// 24 ジャバウォック

「ツバサ……」


 放心したように半開きの口から、今まさに目の前から消えてしまった親友の名前が弱弱しくこぼれ出る。

 救急車の中へと運ばれる寸前の、血にまみれたツバサの顔が眼に焼き付いていて、焦点の合わない視界に幻影のように浮かんでいた。

 あの尋常じゃない出血、気を失うほどのショック。どちらも、普通ならストラグルが原因で起こるようなことじゃない。

 とすれば、ツバサはなんらかの異常事態に巻き込まれたということだ。MR・e-スポーツという対戦競技の枠組みを超えた、何らかの異常に。


 力の抜けた手足に無理やりと気力を巡らせ、僕はゆっくりと立ち上がった。

 救急車が発車するや、僕らを囲んでいた野次馬たちは呆れるほどの早さで解散し建物の中へと消えていったので、この場には僕と、もう一人の幼馴染の少女が残されているだけだった。

 僕はおぼつかない足で嗚咽を漏らすユーリの元へと移動すると、彼女の震える細い肩に手を置いた。


「ユーリ!大丈夫!?何が……一体何が起きたのさ……!?」


 僕の問いかけに、ユーリはすぐには応えなかった。後から後から溢れてくる涙と嗚咽は、気が強いはずのユーリがどれだけ大きなショックを受けているのかを表していた。

 きっと、ユーリはツバサに起きたことを間近で見たのだろう。旧知の親友があれだけの血を流し、意識を失って倒れれば誰だって冷静じゃいられない。遠くにいただけの僕なんかよりも、ずっと不安で怖い思いをしたはずだ。


 僕は泣き続けるユーリの背中をそっとさすりながら、彼女が落ち着くのを待った。一分ほど経ってから、ユーリは俯いていた顔をゆっくりと持ち上げ、僕の方へと振り返った。


「ススム……ごめん……あ、あたし……」


 そう零しながら振り返ったユーリの顔は、いつもの快活で勝気な笑みは見る影もなく、真っ赤に泣き腫らした目と涙でぐしゃぐしゃだった。

 こんな風に泣くユーリは見たことがなかったし、できることなら、永遠に見たくなかった。


「いいよ、落ち着いて……何があったのか話してよ……。ツバサ、なんであんな血まみれに――――」


 そう、言いかけた時だった。



「あー、あーァ。こりゃまた大事になっちまったもんだなーァ。いや、事故ってなぁホントこわい!」



 悪意が言葉を喋るとしたら、きっとこんな声色だろう。


 反射的にそう思ってしまうほど、白々しく、嘲笑うような声が背後から飛んできた。

 はっとして振り返った先、ゲームセンターの入り口から少し離れた位置の壁に、一人の青年がにやにやと嫌らしい笑みを口元に浮かべてもたれかかっていた。

 特に奇抜な様相というわけではない、どこにでもいそうな高校生くらいの青年。黒いズボンに濃い紺色のウィンドブレーカーを着こみ、髪はくしゃくしゃに丸めたノート用紙のように癖のついた、くすんだ灰色の短髪。首には、黒いシンプルなデザインのチョーカーを巻いている。

 角度と長い前髪に隠れて眼は見えないが、嗜虐的な笑みを浮かべた口元が友好的な意図は微塵もないと明確に告げてくる。


 ゲームセンターの前を行き来する人間は他に何人もいたのに、僕には、先ほどの声があの青年のものだとはっきりと分かった。


「いやいや、さすがにオレも驚いたよー。対戦相手がいきなり血ぃぶちまけてぶっ倒れるなんてなーァ。海外にゃあ自分の血で作品を描くイカれた画家もいるって話だけど、さっき運ばれたイケメン君もそのクチだったりするワケ?」


 悪辣な口ぶりで青年が話しかけているのは、どうやら僕ではなく、隣で泣くユーリの方らしかった。


 と、察するのとほぼ同時に。


 すぐ隣でへたり込んでいたユーリが突然、弾かれたように振り返り、涙の筋が残る瞳を青年の方へと真っ直ぐに照準して、殆ど走るようにして青年へと向かっていった。そして、華奢な右腕をぶんと振り上げると、拳を固く握りしめて青年の左頬目がけて引き絞った。


