夢花火
増田朋美
夢花火
夢花火
須藤有希がブッチャーの家にもどってきた。
理由は、というとこういう事だ。明らかに誰かに迷惑をかける行為が多いので、無理やり返されてしまったという。
本当にブッチャーは、呆れていた。なんでまた、そんなことをして、製鉄所からもどってくるんだろうか。全く、こういうところがどうしてもブッチャーには理解できない所である。
でも、須藤家にはこれのおかげで、またどうしようもない問題が勃発した。有希は、今まで以上に無気力になって、食事だけはするものの、何も口を聞かなくなってしまったのだ。
今日も、ブッチャーは有希の部屋のドアをたたくが、返事はなかった。
「姉ちゃん、返事しろよ。部屋に閉じこもってないでさ、買い物でも行こうぜ。」
ブッチャーは、大きなため息をついた。すでに、二人の両親は、もうお手上げだと言って、有希には声をかけていなかった。
「姉ちゃん。いつまでも部屋にいると、気が変になってしまうぞ。」
ブッチャーは、もう一回言ったが、やっぱり返事はなかった。そのうち、居間に設置されている時計が九時を知らせる。郵便局が、開店する時間だ。ブッチャーは、着物を発送しなければならないことに気が付いて、急いで部屋を後にした。
「あーあ、俺の姉ちゃん、何時になったら解決するんだろうかな。」
と、ブッチャーは、頭をかじりながら、郵便局を出て、道路を歩いていた。金銭的な事なら、ブッチャーの着物商売で何とかなっているが、逆に金があって、生活に困っていない方が、回復を遅らせているのかもしれなかった。とりあえず、今日も、発送した着物の分だけ、金ははいってくるだろう。それで、今日の米代は大丈夫、何て安心していないほうが、引きこもりというモノは、早く回復するのだろうか。
ブッチャーは、家に帰る気になれなくて、途中のコンビニで、お茶を一本買い、イートインコーナーでボケっとお茶を飲んだ。
すると、車いすの音がして、誰かがはいってきたのがわかった。はいってきたのは蘭だった。
「あ、蘭さんじゃないですか。」
ブッチャーはおもわず声をかけた。でも、返答は返ってこなかった。蘭は、何か通信販売で買ったのだろうか。その代金を、支払にやってきたらしい。店員さんに声をかけて、お金を支払っていた。
「蘭さん、何か買ったんですか?」
もう一回声をかけると、蘭は、やっと気が付いてくれて、
「ああ、ブッチャーじゃないか。」
と、大きなため息をつきながら言った。見ると、車いすのポケットには、何冊か本がはいっていた。それは、相手に自分の気持を伝える方法とか、怒らないで相手に要点を伝える方法とか、そういうタイトルの本ばかりだ。その本を購入して、その代金を支払っていたのだろうか。
「あ、ああ。実は古本屋で本を買って、代金を払って来たんだ。うちで読もうと思ったら、アリスがお客さんが来るからどこかよそで読んできてっていうもんだから。」
蘭は、車いすのポケットから本を一冊取り出した。確かに偉い心理学者が書いた本であることは疑いないが、一寸時代に合わないのではないかと思わずには居られなかった。
「蘭さん、古いですよ。そんな本じゃなくて、もっと今生きている人が書いた本を買ったらどうですか?今の時代は、五年前と今では、ぜんぜん違うんですよ。」
ブッチャーは、その古い本に笑いたくなってしまったのである。
「まあでも、うちには金がなくて、古本屋で買ってくるしか方法もなくてね。」
蘭は本当にケチだなあというか、金に対してうるさいんだなと思った。逆に蘭のような、いつも金がないと騒いでいるような人のほうが、姉にはいい刺激になるのではないかと思ってしまったくらいだ。
「蘭さん、出来れば、俺じゃなくて、蘭さんが、俺の姉ちゃん世話してくれたらいいのになと思ってしまいましたよ。」
ブッチャーは、思わずそういうと、
