第9話 玄関

傷ついていた。単純に、俺があんなことを言って夕を傷つけたことに。

玄関を出ると、朝日が鬱陶しいくらいに俺を照らして、焼きこがそうとする。お前に焦がされなくても罪悪感とかそういったもので自分で勝手に焦がされそうだよと思った。

明日は休みだったが、とても休み手前だから頑張ろうとかそんな気にはなれなかった。

「…夕…。」

ぼそっと呟いて連絡先を表示したまま指でなぞる。我ながら女々しすぎて気持ち悪い。

夕、朝日が綺麗だぞ。俺には眩しいけどな。

朝ごはん、ご飯炊くの忘れてたんだ。ルーサーも炊いといてくれてなかったよ。

エレナっていう妹がいるんだ。結婚したよ。俺より先に。

そんなどうでもいいことでもアイツと話したくて、気持ちを共有したくて、車の中でもチラチラとスマホを見てしまう。

「いや…俺…。」

こんなやつだったか?絶対違うだろ。その辺の女食って金だけ置いて帰ってたのによ。ひどい話だ。それがしっくりきていたなんて思っていないが、ここまで女々しくなると泣けてくるものがある。ここまで人に執着して、心を動かして、心配したり、愛でたくなったりしたのは初めてだった。18という頼りない女の子に、28のおっさんが何をしてるんだって話なんだよ。本当に。

車を走らせていると、通知が鳴る。

夕か、と思って急いでスマホを手に取る。運転中だったと思い急いで戻す。

赤信号で止まって見たときに"月"の名前が表示されている。

"明日からホテルの部屋を出て、一人暮らしの手続きをりゅーさんとすることになったよ"

そうか。月もいよいよ自立への1歩を踏み出すんだな…。

"よかったじゃん。"

"今日はお仕事?"

"ああ。"

"少し会えない?"

固まる。会えないわけじゃない。この間みたく18時頃に終わることができたら会えるし。でも今日は先約があった。

"悪い、今日は無理だ。"

俺はとことん弱い人間で、さなや、ひじき女からの誘いが後を絶たず、そっちとの約束を優先させている。

"今日、したい。"

さなから連絡がくる。多分アイツは前のままの生活を送っている。俺も戻りつつある。結局、いつしか月が言っていた、本当の愛、とやらはまだわからないままで、夕への気持ちのやり場を他の女に向けている。

「もしもし、右のホテルいるけど。」

「今着いたけど。501な、わかった。」

扉を開けると髪色が暗くなったさなが現れる。会うのは約1ヶ月ぶりだった。

「もりさん…、私、刺青やめたよ。」

首をサッと触るとたしかになくなっていた。

「か、髪の毛…も。」

「ああ、暗くなったな。いいんじゃない?」

褒めると嬉しそうに顔を綻ばせ、あのねあのね、と続ける。

「髪の毛、ブリーチしてたんだけど、やっぱりくらい方が、せーそ?っていうか、いいかなって思ってね。」

内から溢れた笑顔を見て、さなの本性というか、性格が開花してきたように思えた。

「おう、いいよいいよ。お前、結構喋るよな。」

「…そ、そう?喋る…のかな。」

「あれから似たような生活続けてるのか。」

「ううん、もうやめたの。もりさんだけ。」

「これまたなんで。」

固まった目で俺を見つめる。

「…誰とでもすればいいってもんでもねえし。」

「そうか、幸せになれよ。もうあんなことすんな。」

俺が言えることなのかよ。あまつさえ、さなの幸せを妨げてるくせに。

「もりさん、気になる女とかいないの。」

「…いないことはないけど、気持ちを向けられても、気まずい相手がいるんだよ。前、思わずやっちまったけど。」

「え…気持ち知っててしちゃったの。」

「ああ。付き合うかどうか聞かれて迷ってる。多分、付き合わないと思う。」

「え。シンプルに最低…。」

さなに言われるといよいよ俺も最低の底辺を歩いているんだなと実感した

「俺は…愛されすぎると辛いんだよ。それに、アイツはまだ若いし、こんなやつじゃなくてももっと良い奴がいるよ。それは単に俺の主観とかじゃなくて、あいつのためを思ってだ。絶対あいたは俺に依存するってわかってるからな。」

それを自分で言うのね、自信があってよろしいこと。と、普段使わない敬語をぼそっと使う。女って怒ると敬語使うの?怖いんだけど。

「それならそれで、早く振ってあげることね。このままだと、その子が壊れちゃうわ。」

あったことも無い月のことをわかった口を聞く。嫌な気がしているとかではなく、単純にそうだなと思ったし、やっぱり女はよく人のこと見てるなと思った。

「まさか…今日も私を優先させたとかじゃないよね…?」

「あ?…ああ、いや…。」

嘘が下手くそなのは俺が1番知っている。

「やだ、信じられない。そんなに女としたいわけ?」

「バカ、お前、それ言ったら…。」

良くないだろ。俺が人の気持ちをまるで考えてないみたいじゃないか。

月が綺麗に輝き出した。さなの背後から満月の光が照らされる。逆光になっているが、さなの顔が俺を拒絶しているのがわかる。

「あのさ…わかったような口聞くつもりないけど、あんた、もう少し人の気持ち考えられるようになったと思ってた。誘ったのは私だから強く言えないけど、今からでもその子のところ行ってあげなよ。私はいいから。」

自己犠牲。

承認欲求。

そう言ってしまったら怒られそうだが、コイツのいいとこでもあり悪いところだ。そんなに人を優先してどうしたいんだよ。いつか嫌な目に逢うぞ?

