まりあのママは

幻卜

まりあとママとパパ

父さんも母さんも勝手なやつだと思った。結局私なんて見えていない自分勝手、自分のことばっか。そんな奴。


離婚が決まった時、嫌で嫌でしょうがなかった。

父に引き取られると決定した時、母が私をいらないと知ってしまった時、悲しくて悲しくてたまらなかった。


母はさすらいの小説家、父は至って普通のサラリーマン。普通の家庭とは違うちょっと特殊な家に生まれた。母は売れっ子でいつも原稿に追われてて忙しそう、でもとってもユニークで母の話は面白くて、私は母の見る世界に無我夢中だったのを覚えている。父は優しくて穏やかな人だった年収もユーモアも母には敵わなくて至って普通の人と言った印象、原稿で忙しい母に変わって遊んでくれた、料理も授業参観も来てくれる。思えば母よりも父の方がずっと私に構ってくれてた。でも、私は父よりも母が好きだった。彼女の世界があの夢のような心地良い世界が、決して輝きを失わない一等星のような個性が、私の心を強く強く握って離さない。


離婚の気かっけは母の浮気だ。浮気を知った時もちろんショックだったけど、でも、許せてしまう。父も多分、許してしまうと思う。でも母は私たちのことを許せない。

母は言う「別れましょう」と「浮気をする女なんて嫌でしょ?」「まりあの教育にも悪い」「貴方が育てた方がいい」

「僕は愛しているよ」「全部許せるよ?」「家族が揃っていた方が教育にはいい」「二人で育てよう」……、言い返す言葉なんていくらでもある。でもパパは優しいから何も言わなかったんだ。


朝目が覚めると、母はどこにもいなかった。出て行ったんだ。辺りがどんどん暗くなっていく。私に何も言わずに、体が重くなって行く。ソファに虚ろな目をした父が座ってた。

私は父の隣に力が抜け落ちたかのようにドスンと座る。

父の口からもうやめたはずのニコチンの匂いと掠れたため息が溢れる。

声にならない声で空に話すみたいに父は口を動かす。


「ゆりは僕たちを切り捨てたんだ。彼女は僕たちよりも個性を選んだんだ」


そんなことない!と今にも叫び出したい!今この時世界の誰よりも大きな声で私は、私は叫び出したかった。

けど、全部本当のことで、

事実で、

父にこんなことを言わせた母が憎くて、

母をそう言った父が信じられなくて、

私を奈落に落とした二人が許せない。

喉に何かが引っかかり、溢れた感情は頭まで登って瞳で溢れ出した。

大声で泣き叫べたら気持ちいいのだろ、せっかく足があるのだから風のように走って母を追いかけ抱きしめられたい。けど、惨めな私の喉はわずかに嗚咽を漏らすだけで、力の抜けた足はあざ笑うかのようにカタカタ笑っていた。






世界が暗く沈んで灰色になっていく。真綿で首を締めるかのごとく徐々に徐々にそれでいて着実に私の息の根を止めて行く。


父が新しい母親を連れてきたのは半年にも満たない冬の日だった。

ツユリさんを見たとき息が止まりそうになったのを覚えている。それは衝撃にも似た感覚で彼女が私に話しかけたとき、挨拶をし返さなきゃと「こ」を発音するその瞬間まで私は自分が息をしているのを忘れていた。


ツユリさんの第一印象は優しい人だった。彼女は私の気にも触れなければ特別な感情を抱くわけでもない、好きか嫌いかで言えば嫌いではないタイプの、もっと簡単に言えば私が特に興味のないタイプの人間だ。


父さんにツユリさんをどう思うかと尋ねられたことがあって、私は特に何も考えずに「別に」と素っ気なく答えた記憶が確かにある。父は最初はそんなもんだよと笑って、その態度が何故だか無性に感に触って母親に最初も最後もないだろと頭を掻き毟る。どうでもいい、どうでもいいがとにかく興味がないのは死活問題だ。


ツユリさんと父と私が三人で一つの家で暮らし始めたのは桜が咲くころだった。

街も、家も新しく買って新規一転。学校は変わらなかったものの新しい生活の幕開け。

だがその頃には世界は灰色でまるでおもちゃの電車のように決められた日常のレールを走っているみたいな代わり映えのしない気分。


レールが壊れ始めたのはいつ頃だろうか、多分桜の散った頃、太い生命力に溢れた樹木は青々とした艶やかな葉を枝先まで萌えたぎらせた頃。私の生活は暗転した世界の中、六畳の憂鬱の牢獄から出られずにいた。

それから世界はぼんやりとしている、中学三年生の夏と言う大切な時期なのに、腐れ谷のような汚損した精神がやるきから活力までなにもかも奪い去っていく。

黒く霧がかったような四角い箱の中には有りもしない音と影が無数に行き交い、小さなペンも大きな窓もこの箱の中にあるすべての物が死へと誘う凶器に見える。

私はただぼんやりベットに寝そべり、憂鬱の波に飲まれるしかない。

何気なく発する言葉より綺麗なものはない。だって母がそうだった。


感情に任せ思いのまま描き綴る文はきっといつだって美しい。

母の、母の個性に任せた世界はいつだって美しい。

私は母のようになりたい、だが。これを見ろ!今を見ろ!なんなんだ少しも美しさがない。腐っている。湿っている。私を返してくれ……。


そう、毎日。毎日。嘆いて、泣いて。私はずっと絶望する。どぶのような思考回路の中でいつだって嘆きしか得られるものがない。世界は無色になることなく。ただただ暗い。


しばらく経った頃だと思う。

季節感も時間も心もなにもかも狂った日。久しぶりに私の牢獄の戸を叩く音で目が覚めた。


「まりあちゃん?」


ツユリさんだ!