「そうだ、お姉さんに、お願いがあるんだが、一寸会わせてもらえないか?」
と、蘭がそういうことを言ってきたのでまたびっくり。一体何があったのかとブッチャーは、蘭の方を見てしまった。
「お願いって何ですか。姉ちゃん、部屋に閉じこもっちゃって、出てきませんよ。」
「いや、お姉さんの素晴らしい英雄的な行為のおかげで、水穂は一命をとりとめた。だから、そのお礼をさせてもらいたい。」
「はあ、、、。」
ブッチャーは、蘭のいう事にぽかんとしてしまった。
「あのですね、蘭さん、俺の姉が何をしたというのでしょうか。そんな英雄的行為が出来るような、人間ではありませんよ。うちの姉ちゃんは。」
「いや、してくれたじゃないか。水穂を病院まで運んでくれたそうだね。そこをお礼したいんだよ。」
「あああ、あれですか。あれは、看護師さんが。」
ブッチャーは説明しようとしたが、蘭はどうも、有希が水穂を病院まで連れていったと、勘違いしているらしい。それを訂正してしまったら、何だか蘭に悪いことをしているようで、ブッチャーは訂正する気になれなかった。
「で、機会があったら直接お姉さんにお礼をしたいんだが、それはいけないだろうか?」
蘭がもう一回そういうので、ブッチャーは困ってしまう。
「ですけど、姉ちゃんは今、ちょっと体調を崩してまして、家の中にずっといるんですよ。」
「体調って何処が悪いんだ?」
蘭にそう聞かれて、ブッチャーはさらに困った。姉は確かに部屋に閉じこもっている。でも、五臓六腑の何処が悪いのかと聞かれたら、こたえるところがない。それが精神疾患の説明として、一番困るところだった。
「何処が悪いのかはっきりしないのなら、何とか大丈夫だろ。お姉さんにお礼がしたいので、時間を作ってくれるように言ってもらえないか?あ、そうだ。其れなら今行ってしまってもいいだろう?どうせ本なんて、いくらでも読めると言えば読めるし。」
蘭がそんなことを言い出したので、ブッチャーも度胸を据えて、蘭の言う通りにすることを決めた。
「どうせ僕も、今日の五時くらいまでは、家に帰れないんだ。アリスのお客さんが、その時まで家にいるからさ。悪いんだけど、運賃はちゃんと払うから、ちょっと君の家に連れてってよ。」
「運賃何て払う必要はありません。俺の家はこのコンビニから五分も立たない所にあるんです。車いすに乗っていても、十分以内で着きます。」
ブッチャーは、そこだけは正直に言った。二人は、そこだけは良かったと言って、手早く飲み物を返して、コンビニを出た。確かにブッチャーの家は、コンビニからすぐ近くだった。確かに、十分もかからないでついた。
それでは、とブッチャーは、玄関のドアを開ける。とりあえず居間から食堂にはいってみると、有希がカップラーメンを食べていた。多分長く引きこもっていても、人間はたべなければいけないので、其れに敗けて、ここに来たのだろう。
「姉ちゃん、姉ちゃんにお礼を言いたいという人が来たんだ。だから、ちゃんと服を着替えてさ、ちゃんと、応対して貰えないかな。」
ブッチャーがそういうと、
「お礼って、誰?」
と、有希はぼそっと言った。
「だから、お礼したい人がいるんだから、すぐに服を着替えて、お礼を聞いてやってくれよ。さすがに、パジャマのまんまで、お客さんの応答をするのは、一寸恥ずかしいというか、マナーが悪いだろ?」
ブッチャーが、そんなことを言っている間、玄関でまたされていた蘭は、速くしてくれとうずうずしていたが、もう我慢が出来ず、お邪魔しますと言って、家にはいってしまった。
「あの、すみません。」
いきなり居間の扉ががちゃんと開いたので、ブッチャーもおもわずびっくりしたようであった。有希は、相変わらずパジャマ姿のままだったが、蘭がはいったのを見て、ラーメンを食べるのをやめて、今日はとあいさつした。