「ユーリッ!」


 少し遅れて立ち上がった僕は、ユーリが拳を振り上げるのを見て咄嗟に彼女の腕へと右手を伸ばし、左腕を羽交い絞めの要領で脇の下に滑り込ませた。

 女の子の細腕とは思えないほどの膂力で青年の顔面へと突き出されようとしている右拳を、間一髪腕ごと掴んで止めると、僕はなおも息を荒くさせて青年へと掴みかかろうと暴れるユーリを引き離すように数歩下がった。


「この……!よくも……ツバサをッ……!!」


「おいおい暴力はんた~い!血の気の多い女だなァ、まったく。顔が多少良くても性格男じゃ駄作だな。神さんもつくづくセンス無え」


 殴りかかろうと暴れるユーリからひらりと軽い足取りで距離をとりながら、灰髪の青年は挑発するようにせせら笑う。

 その態度に、自分の胸の奥にも焼けるような感情が湧くのを感じながらも、僕は全力で腕を振り払おうとするユーリをなんとか落ち着けようと両腕に力を込めた。


「ユーリ、落ち着いて!喧嘩はダメだって!」


「離してススムッ!あいつが……ジャバウォック・・・・・・・がツバサを……ッ!!」


「……!」


 暴れるユーリが口走ったその名を聞いた瞬間、頭を殴りつけられたような衝撃が僕の全身を走った。

 そして、それによって一瞬気を抜いてしまったのか、ユーリは抑える僕の腕からするりと自分の腕を引き抜くと、再び灰髪の青年へと激流のように突進していった。

 僕が止めに入ったことで完全に油断していたのだろう、青年は一息に距離を詰めてきたユーリに反応が遅れ、一秒後に閃くような速度で突きこまれた拳を躱すことができず、痩せた左頬にまともに一撃食らったようだった。


 小さく呻きながら後ずさる青年に、さらに追撃しようとするユーリを今度こそ止めるべく、僕はユーリの背中へと駆け寄って腕と腰に手を回して力いっぱい引っ張った。


「ユーリ!よせってば!」


 重心を低くして精一杯腕に力を込めると、ユーリはバランスを崩したようで尻餅をつくように後ろへと倒れ込んだ。背後にいた僕もつられて倒れ、二人してコンクリートの地面に転がる。


「どうしたっていうのさ!?喧嘩なんかしたら、大会失格になっちゃうじゃないか!?」


 仰向けに倒れた幼馴染の耳元でそう叫ぶと、ユーリは音が聞こえそうなほど歯を噛みしめながら、怒ったような、悔しそうな表情を浮かべて黒い瞳を再びうるわせた。


「あいつ……私の【イゼル】を……それにツバサまで……」


 涙声でうわごとのように話すユーリの言葉を、僕は頭の片隅でなんとかつなぎ合わせようとした。

 イゼルは、確かユーリの新作のArtsの名前だったはずだ。一週間前から今日の大会まで何度も対戦しているので、その美しい戦乙女型Artsアーツの姿は鮮明に覚えている。

 そのイゼルを、一体彼――――ジャバウォックがどうしたというのか?


「イゼルが――――――」


 ことの詳細を聞き出すため、重ねて目の前のユーリに問おうとした時。

 僕は、とっさに視界の隅に移ったものを遮ろうとしてユーリの服の肩の部分を思い切り引っ張り、逆に自分は前に乗り出して、ユーリと、薙ぐように飛来してきたスニーカーのつま先・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・の間に割って入った。


 次の瞬間、がつっ!と籠った音と共に、視界が二重、三重にレイヤー分割したようにぐらついた。遅れて、左の脇腹に鈍い痛みが発生し、やせっぽちの身体が大きく傾く。


「ススムッ!!」


 蹴り飛ばされ、地面を擦るようにがると、後ろからユーリが悲鳴混じりに僕の名を呼ぶのが聞こえた。痛みで焦点が合わない視界の端で、濃紺のウィンドブレーカー姿の青年が足を振り抜いた格好で立っているのが見えた。