ハッとして私は急いで立ち上がって椅子に座り直す。


「中に入っていいかしら?」


考えるよりも先に肯定の言葉が漏れ出す。「はい」と答え終わった時にはハッとして、でも言葉を発してしまった以上はなんだかその答えがしっくりきて。訂正する気も起きなければ次の瞬間にはツユリさんは私の部屋に入ってきていた。ただ心の準備はまだだ。


「ねぇ?今から私と出かけて見ない?」


特におかしくない一言は私にっとて酷く他人行儀に聞こえる。

戸惑う。

どうすればいいのか、私の判断じゃ決められない。

行きたくないといえば行きたくない。ちっとも。だけどこの断りを無下にはできない思いがある。だってツユリさんは一緒に暮らしてるんだからここで断っても気まずくなるだけ。だから私は悩んだ果てに「行く」と答えた。

ありがとう、大丈夫。すぐに帰ってくるよ。とツユリさんは少し眉を寄せて笑う。

私はまるで壊れものみたいだ。

なにかがずしりと重くなる。


そうと決まれば服に着替えなければならない。ここしばらくベットで暮らしていたがため基本パジャマしか着ていなかったが、流石に外に行くとなるときちんと私服に着替えなければ恥ずかしい。こんな状態でもいっちょ前に恥じらいの感情があるのがなんて皮肉なんだろうな。


自室の扉を開け一歩踏み出すと壁か何かが挟まっていたのかというほど空気が変わる。同じ家なのに自室と廊下ではなにかが違っていた。空気が軽くなった様な気がする、だが不安感は拭えないけれど。

さらにそこから外へ出る。思っていたよりも涼しい。懐かしい。これは秋だ。


「本当に近場なんだよ?まりあちゃんにとっては大した場所じゃないかもしれないけど、この住宅地で見つけたおススメスポットなの。ずっと見せたいなって思ってた」


ツユリさんは優しい笑顔で笑う。

そんなこと言われた私は逆上しそうに思えたけど、不思議と嫌味はなくスッキリ馴染む。そして少しばかり嬉しい。そんな気持ちがカサカサの心に染みてピリッと痛む。


どこに連れて行くんだろう。駅とは真逆のしかもどんどん住宅街の深くまで入るもんだから全く見当がつかない。

まだ十分も歩いてないのに引きこもりと気疲れあってかもう体力は限界手前だ。


「ほら、ついた!」


長いコンクリート造りの階段を抜けた先。ツユリさんは目を輝かせて指を指した。

そんなはしゃいだ姿を見ていると脳裏に母の顔が思い浮かぶ、父は適当にこの人を選んだんじゃないんだなと言うことが理解できて、そして母の面影をツユリさんに感じていることを申し訳なく思ってしまった。


「まりあちゃんにこれ見せたかったの」


それは夕焼けだ。住宅街に沈む眩しいまでの夕焼け。そして赤だ。綺麗な赤とオレンジのグラデーション、空を染めて色境界線が紫に色づくのがまた神秘的で。しばらく灰色の世界の住人だった私には酷く眩しく、美しく感じられた。

心の中の汚いモヤモヤがスゥと薄らいて行く、内側から軽くなっている気分だ。


「綺麗でしょう?」


「うん」


「……あ、あのね。まりあちゃん」


「?」


「私、まりあちゃんのこと……ちゃんと愛してるから……」


空気がぐらんと震えて揺れた。

しくじったな。

特に怒るでも嬉しいわけでない。直感的にそう思ったしツユリさんの顔を見るまでもなく動揺していることが手に取るようにわかる。

これは確かに私に言った言葉だが私に向けて言った言葉じゃない。自分に言い聞かせた言葉だ。


「まりあちゃん、まりあちゃん大丈夫」


急にツユリさんは私を強く抱きしめて涙で歪んだ顔を肩に伏せた。

訳がわからない。償いか、はたまた後悔か。何一つわからない、でもただ抱きしめられた温もりと感情の溢れた嗚咽に私は我慢できなくなって彼女の背中に手を回す。


「まりあちゃん、まりあちゃん。例えどんなに時間がかかろうとどんな困難が待ち受けようと、例え今でなくても。私は、私は必ずあなたを愛してる」


ツユリさんは私を痛いほど強く、強く抱きしめて。言葉一つ一つを確かめる様にゆっくりと紡いでいく。

私は訳がわからなかったのだけどそれでもツユリさんの確かな想いと、言葉の重みで心臓がギュッと握りつぶされる。


嬉しかった。悲しかった。寂しかった。悔しかった。辛かった。


痛み苦しみむず痒さ。様々な感情と感触に耐えられなかった私の心はついに涙として外に漏れ出す。




ああ、ああ、ツユリさん。ツユリさん。ごめんなさい。




私は、やっぱり。その言葉を母さんに言って欲しかったよ……。

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