「須藤有希さんですね。」
蘭は有希に言った。ブッチャーは、まだ何の準備もしていないのに、はいってこないでくださいよ、と言いながら、蘭に出すお茶を探しに、台所に行った。
「そうですけど。」
と、有希も蘭の方を見る。
「あの、有希さん。僕のかってなお礼ですが、水穂のことを病院まで運んでくださって、有難うございます。本当に、あの時は、助かりました。」
蘭は、有希に向かって頭を下げた。
「困りましたわ。水穂さんに身内の方がいらしたなんて。」
有希はそんなことを言っている。
「これはほんの気持ですが、受け取ってください。」
蘭は、車いすのポケットからお菓子の箱を取り出して、有希に渡した。
「えーと確か、お名前は?水穂さんの身内か、親戚の方なの?」
有希がそう質問した。
「はい、伊能蘭です。身内でも親戚でもなく、小学校の時に同級生だったんです。」
蘭がそうこたえると、
「そう、同級生が、そんなことまでするんですか。何だか水穂さんが悪いことをして、親御さんが謝罪に来たような感じだわ。」
と、有希はそういう。確かに普通の人とは全く違う反応だったので、蘭は、若しかしたら自分の魂胆が伝わるかもしれないと思った。
「まあ確かに謝罪といえるかもしれない。だってあいつは、本来であれば病院に行かなければならないのに、行こうとしないんですから。そうじゃなくてちゃんと病院で手当てしてもらって、生きようと思わなければダメなんです。周りの奴らも其れに感動してしまって、あいつのいうままになってしまっている。そうじゃなくて、やっぱり、体を治して生きようとして貰わなきゃ。だから、あなたが、病院まで連れて行ってくれて、本当に嬉しかった。ありがとうございました!」
蘭は、もう一度、有希に頭を下げた。
「あたしも、そう思うわ。」
有希は言った。
「きっとそうしなくちゃ、水穂さんも助からないと思ったの。少なくとも、あたしみたいに、たいへんな身分ではないんだし。普通の人はちゃんと生きるべきだと思うの。誰も、死んだ方がいい何てそんなこという人はいないわよ。昔の貧しい村じゃあるまいし。そういうことは大事な事として、残しておくべきだと思うわ。」
「有希さん、そう思ってくださるのなら、お願いがあるんですが。」
と、蘭はいよいよ本題を切り出した。
「何ですか?」
「ちょっと弟さんには聞いてもらいたくないので、こっちへ来てもらえますか。」
有希は、テーブルから立ち上がって、蘭の近くまで来た。
「あのですね。こういう訳です。よろしくお願いします。」
蘭が、そっと有希の耳元で用件を言うと、有希は、
「そんな事私に出来るかしら?」
といった。
「いえ、お願いします。僕にも、誰にも出来ないので。ほかの奴に相談しても、誰も話を聞いてくれない今、あなたを頼るしか方法がないんです。あなたのようなちょっと変わった女性であれば、若しかしたら、皆さんいう事を聞くかもしれない。第一あなたは、水穂を病院まで連れていってくれたのではないですか。それができるという事は、きっとほかの人には出来ないこともありますよ。だから、お願いします。よろしく!」
蘭は、もう一回頭を下げる。
「蘭さん、頭をあげてください。わかりました。私が、やってみますから。蘭さんは、蘭さんが仕組んだという事は言わないでくださいよ。」
「そこでなにしているんだ?」
ブッチャーが、コーヒーをもってもどってきたので、二人は、何もない顔をして、テーブルにもどった。
その翌日。有希はもう一回やり直したいと言って、製鉄所に行くと言い出した。ブッチャーは、もう二度と、迷惑をかけるなよと言って、姉を製鉄所まで送っていった。有希は、パニックにさえならなければ、本当によくはたらく女なのであった。部屋の掃除、中庭の掃除、利用者達のお茶を出す、なんでもこなした。
「水穂さん。」
とりあえず四畳半にはいる。