「……ってーなァ!ザコ女がこのオレに何してくれてんの?ランク100位内にも入らねえザコデザイナーがさァ!」


 静かだが、明確な憎悪のこもった声が僕と、僕の後ろのユーリに向けられる。

 しかし、頑固で正義感の強い幼馴染も、その口ぶりに怒気を込めて叫び返した。


「あたしがザコならアンタはクズデザイナーよ!他のデザイナーの大切なArtsアーツをわざと壊して、一体何が楽しいのよ!?挙句……ツバサをあんな目にッ……!!」


 Artsアーツを――――壊す?

 壊すというのは、文字通りの意味だろうか?だが、ストラグルのシステム上、対戦相手のArtsアーツに攻撃を加えても設定されたHP残体力が減るだけで、それ以上どうなるわけでもないはずだ。


 他に、Artsアーツを壊す方法があるとすれば――――


 そこから先の恐ろしい思考は、脇腹に未だ残り続ける痛みによって遮られた。


「憶測でもの言ってさらに殴りかかってくるとか、イカレ女か?お前の女型Artsアーツも、さっきのイケメンくんのメカ鳥Artsアーツも、オレが破損させたっつー証拠でもあんのかよ!?対戦相手のチップが"たまたま"!調子悪かったんだよ!おまけにストラグル中に血ぃ吹いてぶっ倒れるとか、むしろこっちが迷惑だぜ!見たくもねー汚ったねえ血みどろ見せられた挙句、トドメも刺す前に不戦勝なんてよ!相手のHPを消し飛ばすあの瞬間が一番おもしれーってのにさァ!!」


 露悪的な言い回しで、青年はユーリに向けてまくしたてた。自分の潔白を主張するようなその内容とは対照的に、彼の口元は口論を楽しむように歪んだ笑みを浮かべていて、長い前髪の隙間からちらりと見える眼も、本気で怒るユーリを嘲笑うような視線を送っていた。


 煽るような青年の物言いに再び沸点に達したのか、ユーリは短く唸るような怒気を漏らして前に出ようとする。昔から、友人を傷つける相手には頑として譲らない勝気で優しい性格の彼女だからこそ、青年の侮辱的な言葉には冷静ではいられないのだろう。


 でも、これ以上暴力沙汰を起してはいけない。僕は蹴られた脇腹の痛みを無視して立ち上がり、それを制止して二人の間に割って入った。


「あなた……【ジャバウォック】ですよね……。3年前まで、トレイルブレイザーの有力候補って言われてた……」


 取っ組み合いで乱れた呼吸を少しずつ正しながら、僕は目の前に立つ青年に尋ねた。


「お、連れのメガネくんもオレの事知ってるわけね。けどさぁ、目上の人間には『さん』を付けて呼べって教わんなかったかァ?オレの最高ランクは12位、メガネくんは顔に覚えもねえし、どうせ連れの暴力女と同じ才能なしのザコデザイナーだろ?序列は大事だぜ、なぁ」


 ゆらゆらと芝居がかった動きで首を傾げ、挑発するような視線を送ってくるジャバウォックに、しかし僕はペースを乱されないようできるだけ冷静に、落ち着いた口調で言い返した。


「……あなたの現在のランクが、最高ランクを記録した3年前から大きく落ちていることは知っていますよ。大会で当たりそうなデザイナーのランクやArtsアーツはチェックしてますから……。あなたの現在のランクは422位――――さっきあなたが言った論理で言うなら、100位以内にも入らないザコは今のあなたも同じです」


