


 何を今さらと言った風だ。

 そのことに若干頭を痛くしながら話を続ける。


「二人の両親とは知り合いだったんだ?」

「まぁね。とはいっても引っ越してからは連絡先も知らなかったし、お父さんが仕事でたまたま再会したのにはびっくりしたけどね」


 そう言ってからからと笑う。


「それにしても思い出すわねぇ。あれは傑作だったわ。引っ越しの直前、リゼちゃんとリナちゃん二人同時に初めて会った玲斗が目を白黒させてて……あれは声を出して笑っちゃった」

「しかも『どっちと結婚するの!』って詰め寄られてて。結局二人を前にして『結婚する!』って言ってて。あの子達のお母さんと一緒になって笑っちゃったわよ」

「っ……!」


 その言葉を聞いて理解した。

 リナの言う、自分を前にして告白する玲斗、と言うのはリゼも一緒にいたからそういう記憶になったのだ。写真の二人は本当に寸分たがわず同じに見えた。そう記憶してもおかしくはないだろう。


「聞きたかったのはそんなところ? じゃあ初恋の女の子と同棲してるからって羽目を外し過ぎないようにね。ま、お母さんは父さんと羽目を外すけど」

「うるせえ」


 親ののろけなど聞いても鳥肌が立つだけだ。


「それじゃ、近いうちに一度家に帰るから。二人にもよろしくねー」


 そう言って電話は切れた。

 通話の切れたスマホを黙って見つめる。


「どうしろっつうんだよ……」


 何があったのかは、分かった。

 だが結局、玲斗はその時のことを思い出すことが出来なかった。

 そのことが、余計に玲斗の心を惑わせている。

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