「ご気分は如何ですか?」
「ええ、まあ。変わりありません。」
水穂が細い声でこたえると、
「変わりありませんじゃ、正直力が抜けます。」
と、有希は言った。
「さあ、食事が出来ましたよ。どうぞ、食べてください。この前と同じように、体にいいものを沢山作りました。」
有希は、持ってきたお盆を、枕元に置いた。ほうれん草にゼンマイと、ニンジン、もやしなどを沢山入れた、雑炊だった。
「とにかく食べてくださいね。そうしないと力がでませんから。食べるっていう事は、一番大事な事なんですよ。」
有希は雑炊を匙でくるくるかき回した。
「鶏肉味は苦手ですか?鶏肉でだしを取ったんですよ。だから、余分な添加物は一切使わないで煮込んだんですよ。」
丁度、玄関から四畳半にやってきた由紀子は、そのせりふを聞いてびっくり仰天し、すぐに四畳半に飛び込む。
「一寸!何をいうのよ!水穂さんに鶏肉何て食べさせないでよ!」
「そんなことないわ。鶏肉を直接食べるわけじゃないのよ。だしを取っただけなのよ!」
由紀子が発言すると有希もいい返すのである。
「其れだって危ないのよ!つくるんだったら、出汁何か取らないで塩だけで味をつけてよ!」
「そうしたら、味がなくて、つまらないモノになるじゃないの!それに、具材だって野菜だけにして、肉を使わないように気を付けたわ!」
二人の女はそういいあって、決着の着かないガチンコバトルを繰り広げるのだった。
「由紀子さんも有希さんも、変な喧嘩はよしてください。そういう事を言われても、うるさいだけで。」
ついには水穂が苦しそうに言って、二人の女は黙るのだった。女というモノは、どうしても、ワーワー騒ぐと、決着が着かなくなってしまうようである。
「確かに、過去に鶏肉の出汁で当たったことはありました。だけど、折角有希さんが作ってくださったんですから、いただきますよ。」
水穂はしずかに言った。
「だめよ、たべちゃったら!たべちゃったらまた当たっちゃうことになるのよ!」
由紀子が、急いでそれを止める。
「水穂さんも、誰かに考慮しすぎる必要は無いのよ。そんな事するから、いつまでたっても良くならないんじゃないの。」
確かにそれはそうなのだが、水穂はそうではないんだという顔をした。
「水穂さんも何か訳があるの?」
有希がそう聞いてみても、水穂は黙ったままだった。
「ダメ!言わせないで!」
由紀子がそういうので、有希もそれ以上の追及はしなかったが、
「此間、病院へ行ってきたとき、看護師の方が、言ってたわね。水穂さんの着ていた着物を見て、道路で、物乞いをしていた人が居たって。それと同じだって。」
と、そう呟いてしまう。由紀子は、彼女のその記憶力に、びっくりしてしまった。普通の人であれば、そんなせりふなんて当の昔に忘れている筈だ。そう見ると、由紀子は有希が少し怖くなった。
「そんなこと言わないでくれる?そんな大昔のことを言われたって、こっちは困るだけなのよ。」
とりあえず、其れだけ言って、由紀子は有希が用意したご飯を下げてしまった。そうして、咳き込み始めた水穂の背中をさすったり、たたいたりし始めた。有希は、どうしても、彼女が邪魔だと思ってしかたなかった。其れよりも、蘭に言われたことを実行しなくてはならない。そう、それをしなければならないのだ。
夕方になって、由紀子は水穂さんが眠ったのを確認して、自宅へもどっていった。有希は、もう少しそこに居たかったが、もう帰らないと、いけないことになっていた。有希は、製鉄所に住み込みは認められていなかった。
「明日か。」
と、有希はそっと呟いた。そう、その明日に、重大なイベントが待っている。そのイベントに連れ出して、大事な伝言をすること、これが、有希に蘭から課せられた使命だった。
「あたし、絶対に実行させて見せるから。」