 ささやかな反撃の意思を込めて言い放つと、ジャバウォックは一瞬だけ眉間にしわを寄せたが、すぐに嘲笑うような表情を戻して長い前髪の隙間から対峙する僕を睨みつけた。


「へぇ……弱そーなナリの割に言うね。確かに、今のオレのランクはだいぶ下まで落ちちまってるが……だからってよぉ、別にお前らと同列になったわけじゃねーんだぜ?才能のねぇお前らと違って、俺は一度登ってるからな。それに……さっきのイケメンくん、現行ランキング第9位のハイランカーだそうじゃねぇか。それをついさっきぶちのめした時点で、お前らとの才能の差は歴然ってワケ。わかったかな?」


「…………」


 ジャバウォックの主張に一瞬口ごもると、今度は後ろからユーリの怒号が飛ぶ。


「ふざけんな!不戦勝で勝っただけでしょう!?アンタみたいな、他のデザイナーもArtsアーツも尊重できない奴は、どれだけランクが上がっても底辺のクズデザイナーよ!」


「あーあー、非論理的でしかもヒステリー。これだから女ってのはよぉ……。勝ちは勝ちだし、他人のArtsアーツをどう思おうが俺の勝手だろうが。さっきも言ったけど、オレが対戦相手のArtsアーツを破損させた明確な証拠があるワケ?予選で当たった連中のArtsアーツがみーんなぶっ壊れたっつって、運営にクレーム入れられて迷惑してんのは俺の方なんだよ!対戦中のNinephニンフは不正ツール防止のためのモニタリングが常時行われてんだから、スキャンに引っかからなかった俺はシロ確定、逆恨みも甚だしいっての」


 挑発的な口調で言い返すジャバウォックに、ユーリも反論の言葉に迷ったようだった。悔しそうに歯を噛みしめる音が、すぐ後ろからかすかに聞こえた。

 ジャバウォックは口を閉ざす僕らの様子を愉快そうに眺めていたが、何も言い返してこない僕らに興味を失ったのか、一度大きな溜息を吐いてくるりと踵を返した。


「じゃ、オレ明日の決勝あるしもう帰るから。さっき殴った件は運営に動画付きで報告しておくんで、せいぜいSNSの炎上を楽しんでね~ザコ共」


「ちょ……待ちなさ……!」


「ユーリ……ッ!」


 その場を後にするジャバウォックの背中を追いかけようとするユーリを制止しながらも、僕もその濃紺のウィンドブレーカーの背中をぎっと睨みつけた。


 ツバサの負傷、ユーリの涙。

 その両方の原因の中心に、ジャバウォックがいるのはこの数分のやり取りの中から明らかだった。

 彼があれほど明確な悪意を持って挑発してくる理由は、きっとユーリが知っているのだろう。

 僕がいない間に何があったのか、まずはそれをユーリから聞かなければならない。


 ジャバウォックの背中が人ごみに紛れて見えなくなったのを確かめてから、僕はふらつく足元を何とか抑えつつ、後ろを振り返って問いかけた。


「ユーリ、大丈夫?怪我とか……してない?」


「うん……」


 まだ顔に怒りと悔しさを滲ませながらも、ユーリは落ち着いた声色で応えた。


「ごめんススム……あたし……」


「あ、謝らなくていいよ!それより……一体、何があったの?ツバサがああなったのは、ジャバウォックが関係してるの……?」


 桜色の唇を噛み、俯くユーリに僕は問いを重ねる。

 ユーリは辛い記憶を引っ張り出すように俯いたまま数秒黙り込んだあと、呼吸を落ち着けるように小さく息を吐いてから口を開いた。


「あいつ……ジャバウォックが関係しているのは間違いない……と思う」


 答えたユーリの瞳は、迷うような、自信のなさそうな色を浮かべていた。


「どこか、座れるところに行きましょう。最初から説明する」


 そう言うなり、ユーリは僕のパーカーの袖をそっとつまんで引っ張り、ゲームセンターの入口へ向かって歩き出した。

 急に引っ張られつんのめりそうになりながらも、僕はその後を黙ってついていく。


 振り返る瞬間無二の親友の横顔に見えた、泣き腫らした目元の赤色が、嫌になるほど鮮明に僕の瞳に焼き付いていた。

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