「…わかったよ。でも今日はお前を抱く。どうしても消化できない気持ちがあるんだ。」

だめと言われてもいい。大人気ないと言われてもいい。俺は自分のしたいことを優先したい。

さなもアイツのとこ行けとか言っていたくせに、いざとなって俺が手を近づけると縮こまってハグをしてくる。俺がしたいのはこういうことだ。

月のことは時間をかけて考えたい。夕のときみたいに傷つけたくない。無意識にそんな思いがよぎったような気がする。

口を合わせ、まだ少し跡が残ってる首を数回キスする。なにが良くてとか、俺でいいのかとか。そんなことをもう考えなくなった。もう考えることに疲れてしまった。人を傷つけたくなくてただ今を過ごすことに必死だ。

さなが頬に手を触れる。

「ねえ。やっぱり今日はしない。あんた…。」

言いたそうだが全部は言わない。俺の頬についた水滴を丁寧に拭き取る。

「私、なんでか分からないけど、今はあんたが私としたいように思えない。それが欲がどうとかそういうことじゃなくて。」

こうしてさなも俺を置いていく。自分のことも人のこともよくわかっていない。そんなに不器用でも人のことを思いやろうとする。そんなさなに必死に気持ちを測られている。たまったもんじゃない。

「…ごめん。俺…今日は行くわ。」

金をバサッと置いて服を手早く着る。情けなくて情けなくて、水滴が頬を伝ったり、ふかふかの絨毯に滴っりする。鼻は啜りたくなくて必死に息をこらえる。辛い。人のことを思ったり考えてりするのって。苦しくてただ逃げたくて。逃げてきた先は絶対に安心とは限らなくて。逃げても逃げても壁にぶち当たる。

「ねえ。」

さなが後ろからそっと抱きしめてくる。

「…あんたなら大丈夫。落ち着きんね。」

カタカタ震える手で俺の背中をさする。

「辛くなったらいつでもおいで。」

俺が言いたかったことをためらいつつサラッと言えるコイツが羨ましかった。

俺はしばらくすると、すっと手を解き、歩いていく。

「ありがと。」

自分の声の小ささに驚いたが、さなはさらに小さく、うん。と答えた。

車を少し走らせる。20分もかからずに着く。いつもの仕返し、という訳では無いが月に電話をする。

「…もしもし、もりさん?」

「俺だ。悪いな。今から会えるか。」

「…?いいよ、いつものホテルで待ってるから、部屋今掃除してて、裏口の玄関でもいいかな…?」

「ああ、俺はどこでもいい。そこで待ってろ。」

とは言ったものの、裏口の玄関は行ったことがなくてしばらくウロウロしてしまう。待たせているというプレッシャーから更に焦ってしまう。

「よう、おまたせ…。」

かっこ悪いほど汗をかいて、月は汗かいてるよ…とふわふわのタオルで拭いてくれる。

俺は急に恥ずかしくなって早々にタオルを受け取った。

「悪いな。自分で拭くわ。」

「もりさんどうしたの?お話?」

「…あ、ああ。大事なお話だ。」

月は少し下を向きつつ、手を俺に近づけて月の胸に当てさせる。

「嫌な…予感がする。心臓も嫌な音…立ててる…。」

月の目から涙が溢れそうになる。

「嫌な…お話?」

「お前にとって良い話で悪い話だ。」

ふっと笑う。それどっち?と言う。

「俺たち、恋人にはなれない。お前のこと好きだ。大事だ。だけどな、世の中価値観とか、色々事情があるんだ。好きだけじゃどうにもならないことがある。お前を待たせていいほど俺はいい男じゃないよ。恋人のような関係を期待してるなら、別れよう。」

月は泣きじゃくっている。お前のためなんだよ。分かってくれよ。

「もりさんは…っ私の事、好きだった…?」

裏玄関のくせにやけに広くて切ない声が更に切なく震えて響く。

「ああ、大事にしたいと思ってたし、俺には勿体ないくらいの女だったよ。それは間違いない。でも俺は無理して欲しくない。お前はもっと気楽に居させてくれる相手がいいよ。」

「…好きだったら無理したいよ…。」

「いや、だめだ。」

断固として譲らない俺の意見を恨めしそうに見つめている。

どうして、どうしてなの。

そう伝わってくる。

「ごめん。俺の力不足だ。ごめん。」

許してくれ。俺だってお別れはしたくない。

「私…明日から、どう生きていけばいいの…。」

「それは…俺にも分からん。」

生きていくしかない。そういう強さもお前には必要だ。かなり酷な話だとも思うが、俺にできることはそれくらいだと気づいた。

月はしばらく綺麗な目から綺麗な悲しい涙を流していたが、やがて疲れきったように泣きやんだ。

「そういうことなら…いいわ。今は、お別れじゃなくて、いつかまた会える日までの解散、にしたいな。」

表向きだけでも、そうさせて。と付け加えた。

「わかったよ。ありがと。」

未練を振り切るように歩き出す。車のキーがチャリっと鳴る。

広い裏玄関から出るには何歩も歩かなくてはいけなくて、それがまた俺の心を揺さぶり引き留めようとする。

自動ドアがぐわあんと壮大な音を立てて俺を闇へと吸い込ませる。

今日はいやらしいくらい綺麗な満月だった。

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