有希は、蘭がそばに居たら、蘭にいうような調子でそういった。
「よし、行こう。」
有希は水穂さんに布団をかけなおしてやり、自分も自宅へ帰っていった。何だか突撃に行くようなつもりだった。
次の日。有希はいつも通りに、製鉄所にやってきた。またいつも通りに、部屋の掃除をして、中庭の掃除をして、言われたことを器用にこなした。ほかの利用者たちも、あの人はよく働くなあと感心するほど、有希はよく働いた。
その日は、夕方になってから、彼女はもっと元気になっていくようだ。何か気合を入れているのかなあと、利用者たちは、不思議な顔をして彼女を観察する。
「須藤さんは、何をしているのかなあ。」
「何だか、何か重大な任務を抱えているような気がするぞ。」
「水穂さんに何か、ないといいんだがなあ。」
利用者たちは、そんな噂をしていた。
やがて、暫くして、そとは薄暗くなってきた。秋の日暮れは、来るのが早い。それを待って、例のイベントが開催されるのである。
丁度、お寺の鐘が五回なると、何処からか、カラオケ大会が行われているのが聞こえてきた。中には、プロの歌手も顔負けと思われるほど、歌のうまい人がいる。最近は、恋愛歌よりも、人生の応援歌のような歌を歌唱する参加者が多く、製鉄所の利用者たちは、いい歌だなあ何て、話していた。そう、今日は、近隣の神社の秋祭りなのだ。
利用者たちは、歌のうまさに魅了されてしまって、製鉄所で起こったある変化に気が付くことが出来なかった。
「こんばんは。」
と、玄関先で声がして、由紀子がやってきた。この時間にやってくるのは、いつも通りなのだ。ただ、周りは暗くなって、星が出ているという光景に変わっているだけである。
由紀子は、真っ先に四畳半に向かった。またあの有希という女性が、水穂さんにお節介を出しているのだろうと思った。ところが、ふすまを開けると、布団は敷いてあったが、水穂さんの姿はない。
「水穂さん!何処に行ったの!」
由紀子は、急いで製鉄所の中を探したが、何処にもいない。風呂にも、台所にも、憚りにも。それに、利用者たちはいたが、有希の姿もなかった。利用者に聞いてみたが、有希は確かに昼間ここにきて、床の掃除をしていたという。それでは、有希が水穂を連れ去ったという事か。
「水穂さん!水穂さん!」
由紀子は、血相を変えて、製鉄所を飛び出していった。
まもなく。
ドーン、ドドーンという音が相次いで聞こえてくる。其れに応じて、おお!と歓声を立てているのが聞こえて来た。つまり、花火大会が始まったのだ。これが今年最後の花火とこの土地では言われていた。
「ここなら、誰にも邪魔されないわ。」
神社の境内にある、本堂から少し離れた所に植えられていた大きな木の下で、有希と水穂は座っていた。
「一体ここへ連れてきて、何をするつもりなんですか。」
水穂は、有希に聞くが、有希はこたえない。その代わりに、
「ねえ、水穂さん。ここに来たのは、大事な話をするためなのよ。あたし、大事な連絡を預かっているの。」
と切り出した。
「もう、ここで寝ているだけでは、良くなりはしないわ。周りの人にこれ以上負担をかけないためにも、どこか良い病院を見つけて。」
と話したが、返事は返ってこなかった。その代わり、聞こえてきたのは、激しい咳であった。大丈夫?と有希が聞いても、言葉は出て来なかった。
「水穂さん、大丈夫!」
有希が背中をさすっても治まらない。これでは、もう帰った方がいいのではないかと思われた。有希は、来た時と同じように、ヨイショと水穂の体を御姫様抱っこ様に抱きかかえた。
「じゃあ、帰ろうか。」
有希は、製鉄所に向かって歩き始めたが、花火大会を見ている群衆のせいでなかなか前に進めないのだった。とにかくすみません、すみませんとでかい声で言いながら、群衆をかき分けて行こうと思った。有希は、想定していないことがあった。行くときは、まだ人が来ていなかったから、すぐに木の下へ行くことが出来たのだが、途中で帰ろうと思うと、ものすごい群衆の中をかき分けて行かなければならないという事だ。これをかき分けていこうとなると、たいへんなことになるということも想定していなかった。
「水穂さん!水穂さーん!」
遠くで誰かが呼んでいる。有希はその声のする方へがんばって足を動かした。すみません、すみません!と叫びながら。
「何やっているんだよ!こんな時に、花火を見るのを邪魔しやがって!」
と、チンピラのような若い男たちがそう言っている声が聞こえてきたが、有希は其れも無視して、群衆の中を進んでいった。チンピラたちは待て!などと怒鳴っていたが、有希が何も反応しないので、諦めて帰っていった。有希はそうやって咳き込んでいる水穂さんを抱きかかえたまま、何とか神社の入り口の鳥居のところにたどり着いた。
「水穂さん!」
丁度鳥居の所にたどり着くと、街灯の明かりの下に、駅員帽がみえた。その駅員帽と、その声色から、由紀子が自分を探しにきたのだとわかった。
「由紀子さん!由紀子さん!」
おもわず有希もそう声を立てる。
「由紀子さん!」
その言葉を聞いて、駅員帽が、こちらを向いた。駅員帽の下の顔は、間違いなく由紀子さんだった。
「こっちよ!」
それを聞いて由紀子の目にも、有希が水穂さんを御姫様抱っこように抱えているのが確認できた。由紀子は、水穂さんに酷いことをした有希に、馬鹿者!と怒鳴りつけてやりたかったが、それをぐっとこらえて、
「水穂さんを製鉄所へ戻しましょう。」
とだけ言った。
「でも、病院へ行かなくちゃ。もう、こんなに汚れて。」
水穂さんの着物の襟は、吐いたもので濡れていた。
「いいえ、だめなの!」
由紀子はそこだけ強く言う。この言い方を聞いて、有希はそれではいけないということが直感的にわかった。でも、ほかの人がよく言う「歴史的な事情」まで有希の勘は彼女を導いてくれなかった。
「早く製鉄所にもどるのよ!そして、口の周りについたモノを拭いて、着物を取りかえるの!」
「は、はい。」
有希は、由紀子さんに言われたとおり、製鉄所へ向かって歩き出した。有希も由紀子も、その道は遠い遠い道のような気がした。
ようやく製鉄所にもどった時、利用者たちも心配していて、入り口のところで何人かの利用者が待機していた。由紀子がもどってきたわよ!と言って、正門をくぐった時は、何だか貴人が館に帰って来るのを、使用人たちが迎えている光景とそっくりだった。
「さ、とにかく布団に寝かせて!」
由紀子の指示により、有希は四畳半にもどって、布団のなかに寝かせてやる。そして、言われたとおり、口の周りにべったりとくっ付いていた血液を丁寧に拭き取って、新しい寝間着に取り換えてやった。この時は、由紀子も手伝った。由紀子が枕元にあった、吸い飲みの中身を飲まると、やっと楽になって、しずかに眠ってくれた。
「どうして、あんなところに連れて行ったの?」
由紀子がふいに有希に聞く。
有希は、答えを言わなければならないと思ったが、それを言ったら、由紀子にしかられてしまうような気がしてきた。蘭さんに言われたことは、失敗だった。でも、由紀子さんに蘭さんに言われたことを話したら、蘭や弟の聰まで被害にあってしまいそうな気がした。いつもの彼女なら、判断にまよってパニックを起こす可能性もあったが、今日はそれをしようという気にはならなかった。
「言いなさいよ。あなたがしたことから逃れていたら、解決しないわ。」
由紀子にもう一回言われて有希はこたえた。
「ええ、水穂さんに花火を見せてあげたかったのよ。でも、夢花火だったわね。」
夢花火 増田朋美 @masubuchi4996
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